第七話:ほっとする──
「おーす、戻ったぞー」
ベースキャンプに戻ってきた悠は、この世界に来てから初めて『帰りの挨拶』を口にする。
今までは、それは必要のないものだった。誰もいないキャンプに声をかけても、返ってくるのは静寂だけだ。
「あ、ユウ……! おかえりなさい!」
だが今は違う。悠の姿を見て顔を綻ばせた銀髪の少女──クララが出迎えてくれる。
挨拶をすれば、返ってくる言葉がある。失った当たり前が戻ってきたことに、悠はじんわりと目頭が熱くなるのを感じた。
「ああ、ただいま!」
思わず熱が入る返事に、クララも穏やかに頬を緩ませる。
彼女の場合はまだ近くに帰るべき場所があるが、遭難していた時間は実は悠よりも僅かに長い。孤独じゃないという安心感は、彼女の方がより強く感じている。
「時間もいい感じだし、メシにしようか。今日は張り切ったぞー」
自分だけではない誰かのために。それを考えると、食料調達にも力が入るというものだ。……いや、悠の場合はそれは元からだったが。
かばんから食材を取り出して、並べていく悠。
「うわあ……凄い、これ、全部食べられるもの……!?」
「ああ、多分な。何故かは知らないけどさ、食べ物に毒が在るかどうか判るんだ、俺」
得意げな悠と、その食材を吟味して目を輝かせるクララ。
しかし、クララは食材のある場所で目を止める。その表情は、驚愕だ。
「どうした? 何か珍しいものが有ったか?」
「う、うん……この青い葉っぱ……」
クララの目が止まったのは、青い葉っぱであった。
目が高い、と悠はまた得意気になる。
「おお、やっぱこっちでも有名? コレ美味いよな。甘酸っぱくて、いい匂いでさ……」
「え? あ、甘いの? 私、これ食べた事ないんだ。これはマナハーブっていって、凄く貴重なモノなんだよ」
味を語る悠に対する、クララの反応は、悠が想像していたものとは大分違っていた。
得られるのは共感だと思っていたのだが、クララの表情には畏怖のような……触れられざるモノを見たような顔になる。
「……そんなヤバいのか、これ」
「うん……これだけあったら、当分……半年くらいは家族で生活出来るかな……?」
十枚程度の葉っぱが、半年は生活出来る程度の金額になると聞かされ、悠は考え込む。
悠が思い浮かべたのは百万円くらいの金額だ。家族で、という言葉を加味するとそれに近い金額になるだろう。
となると、この青い葉は一枚十万円ほどの値段となる。その事実に悠は戦慄した。
「おおお……マジか……なんでそんなにするんだ?」
マナハーブを一枚つまみ上げ、悠は何気なくクララへと問いかける。
するとクララは指を立てて軽やかに、吟じる様に語りだした。
「うん、よく聞いてくれました。これはマナハーブって名前の通り、マナが多量に含まれてるの。マナは魔力の素でね、食べると魔力の回復が早くなるんだ。だから、マナハーブは魔法使いにとってとても重要な葉っぱなの。煮詰めると魔力の回復薬になるんだよ」
出会ったばかりの頃はオドオドとしていたが、もともとクララは──自己評価さえ著しく低いものの──明るく活発な性格だったようだ。
自己評価が低い故に、彼女は世話好きでもあり、頼られる事を非常に好んでいる。
世話を焼かれている現状で、自分の知識を必要とされた、つまり悠の力になれるという事が嬉しかったのだろう。クララは嬉しそうな顔で、胸をそらしている。
面倒見のいい性格が、悠という聞き分けの良い生徒を好ましく思っているというのもあり、クララはこの上なく上機嫌だった。
「でも、さっきも言ったけど、マナハーブってとっても貴重なんだ。よく似た毒草があるし、魔術師が近づくと魔力に反応して色が変わっちゃうから、マナハーブって気づかないんだって。そもそも数も少ないみたいだし……これだけ見つかったのは、すごいよ」
「はあ~……そんな珍しいものだったのか……」
最初に見た植物でもあるマナハーブをまじまじと見つめる悠。
──独特の嗅覚があるというべきか、悠は『食材』を見つける力を持っている。その気になれば探せるであろうマナハーブというものがそんなに貴重であるというのは、いまいち実感が出来ないようだ。
魔法使いが近づくと……というのは、自己を必要とする捕食者から身を隠す、擬態の一種なのかもしれない。そんな推測を考えつつ、悠はクララにマナハーブを差し出した。
「じゃあ、良い機会みたいだし、一緒に食べようぜ。魔力が回復できるなら、クララにとっても良いだろ?」
「え、えええ? でも、貴重なんだよ……? 私なんかが食べていいものじゃ……」
「その『私なんか』、ってのは禁止な」
