第七十九話:王の領域
鬱蒼とした森の中──拠点を遠く離れた場所を、悠達は歩いている。
現在の時刻は昼前と言ったところか、本来最も明るくなってくる頃合いだが、中心部に近づいた森の中はなおも暗い。
現在悠達は中心部に近い川の畔で一夜を明かし、少し遅めの出発をしてしばらく経った……という状態だ。
遅めの出発をせざるを得なかったのは、太陽の光が高い樹で遮られ、文字通りに『朝が遅かった』ためである。
しかし、遅めの出発をしたにもかかわらず、悠達の行進は順調だった。
「……また石柱だ。段々間隔が狭くなってきているな」
それもその筈。目印となる石柱は目的地に近づくにつれ数を増やしており、まっすぐに目的地を目指すことが出来たからだ。
「じめっとしたあつさもすごいですね……こまめに水をのまないと、たおれそうです」
「大気の魔力も濃くなってきてるよ。近づいてきてるのは、間違いないと思う」
伴って、環境はより劣悪になってきている。
この暑さだと、流石に悠でさえ厳しい。
三つ──いや、二つ嬉しい誤算があったのは、石柱の間隔から察するに目的地が近い可能性が高いということ。
石柱の間隔だけで判断すれば、目的地から仮のキャンプ地まで戻る程度は出来るかもしれない。
「たった一日なのに外縁部が懐かしく感じるわね」
「帰ったら海で水浴びをしたいな……」
二つ目の理由としては、それでもまだ少しだけ余裕があるということだ。
暑さは発汗を促し、体力を消耗させるが、軽口を叩きながら歩く程度の余力はある。
この極圏に来てからまた魔力の総量が上がったからだ。魔力を消費できればある程度防暑或いは防寒の効果があるのが、冒険者用の衣服の特徴である。
だが──懸念事項も、また一つ。
悠達の行進が順調な最後の理由が、それである。
「にしても……魔物の一匹も出やしねえのは流石に不気味だな。代わりに果物が豊富ではあるみたいだけど……余計に不自然だ」
最後の理由にして、唯一の懸念事項──それは、魔物の存在であった。
ここ、不帰の楽園は中心部に近づくほど強い魔物が生息するという極圏の特徴が顕著だ。だがどういうわけか、中心部に大分近づいた今では魔物の声すらしないのである。
悠が言ったとおり、果物などの実りは良い……食べ物に恵まれているにもかかわらず、だ。
「暑い中戦わなくても住むのは助かるけど、やっぱりヘンだよね」
「ああ。幾ら暑いったって、こんだけ食べ物が豊富なら無理してでも住み着くメリットはある。なのになんで何も居ないんだ?」
競争相手も少なく、食料に恵まれている。暑いというのはさほどの問題になるまい、世代交代などによって、長い時間を経て環境と共存していくのが生命の強さだ。
不協和音の様な居心地の悪さは、自然と安心ではなく、不安の材料となっていく。
それはそうだ。『生物が住めない何らかの理由』が存在することになるのだから。
「念の為、ちょっとでもヤバい雰囲気を感じたらすぐに言ってくれ。全力で離脱する」
その大きさがわからない以上、慎重過ぎるということはない。生きて帰りさえすれば再攻略の機会は何度だってあるし、より多くの情報を集めた上で臨めるからだ。
頷きあって、互いの意思を確認していく──
ちょっとしたミスで死にかけた経験のある身として、共有する意識は同じだ。
それからしばらく、悠達は歩き続ける。
不思議と、歩き難さもまた、あまり感じなかった。石柱が植物を引き寄せ、ちょっとした獣道状態になっていたからだ。
……だが、道がずっと平坦なのは、人が作った道だけだ。それだって、均しきれない坂道くらいはある。
どういうことかと言えば──平々凡々、障害のない道などない、ということである。
「……っ!」
咄嗟に、後ろを振り向いたのは悠だ。視線の合ったクララ達の首の横を通り抜け、通った道を睨みつける。
「気づいたか、ユウ。こちら(野生)の事に関しては、キミの方が一枚上手のようだ」
一拍遅れ──カティアが武器を抜く。
悠が最初に感じたのは──においだった。
いや、物質がどうとかではない。気配として感じ取ったそれのイメージが、獣臭だったのだ。
「シエル」
