第七十四話:海か空か
雲ひとつない空に燦々と輝く太陽、打ち寄せる爽やかな波の音──
どこまでも続く空はしかし近く、雲は手を伸ばせば届きそうなほどに近い。それは文字通りに天が近いゆえの光景だった。
不帰の楽園──まさしく、そこは楽園だった。
しかし楽園という部分だけではない。楽園を彩る不帰という言葉もまた事実のものなのだ。
この楽園に向かって帰ってきた者はおらず、故にいつしか誰も目指さなくなった楽園、それがこの不帰の楽園なのだ。
ヒトの世から隔絶された楽園は今日もどこかへと向かって空を泳ぐ。そんな空の孤島にたった五人乗せられた悠達は──
『楽園』を、満喫していた。
「ん~……! 気持ちいいーッ! 悠もこっちに来なよ~!」
「ぷはっ! たまには童心に帰るのもいいな! シエルもだ、海は気持ちがいいぞ!」
蒼い海に煌めく飛沫を上げて、クララとカティアが大きな声で悠達を呼ぶ。
その隣には顔の上半分だけを出したアリシアが音もなくゆっくりと泳いでいた。
そう──他の要因はともかく、ここ外縁部の沿岸はまさしく常夏の楽園。
南国の陽気によって適度な温度に保たれた海水は、泳げばこれ以上なく心地よいリゾート地のような海だった。
悠が住んでいた地域の海はお世辞にも綺麗とはいい難かったが、不帰の楽園の海は透き通るようなクリアブルー。
温度に美しさ、そして何より──海の部分には、強い魔物が生息していないようだ。
泳ぐにはこれ以上無いほどの条件が揃った海が眼の前にある──となれば、こうなるのは自然なことだ。クララ達がはしゃぐのも無理はないことだろう。
「って、呼んでるけど、どうする?」
「ん。そうね。一区切りにして、私達もあっちに混ざりましょう」
一方で、悠とシエルは離れた場所で糸を垂らしている。
釣り竿と糸──というには少しばかり大雑把な木の棒と紐だが、これが中々どうして、釣果は悪くないようだ。
海中に垂らした魚籠の中には三匹の魚が狭そうに動いており、食いしん坊達へと伸びた紐はその先の運命を示しているようにも見えた。
シエルの意見を受けて、悠は両手で大きな丸を作ってみせる。
常夏の楽園にほかならない光景──で、あるならばこうしてじっとしているだけでもじんわりと汗が滲んでくる。
思う存分水を跳ね上げるのは、さぞかし気持ちがいいことだろう。
簡易釣り竿と魚籠を持って、悠は腰を上げる。
釣りに飽きたら海で泳ぐ。なんと優雅な生活であろうか。未だ誰一人として帰ってきたものが居ない極圏、不帰の楽園──案外、本当にここが楽園であるがゆえに誰も帰りたがらないんじゃないか。
苦笑しながらはしゃぐ少女たちの元へと歩みを進める悠。
……何故、高難易度を極めると噂される極圏でここまで優雅な生活をしているのか? それは、今日の始まりへと巻き戻る。
◆
「生活基盤も整ってきたことだし、今日は思いっきり羽を伸ばそうか!」
起き抜けの朝食で、突如として宣言をする悠に、クララ達はたっぷりと固まってから顔を見合わせた。
確かに、悠の言う通り生活基盤は整ってきている。家と呼べるものは作ったし、食料の調達も日々出来上がる備蓄の量は増えている。
しかしだからといって羽を伸ばす──というのは、あまりにも突飛に感じられたからだ。
「うーむ、ユウ? こんな事を言うのもなんだが、遊んでいて大丈夫なのか?」
「そうね。必要なものは揃ってきてるけど、調査とかは進めなくていいの?」
そう、生活に必要なものは揃ってきているが、極圏の調査という本来の目的は全く進んでいない。
ならばまだまだやることはたくさんある──というのが二人の意見だ。
「私はいいと思うけど、駄目かな? ちょっと疲れちゃったっていうのもあるし……」
「わたしはさんせいです。日々にメリハリをつけるのはよいことかと」
一方で、クララとアリシアは悠の発言に賛成のようだ。
賛成二の反対二、ならば発案者の悠も当然賛成側である以上、もう議題は可決したといってもいい。
だが、どうせやるなら全会一致、というのが理想ではある。
そのための材料も、一応は用意してある。
「ん、まあシエルとカティアの言うことも一理ある。けど、一応遊ぶだけが目的でもなくてな。食料の調達も一緒に兼ねてってのが今回の趣旨だ。魚から取れる栄養ってのもあるし、出来る限りバランスよくってのが理想だからな。んで、海には強い魔物も居ないし、連日の作業で疲れも溜まってる。だったら、休暇気分で美味しい食材も採って、体力回復と行こうぜ……ってわけだ。中央部の魔物は強いって言うからな、心身ともに万全で挑んだほうがいい」
その理由の一つが、遊びとは言うがそれはついで、食料の調達が本来の目的であるということ。
二つ目が、より手強い魔物が生息する中央部の調査をするのならば心身ともに回復させてからが好ましい、といったことだ。