貴重なマナハーブを受け取れない、という理由に自分という存在を引き合いに出したクララを静止するように、悠は手のひらを突き出す。
突然のことに、思わずクララは出かけていた言葉を息と一緒に飲み込んだ。
「何度も言ったけど、俺はクララが居て助かってる。知らない常識も色々聞けるし、誰かが近くにいる生活は楽しい。……だから、自分なんか、って考えはやめてくれ。な?」
「う、うん……」
悠の語調は強く、ともすれば怒りさえ感じさせる言葉だった。
それでも、クララはその言葉が嬉しかった。悠と居ることで自分が認められると、少しずつ自分の価値が生まれていくような気がしたからだ。
「わかったらよし。じゃあほら、食べようぜ! 甘くて美味いぞ~?」
ずい、と差し出されたマナハーブを、困惑しながらもひとまず受け取るクララ。
だがたった一枚でも法外な値段がするという葉を口に含む事ができず、上目遣いで悠に助けを求めるような視線を返す。
が、返ってくるのは頷きのゴーサインだけだった。
別にクララはマナハーブを食べたくない、というわけではない。命を助けてもらったばかりでなく、こんな高級品まで……という遠慮があるのである。
しかし悠ほどではないが、クララも実は結構な食いしん坊だ。
「うう……じゃあ、いただきます……っ!」
悠の語った『甘い』という文字通りの甘言は、緩慢な動きでクララの口へとマナハーブを運んだ。
「はむっ」
見た目は、青い葉っぱ。それ以上に形容の出来ないマナハーブだが──
「ふぁあ……あまい……!」
その味覚は、手の込んだ地球の洋菓子にも慣れた悠をうならせるほど芳醇な甘みだ。
しゃくしゃくとしたみずみずしさ。噛む度に弾ける爽やかな甘み。山に自生する果物の雑味とは格が違う糖の甘みが、クララの頬を緩ませ、唾液腺を刺激する。
しばしその触感と甘み、爽やかな酸味の匂いに恍惚となるクララは、やがてマナハーブを飲み込んだ。
その瞬間、今日の治療で底を尽きかけていた魔力がまた湧いてくるのが分かった。凄まじい充足感が、少女の身体を抱く。
「はあ……美味しかった……」
だが、クララが感じたのは逆に名残惜しさだった。
クララもまた女の子。甘みには弱いのである。
「あの……ユウ、もう一枚食べていい……?」
悠の態度で少しだけ自信がついたのか、クララは久しぶりに自分の思いを主張する。
「お、いいね。でも今はおいといて、メシの後でな。デザートってのも乙なもんだろ?」
悠の言葉に、ぱっと明るい笑顔を浮かべるクララ。
悠にとって異世界の食事は、目新しく、面白いものだった。しかしその笑顔をみると、やはり一つ欠けていたものがあると気付く。
食事は誰かと一緒に食べたほうが美味しい。
気持ちの問題だと思っていた言葉が、今は悠に染み渡っていた。
「じゃあ……日持ちしなさそうな、コイツから行くか」
そんなわけで、自然と料理にも気合が入る。
今日の主役を飾る食材は、あの岩場で手に入れた貝だ。
「あっ、それソルトロール」
貝を手に取ると、マナハーブを眺めていたクララが聞きなれない名詞を口にする。
恐らくは、この貝の名前だろう。
「これのことか?」
「うん。このあたりでも偶に食べるよ。村からは少し離れた位置にしかいないから、猟師さんのおつまみみたいな感じだけど」
クララから聞く貝の説明に、悠はへー、と間の抜けた声を出した。
どうやら、割りとポピュラーな部類の食材らしい。誰も知らぬ未知の味、というわけではないらしいことに少しだけがっかりした悠だったが、自分にとっては未知の味に変わりないという事を思い出して気を取り直す。
「コレ、普段はどういう風に調理するんだ?」
「そうだね、殻ごと焼くことが多いかな。生で食べることもあるけど、たまーにひどくお腹を壊す人もいるから、そっちはおすすめできないかな……」
「味付けとかは?」
「元々しょっぱいから、そのままが基本だね。風味付けにガルムを垂らす人も居るけど」
「へえ、ガルム!」
翻訳の魔法が拾った『ガルム』という名詞に、思わず悠は関心を示す声を上げる。
ガルムというのは、古代ローマで使われていた調味料の名前だ。魚の内臓を塩で漬け、発酵させることで作られる『魚醤』である。日本の『しょっつる』もこの魚醤の一種だ。
クララが語った調味料が、『しょっつる』よりも優先して『ガルム』という言葉に翻訳されたのは、その製法や材料がよりガルムの方に近いからだろう。
この世界にもしっかりと食の文化が息づいている事に、悠は心の底から興奮が湧き上がってくるのを感じていた。新たしい食文化に出会えるという期待が、顔を上気させる。