「ええ」
手で制するジェスチャーで、シエルにクララとアリシアをカバーさせる。
──そう、理由としては、メジャーなモノだ。
恵み豊かな地に動物が寄り付かない理由。
それが『敵』の存在だ。
「コロロロロ…………」
喉を均しながら、茂みの中から姿を表す。
思えば、既に悠達は一度経験している。無人の豊穣の大地──いや、台地を。
すなわち、静寂の理由とは──絶対的な暴君の存在。
「バオオオオッ、バオッ」
鼻息荒く、紅い眼を輝かせるのは──巨熊。
黒鋼の如き毛の帷子、潰れた様なずんぐりとした顔を醜悪に感じるのは、湯気になりそうな荒い鼻息と滴り落ちる唾液の所為か。
長い手足を誇示するように、それはゆっくりと立ち上がり──
「バゴオオオオオッ!」
侵入者を威嚇するかのような、咆哮を轟かせた。
「魔物っ!」
「オイオイでけぇな!?」
立ち上がった体長は、四メートルから五メートルほど。だらりと垂れた手が、異様であった。胴体に対する腕の長さは通常の熊に比べ長い程度だが、タルワールを並べたような長い爪が、異貌であった。
「来る……いぃっ!?」
しかし観察もそこまで──なんと、立ち上がった熊は二本の脚で立ったまま、走り始めた。
異形の爪を左右に広げ揺らしながら、前傾姿勢で走る有様は、冒涜的とでも言うべきか言いようのない不快感を煽る。
その異貌に驚いてばかり居られないのは、剣のような爪が語っていた。
「くッ」
抱きとめるようにして両腕を閉じた巨熊の爪が迫る──悠はカティアと一本ずつを担当し、背中を合わせるようにして紅刀で受け止めた。
響き渡る悲鳴のような高音は、正しく金属同士がぶつかりあうような音。
それだけのポテンシャルが長い爪を形成している証左である。
力任せに振り切るようにして、受け止めた爪を跳ね除ける。悠とカティアは示し合わせるでもなく飛び退いた。
二対一、そしておそらくは巨熊の方に油断が合ったことが重なり、豪腕が弾き飛ばされた──苛立ちを表現するように、巨熊が唸る。
「魔物が居なかったのは、コイツの所為か?」
「かもな。見るからに強そうですってカンジだし」
強そう──と表現した悠だが、実際に強いと感じていた。
熊の走る速度は二足歩行にもかかわらず地上を走る生物としては今まで見たどれよりも速い。いや──ディアルクとはいい勝負と言ったところだろうか。二足歩行の分、小回りはディアルクよりも劣っているとは考え難かった。
つまり、攻撃力だけではなく機動力についても折り紙つきというわけだ。
──よく見れば、その身体には幾つもの傷跡があった。敗北の証──とは考えづらい、おそらくはその逆だろう。
「バルッ」
小さく息を吐き出すと、巨熊は再び駆け出す。茂みや樹の枝程度ならば、無い様に駆けていた。
狙いはカティアだ。小柄故に御しやすいと考えたのか、はたまた偶然か。これが故意ならば、知能の方もありそうだ。
「ちっ」
舌打ちをして、カティアはほんの一瞬だけ悠を見た。
瞬間、悠は姿勢を低くして紅刀を構える。
力を溜めろ。一瞥に込められた意図を察したのだ。
視線の先では、巨熊が左右の爪を暴風のように振るっている。カティアは踊るように嵐を捌き、躱していたが、見た目ほどの余裕はない。
「く、重……い!」
剛力と言うにふさわしいほど、巨熊の太い腕から繰り出される斬撃は、速く重かった。
一度防御に回ってしまえば、仕切り直すまでに反撃することは困難だろう。
だが、カティアの狙いはそこにこそある。
悠の方をちらりと窺えば、十分な魔力が溜まっているのが見える。
凍てつく冷気がゆらりと漂ったのを確認すると、カティアは飛び上がり、巨熊の顔を強烈に蹴りつけた。
並の生物なら頭が潰れるどころかすっとんでいく様な蹴りだが、巨熊にダメージは無い。絡み合うかのごとく複雑に生えた剛毛の鎧と、首と肩が一体化したような骨格が、脳への衝撃を散らしてしまうのだ。
しかし、これでいい。いかにダメージは無いとは言え、顔への一撃だ。視界は大きく塞いだし──離脱も完了した。
蹴りつけた勢いのままにカティアが宙へ浮かぶと、さっきまで居た地点を冷気の刃が駆け抜けていった。