とはいえ──
「まあ、でも結局の本題はここらで遊ぼうってことだよ。なにせ半年もここにいるんだぜ。退屈とかも解決すべき難題の一つさ。遊ぶ余裕があるなら、遊んでおいたほうがいい」
やっぱり提案の目的が遊びであることは、変わらない。
包み隠さず話すのは、悠なりの誠意だ。
「む、そういうことなら、まあ……」
「……メリハリも必要、か。いいと思うわ。せっかく海には大した魔物も居ないことだし、こんなに暑いと泳ぎたくなるのも分かるしね」
真っ直ぐでウソのない説得が功を奏したか、あるいは──カティア達も休めるものなら休みたかったのか、こうしてちょっとしたバカンスが開催されることになった。
とはいえ、前々から水着は用意していたことだし、悠も空いた時間で簡単な釣り竿を拵えるなどしている。
ここで休日を設けなくとも、どこかで同じ様にしていただろう。
それに──口ではなんと言いつつも、カティアも、シエルだってこういうのは嫌いではない。
わいのわいのと騒ぎながら、昼の予定を立て始めるクララ達。その中にシエルが混じっていることに、悠は安堵のため息を吐き出すのだった。
◆
「あ、来た来た、こっちこっち!」
釣果を携えてやってきた悠達を、大きく手を振るクララが迎える。
健康的な体のラインに、ガラス玉の様な水玉が散りばめられ、何より手の動きに合わせて震える一部の場所が──
と、そこまで考えて、アリシアとシエルから目を向けられていることに気がつく。
「な、なんだよ」
「……べつに、なんでもないです」
「私としては、貴方がちゃんと人間ぽくて安心したわ」
アリシアからは妙に恨めしげな──シエルからはからかうような視線を向けられて、悠はぶっきらぼうに言い捨てた。
……それは、そうだ。出るトコが出ている美少女が、水着姿で無防備に自分を呼んでいる──というのは、やっぱり多感な時期の彼にとってはちょっとキツい。
「……? どうしたんだ。顔が赤いが、日に焼けたか?」
しかし、それを言うのなら他のメンツだってそうだ。
カティアは──いつだか、同じ様に海に入ったことがある。その時とは違って、カティアもちゃんとした水着に身を包んでいる。
だがそれもやはり地球でいえばラッシュガードのような、光沢のある体のラインがよく出るものだった。その時とは違うのは、下はビキニのようなスタイルの水着を着用しているため、太ももが出ていることだ。
クララとは違って起伏のない身体のカティアだが、それ故に小柄ながらも引き締まった身体が、ムダのない繊細な美しさを引き出している。
健康的で、かつ華奢である。少女の美しさという観点でいえば、これ以上のものはそうないのではないかと悠は思う。
「ふん、ひじょうにわかりやすいごしゅみでたいへんよろしいかと」
一方で──アリシア。
こちらは胴体部を覆うデザイン──単純なワンピースタイプだ。
幼気な外見のアリシアには非常に似合っており、幼い少女の可愛らしさを前面に押し出したものとなっている。
カティアとは体格が似ているアリシアだが、これはカティアと同じ色合いながらも全く別の方向を向いた魅力と言えるだろう。
大人の魅力や美には欠けるが、ただただ可愛らしい。
「まあまあ、そうイジめない。それに──ねえ、ユウ?」
そしてシエル。
上着を脱いで顕にした水着は、クララのようなセパレートタイプ──だがその魅力はより『美しさ』に突き進んだものと言えるだろう。
実用的な運動によって育まれた、引き締まったボディは磨かれた大理石のように滑らかで、描く緩やかな曲線が艶めかしい。
また、この中では一番進んでいる反応が、悠を更にどきりとさせる。
そう──最初に悠の目に飛び込んできたものこそクララの健康的な身体だが、その実どの少女も違った魅力があって、はっきりと悠には『目に毒』であった。
まあ、それも仕方がないことだろう。
健康ということにかけては右に出る者がいないような悠が、こんなにも美しく可愛らしい少女達と一緒にいるのだ。いつもは気にしている余裕がなかったり、そっちを食欲に振っているという事もあって平然としているが──仲間として全幅の信頼を置いているからこそ、こういった思いもよらぬ一面にどきりとするのも無理はない。
「いや、その……みんな、すげー可愛いと思う……」
ようやく絞り出したのは、途切れ途切れのしどろもどろ。
それは無理やり考えた褒め言葉と言うよりも、本心であるがゆえに伝えるのが難しかった言葉だというのは明らかで──
「え、あ、ありがとう……」
「そ、そういうことか。ふむ……ならば、私もまだ……」
今まで全くそういった事を意識していなかったらしい二人にも、悠が何故赤くなっているかを思い知らせるには十分だった。