だが今はその期待をツボの中に漬け込むようにしまっておいて。悠はソルトロールの調理法を考える事にした。
クララの言葉から考えると、基本的には貝の調理で間違いなさそうだ。ただ、やはり岩塩の上で見つけただけあって身の塩味が強い、と。
「下味が最初からついているようなものかな……」
と、悠はソルトロールと呼ばれた貝の分析を進める。
「よし、決めた!」
結果、ここはシンプルに茹でる事にしたらしい。名もない野草と一緒に、身を取り出したソルトロールをアルミ製の弁当箱で水と一緒に炊いていき、更に岩塩で塩気を調整する。
火にかけてしばらくすると、不思議な事にキノコを煮たような『山の香り』が湯気とともに立ち上ってきた。その匂いが野草よりもソルトロールの方に由来しているのは、考えるまでもないだろう。
じっくりことことと煮込んで、完成だ。
「出来たぞ。山のお吸い物だ」
出来上がったのは、貝を主役として、野草をちらした『お吸い物』だった。
前日の一角汁と似ているところもあるが、香りの良さでいったら全くの別物だ。
「わあ、綺麗に澄んでるね! 美味しそう……」
与された貝のスープを見て、クララが熱のこもったため息を吐き出す。
美味しそう、という言葉の通り、中々いい香りだ。近いのは──やはりキノコ系の香りだろうか。ダシに期待が高まる。
はやる気持ちを抑えて、まずは料理がどのようなモノか分析する。これは悠の癖だった。
「……っ」
──が。猫の寝息のような、微かだが低く響く音が、どこかからか鳴る。
それがどこから来ているかは、悠の前で真っ赤になっている少女を見れば判るだろう。
「はは、じゃあ食べようか」
「あぁぁぁ……うん……」
失意を感じさせる弱々しい声で肯定するクララに苦笑しながら、悠は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
発音は違うだろうが、いただきますに相当する言葉は此方の世界にもあるらしい。
悠はなんだか嬉しくなった。
だが食欲の前にはそれもかなわない。緊張の中、悠はお吸い物を一口啜る。
「……!」
それは、無性に懐かしくなる味だった。
聞いたこともない名前の、山に住むという奇怪な貝を使ったにも関わらず、それは確かに和の香りを放っている。
湯気に乗って、しっとりと鼻の奥に染み込むような芳香。突き抜けるような潮の匂いはないものの、優しく、安心する匂いだ。
最初に浮かび上がってきたのは、やはりその香り高さだ。ただ嗅ぐだけでなく、口の中に入れるとその鮮烈と言ってもいい濃厚な香りが駆け抜けるように広がっていく。
濃厚だが油分のない、染み渡るような味わいはまさに『山の幸』のそれだろう。
「わあ……なんか、ほっとする味だね」
クララはその『スープ』を、そのように評した。シンプルが故に、親しみやすい味なのだ。確かに、その味には二人共が同じように安心を感じていた。
だが肝心なのはここからだ。手に入りやすく、何度か食べた野草を順序から飛ばし、悠は主役の貝を箸で摘む。
ぷりぷりとした身は、軽く振るえばその身に纏わりついた汁気を弾き飛ばすほどの瑞々しさを持っている。
慎重ささえ感じさせながら、悠はゆっくりとソルトロールに歯を突き立てた。
心地よく歯を押し返す弾力。それなりの力を入れてもまだ切れない。
何処まで歯を包むかを試したくなるような、魅惑的な感覚。しかしそれはある時を境にぷっつりと切れ、旨味のエキスを迸らせた。
切れた身を、今度は遠慮なしに噛み砕く。じゃくじゃくごりごりと、引き締まった貝の歯ごたえが歯を楽しませる。豪快な歯ごたえからは噛むたび濃厚なダシが溢れてくるので、噛むのを楽しくさせ、次へ次へと食欲を押し進めていく。
口の中一杯になった汁をごくり、と音を立てて飲み下すと悠は恍惚とした表情で呟いた。
「美味い……」
懸念していた砂などがないことが、一層その旨味を引き立てていた。
岩塩に付いているだけあって、その身は確かに十分な塩気を孕んでいる。最後まで味が染みきっているような味の濃さが、次への興味を失わせなかった。
だが、此方はどうか。淡いベージュの身とは違い、黒い肝の部分を口へと放り込む。
……コチラもまた、予想とは違う味だった。ほっくりと割れた肝から吹き出したのは、キノコ系の匂いに満ちた身とは違う、爽やかな菜の匂いだ。
池にすむ生物のような『藻臭さ』とはかけ離れた、優しい香り。熱と一緒に転がすと、頬が緩むのを抑えきれない滋味に満ちていた。
そのほろ苦さもまた、その味が軽やかに駆け抜けるのを助けている。
総じて、美味と言えた。これまでの食材と比べても、ハッキリと違うといえるほどに。