氷閃。圧倒的な攻撃範囲を持つ、悠の得意技だ。
目一杯魔力を込めた氷閃の威力は凄まじく、木々をすり抜け巨熊へ向かう。
裁断された樹はしかし、倒れない。切った端から凍てつかせ、氷結した部分に繋ぎ止められているからだ。
それほどまでの鋭さと冷気が、込められていた。が──
「ガルァッ!」
立った背から氷閃を受け、トンの単位で勘定する重い身体が浮き上がる。
唾液を散らしながら宙を舞った巨熊は──それでも、立ち上がった。
剛毛の鎧が、強靭なのだ。風景ごと切り崩す様な氷閃でさえ、トドメには至らなかった。
「マジか! 結構本気でやったぞ!?」
「硬いな。だがダメージが無いわけではない、これなら貫ける、だろう?」
「まあ、俺達も結構強くなったからな。……よし、クララ! アレ(・・)かけてくれ!」
「任せてっ!」
だが、それだけだ。
手札はまだ、幾つも持っている。
悠の指示に、クララは魔本に魔力を通していく。術者の意思を汲み、魔本は自然に捲れていき、とあるページで止まった。
『光』。そこにはマオルの言葉で、そう書いてある。
しっかりと悠を見据え、クララは詠唱を始める。
「バルル……」
その様子を、巨熊は見ていた。
あれは、なにか良くない予感がする。その時の感情を言葉にするならその様なものだろうか。
身体の大きさは判断材料になりえない。巨熊はクララへの警戒を最大限強める。
ここで一直線に『なにか』を妨害しにいかなかったのは、悠とカティアの存在がある。この二人が妨害を許しはしないだろうことを、彼は気づいていた。
僅かに迷ってから、巨熊は悠へと向かった。倒せそうなモノから倒す。それが戦いの鉄則ならば、カティアを狙うのは良くないと知っていたからだ。
「俺かっ!」
上体を揺らしながら接近する熊に、悠は『硬質化』の最大出力で応える。
悠にはカティアほどの戦闘勘はない──が、技術を加味しても防御力を比べれば悠に軍配が上がるだろう。
振りかぶった爪に、悠は腕を置くようにして防御する。人間同士の喧嘩ならばともかく、猛獣に対する行動としては愚の骨頂もいいところ──の、はずだが。
悠は、これでいい。これが最適なのだ。
硬質化を貫くも、それで威力を使い果たした爪は、悠の手を覆うガントレットに傷一つ付けることは適わなかった。
カティアとはまた違った防御の方法に、巨熊は困惑する。当たらない、ならば分かるが、腕で受け止めるのは予想が出来なかったのだ。
そして僅かばかり困惑した所に、カティアの蹴りが刺さる。距離を取ることが目的だった先のものとは違い、攻撃──いや、体勢を崩すことを目的とした蹴り上げに、僅かに巨熊の身体が浮き上がり、ハネ上げられた頭は視界を奪われる。
それでもダメージはほぼ無い。
が、顔を戻す頃には標的であった悠の姿は遥か遠くに移っていた。
遠距離を攻撃する手段を持たない巨熊は、とにかく距離を詰める他ない──もう少し賢ければ、或いは敗北の経験があれば逃げるという選択肢もあったろうが、巨熊が脚を動かしたのは前だった。
──瞬間、巨熊の前に地面が起き上がる。
否、倒れ込んだのだ。
何かに脚を取られて。
「トリップワイヤー……とでも名付けようかしら」
意識さえしていなかったところから響く新手の声。それに意識を向ける間もなく、巨熊が見たのは地面に突き刺さった何かと、そこから伸びる二本の糸だった。
ピンと張られた糸が動き出した脚の動きを阻害したのだ。
二足歩行の仇が出たと言っていいだろう。縦に長い重心は、僅かなズレと意識とのすれ違いで、容易に崩れた。
まずい。いや、そんな生易しいものではない。野生に身を置く故の直感が、巨熊の身体を貫く。
この数秒が、巨熊にとっては致命的であった。
「『オラクル』っ!」
鈴を転がすような──野生には似つかわしくない少女の声が、しかし強い意思を感じさせる声で、そう叫んだ。
だが──熊が見たのはクララではない。
悠だ。
その姿は──弱々しい発光ではなく──眩いばかりの、神々しい光に包まれていた。
ガントレットをはめた腕を抑えながら、悠は犬歯をむき出しにして笑みを浮かべている。