こんなザマでは気味悪がられないだろうか。心配になった悠だが、恥ずかしがってはいるもののクララもカティアも、悪いようには思ってはいなかった。信頼できる人物に褒められれば、気味が悪いということもないだろう。それは、誰にも聞かれなかったカティアの後半の呟きが証明している。
「……ほう、ほうほう。なるほどなるほど。そういうことならばわたしはかまいませんよ」
「全くこの子は掴み所がないわね……」
残りのシエルも概ね悪い気はしていないようであり、アリシアは露骨に嬉しそうだ。
それは多少なりと──いや結構大きな──悠への好意の証だ。
なぜだかそれもまた小恥ずかしく、悠は身を縮こまらせた。
だが、ずっとこうなら本当に気味が悪い。悠は己の頬を一度強く叩いて、意識を切り替えた。
「よし! ほんじゃ俺も海の方で遊ぼうか! 今日は思いっきり遊ぶぞ!」
それは、半ばやけくそだった。
当然のように、クララ達も悠のごまかしはわかっている。敢えて突っ込まないのが仲間としての思いやりであった。
ざんざんと水をかき分けるように海へと歩んでいく悠の背を見ながら、クララ達はくすりと鼻を鳴らす。
こうして、常夏の楽園での一時のバカンスが幕を開けた。
「うおお、水に入るのは久々だ……! いきなりだと冷てえー!」
腰辺りまで水に浸かると、その冷たさに悠は一度身を震わせて、じわじわと染み渡ってくる冷たさに楽しげな声を上げる。
なんだかんだと言っても、やはり悠自身こういう遊びは楽しい。
海に入ったのはカティアと一緒に山で食料調達を行ったのが最後だ。
「ね、気持ちがいいよね!」
「ん、気持ちいいな。前はカティアと俺だけだったからなー、あん時はクララは来られなかったから、一緒に来られて嬉しいよ」
そう、悠がカティアと共に海で食料調達をしたあの時、クララは脚を怪我しており同行することが出来なかったのだ。
「そうだね。ちょっとだけ悔しかったから、嬉しいな。こうやって、みんなと一緒に海で遊ぶ日が来ると思わなかったなあ……」
ついでに言うのならばあの時は今よりも余裕はなく、遊ぶという感覚ではなかった。
同じ食料調達ではあるが、今はそれもついでといった具合。
今と昔の状況には天地の差があり──より危険な場所にいる今の方が余裕がある、というのは悠たちにとっては非常に感慨深いことだった。
遠いどこかに思いを馳せるクララ。
悠は、優しげに目を細めた。
「なんだかわたしのしらない思い出というのは少しくやしいですね」
「そう言うなよ。マジで大変だったんだぜ。あの頃は俺もそんなに強くなかったしさあ」
その思い出の中に自分が居ないことを拗ねるアリシアに、悠は苦笑交じりに返した。
子供っぽい考えではあるが、それだけ自分達と時間を共有することを大切に思ってくれているのだろう。
冷めた態度が目立った最初の頃とは大違いだと、なんだか悠のほうが嬉しくなる。
「なあに、これから過ごす時間に比べれば、ほんの数週間なんて誤差の範囲さ。だろう、ユウ」
「ああ、その通りだな。というわけで、これからどんどん思い出を作ってきゃいいのさ。これなんて、ピッタリだろ?」
「……まったく口がうまいですね。ですが、今回はそれでだまされてあげましょう」
昔よりもこれから。
穏やかに微笑むアリシアは、その言葉を大事に抱えるようにも見えた。
だが──一瞬だけ目を見開くと、アリシアは勢いよく腕を振りかぶる。
水面をなぞるようにして滑らせた腕が、水の膜を生み出して、悠達に海水の雨を振らせた。
「つめてっ! いきなりだな!」
「そのぶん、今日はたくさんたのしませてもらうとしましょうか」
突然水をかけてきたアリシアは、不敵な笑みを浮かべていた。
プールや海などで、意味もなく水を跳ね上げた経験が、悠の脳裏に蘇る。
両手を広げて水を掻くように飛沫を放つと、それはもはや小波となってアリシアを打ち付けた。
「ぷぇっ、しょっぱい。……ふふ、なんだかゆかいですね」
「昔、俺もこうして遊んだもんだよ。みんなやることは一緒だなー」
大量の水を引っ掛けられたにもかかわらず、アリシアは愉快そうだった。
子供の頃にしたのと、魔力の力で身体が強化されている今とでは、飛んでいく水の量も大きく違う。
だが、それでも、地球と違うどこかでもやることは変わらないのだな、と悠は愉快になった。
「なんだ、楽しそうな事をしているじゃないか。私も混ぜてくれ」
「あ、じゃあじゃあ私も!」
「……これ、どういう遊びなの? 勝敗とかってあるのかしら」
童心に帰って遊んでいる悠とアリシアが楽しそうに見えたのか、クララ達も集まってくる。
結論から言えば、水の掛け合いに勝敗も何も無いだろう。
それでも、不思議と悠達は飽きずにしばらくこれを楽しむことになる。