「美味しいなあ……」
気がつけば、クララも落ち着いた様子で吐息を吐き出している。
「ほっとする味」。それが、ソルトロールの吸い物の味だった。
山の貝の味に満足した二人は、暫しの間染み渡る温かさを抱いているのであった。
◆
「んじゃ、そろそろデザートにするか。ほい」
「ありがとう、ユウ!」
ソルトロールの吸い物の余韻が去っていった頃、二人はデザートを取ることにした。
二人の間に置いたマナハーブを、茶菓子感覚で摘む事にし、二人は食後の談笑に入る。
とりあえず必要最低限の事を済ませたため、悠に今日の予定はない。
余暇の過ごし方として、雑談というのはとても充実している気がした。
「ん~♪」
甘みで頬がつんとなるのを抑えながら、クララは幸せそうな笑顔を浮かべる。悠も一枚葉を齧ってみると、シロップのような甘さと酸味のある匂いが良く釣り合いをとっていた。
「コレは、煮詰めてシロップにしたら美味しいだろうな。果物と一緒に煮込んだらジャムみたいになるかもしれないし……色々試してみたいな」
「あはは……もったいなさすぎて中々出来ないだろうけど、それも美味しそうだね」
ひらひらと葉を動かしながら、料理の構想を語る悠に、クララは苦笑する。
煮詰めたシロップとはほぼそのままマナポーションのことだし、ジャムを作るにはどれだけのマナハーブが必要かわからなかったからだ。
きっと、一瓶も作ればとんでもない値段になるのだろう。それを考えると、クララの顔がマナハーブのように青くなる。
「んー……」
それを聞いて、悠は何事かを思案しながらマナハーブをみつめた。
悠が思うのは──感覚のズレだった。
もともと地球でも、悠の感覚というのは少しだけズレていた。それは食に対する興味が強く、他のことは然程でもないという性格のことだ。
ズレがあるとは言っても、地球ではそれは問題にはならなかった。せいぜいが冷めた目で見られるくらいだったが。この異なる世界ではどうか。
こうしてクララが日本語を喋ってくれているからこそ会話が出来るが、地球とこの世界のズレは、やがて山を降りた後大きな障害になるだろう。
「なあクララ」
何気ない様子で、何処か遠くを見つめながら、悠はクララに語りかける。
悠が呼ぶ声にクララは視線のみで返答をする。
首を傾げるクララに、悠は葉を見たまま言う。
「この世界のことさ、色々と教えてくれないか?」
本当に軽く。当たり前のように悠はその質問を投げかけた。
特におかしいところはない様に思えるほど、何気なく。
だがその問いが、欲する知識がおかしい事は、すぐに気づくだろう。
生まれてから今まで過ごした『世界』の事を聞く者は、殆どいないはずだ。
「え? うん、いいよ!」
それでも、クララはあっさりとその問いに肯定を返した。
「……変だと思わないのか?」
「まあ確かに珍しい質問だけど、知らない事を聞くことはヘンじゃないと思うよ。それに私、教えるの好きだし!」
ぐ、と拳を握り込んで、目を輝かせるクララ。
その答えは、本当に当たり前の事を言っていた。
蛇や蛙を食べたことがある。そんな事を言った時に、地球で向けられた冷めた目を思い出すと、『ズレ』を感じさせないクララの言葉は、ありがたかった。
「……ありがとうな。」
「全然いいよ! もしも私なんかがユウの役に立てるなら、嬉しいから!」
クララは本当に嬉しそうで、本来の彼女は世話焼きなのだろうという事を悠も感じていた。
「なんかは禁止な」
「あっ……! うう、ごめんなさい……」
服装からしても、言動からしても、今の悠は『この世界の人』にとって相当胡散臭い存在のはずだ。
にもかかわらず、クララは悠を疑うこともなく、深い理由を聞くこともなく、受け入れてくれる。
それが嬉しくて恥ずかしくて、悠はごまかすように『私なんか』を指摘した。
何故その言葉を指摘したのかは、クララもわかっているのだろう。二人は少しだけ黙ってから、同時に笑いだした。
「うん、それじゃあ……これからよろしくな、先生」
「先生っ……!? いいよ! 任せてっ!」
悠の言葉に気をよくし、クララは誇らしげに胸をそらす。
あまり余裕のない衣服に押し付けられる形になったとあるモノを見て、悠は顔を赤らめながら苦笑する。
「(最悪、山か森で暮らそうかとも思ったけど……ちょっとは勉強頑張ってみるかな)」
また一枚マナハーブを口にして、幸せそうな笑みを浮かべるクララを見て、悠は温かい気持ちになるのだった。
……気がつくと、過半数のマナハーブが食べられてしまっていることに気がつくのは、もう少しだけ後の話。