輝く敵の姿を確認した瞬間、巨熊はそれでも悠の姿を見失う。
いいや違う。それをそれと認識できなくなったのだ。
ほんの一瞬の間に、顔を突き合わせる距離にまで接近されていたせいで。
あまりにも常識を外れた速度。瞬間移動と見紛う瞬足。
「『嵐禍』ァッ!」
そして、巨熊の腹部で──竜が、暴れまわる。
拳と共に打ち込まれたのは、凄まじい勢いの、小型の竜巻。
凝縮された竜巻は鋼の鎧の様な毛皮をも無遠慮に削っていく。暴風はそれでもなお留まるところを知らず、皮を剥ぎ、内臓を引っ掻き回したところで、ようやく巨熊の身体が吹き飛ばされることで終わりを迎えた。
「凄まじい威力ね……」
最速で、最高のサポートを行うために、最も戦局がよく見舞わせる位置で待機していたシエルは、戦慄の感情を呟く。
台地の王ウィルダ。暴君が最大の技としていたそれには範囲は遠く及ばないものの、極地的な破壊力は寸分違わない──いや、それよりも遥かに上だ。
ここまで条件を揃えれば、防御力では随一だったグランキオーンの甲殻さえ削り砕いてみせるだろう。
だがこれは悠だけの力で実現した一撃ではない。
「とんでもねーな……『オラクル』。信じられない位の威力だ」
感触を確かめるようにガントレットを動かすのは悠だ。
そう──この威力を実現したのが、クララの『オラクル』であった。
マオル族として紐解いた知識の中にあった古代魔術──アイシクルと同じく、古代種を打倒した者のみに使用が許される、選ばれし者の魔術だ。
「破壊力もそうだが、踏み込みも見事だったな。私でも、避けられるかわからないよ」
「じゅんびのながさのわりにこうかじかんはみじかいようですが……なっとくのこうかですね」
口々に称賛を送られる古代魔術『オラクル』。
その力は、短時間における爆発的な魔力の強化だ。
いわば悠の『チャージ』を他人に付与する魔術である。
「えへ……初めてだけど、上手くいってよかった~……」
だが、その消耗は大きいようだ。
嬉しさを感じる声だが、それでいて覇気がないのも分かる。
効果は強力な分扱いづらい魔術、といった立ち位置になるだろう。
とはいえ欠点の方も、消耗は補うことは出来る。その点全般的に消耗が高いクララの魔術は、悠の料理と相性が良いと言えるだろう。消耗も料理によってある程度は回復できるのだから。
この世界の料理は疲労が取れる──と認識しつつある悠は、打倒した熊を見て、早速料理に取り掛かろうとする。
さて、どう調理しようか。熊は臭いと言うが、大丈夫だろうか。或いは筋張っていたりは──いや、魔物だからやはり美味しいのだろうか。あれこれと、献立を思い浮かべては候補を絞っていく。
しかし。
「バル……バルルァ……!」
まだ──戦いは終わっていない。
深い憎悪を纏った轟に、気を緩めていた悠達は一斉に巨熊へと視線を向けた。
「まだ立つのかよ……」
呆れた様に呟く悠を咎められる者はいるまい。
腹部に致命傷を負いながらも、臓物を垂らしながらも立ち上がる執念には驚かされる。
が、本当に驚くのはこれからだった。
「……へ?」
巨熊の背の奥、深い森の闇の中から、何かが現れる。
何かとしか表現のしようがなかったのは、誰一人として現れたモノの正体が正確に掴めなかったからだ。
整然と並ぶ白い、爪のような──そこまで考えて、悠は気がつく。爪にしては数が多すぎると。
それがゆらりと、一斉に動くと、悠達は漠然と思い浮かべた。ああ──これは歯、いや牙なのだと。
たっぷりと水気を含んだ音とともに、閉じる(・・・)音が聞こえる。すると、巨熊の腰辺りから上が消えていた。
否、食われたのだ。闇から現れた、その存在に。
枯れた池を想起させる鱗肌に包まれた、ワニのような──しかしずっと巨大で横に長い口。
ひと目で発達した筋肉に覆われていると分かるフォルム、衣服のように首から下を覆う、羽毛のような毛皮──
走る模様など、それらは悠でも完全に初見のものだ。だが悠はすぐさまその姿に似ている存在を思い出した。
故にその姿をこう記そう『暴君』を語源に持つ、太古の王。
「ごおおあああああああああッ!」
ティラノサウルス、と。




