第四十六話:カニサイレンス
さて。
蟹を倒した悠はナイフを片手に悪戦苦闘していた。
蟹の殻はやはり硬く、ドラゴンナイフをもってしても容易に切り裂くことは出来なかったのだ。
やはり極圏の魔物、それも恐らくこの洞窟を統べる主の様な存在──その調理は一筋縄ではいかない。
「ダメだこりゃ。ディアルクの剣とか使ったほうが早いな」
となると出番がやってきたのはディアルクの両刃剣だ。
関節を断つように万力を込めて振り下ろすと、簡単にとはいかずとも、スムーズに工程を進めていける。
動いている状態でその渾身を発揮するのは難しかったろう。そう思うと、激しく動く蟹の関節を剣一本で裂いていったカティアは大したものだと悠は感心した。
関節を立ちながら脚の一本を切り落とすと、突き立てた剣を缶切りのように動かしていく。
そうして強固な殻を開くと──そこには、ルビーと見紛う様な鮮烈な赤が、てりてりと輝いていた。
「うっはー……! こりゃあスゴイぞ……!」
普通の蟹と違うのは、やはりその量だ。
太い脚にパンパンに詰まった肉。骨に気をつけて、こまめに殻を割りながら。
細心の注意を払って身を引きずり出す──そんなせせこましいと言わんばかりに豪快な『蟹の肉の塊』。
その美しさは同じ量の宝石を見てもこうはならないのではないかというほど悠を興奮させた。
一度切り出してしまえば、後は楽だ。
ドラゴンナイフは手に馴染み、同じ様な肉質の蟹肉の塊に多様な加工を施していく。
今回悠が作るのは三つ。刺身と焼きガニ。そしてカニしゃぶだ。
さて。クララ達の国では、蟹という生物は知られながらもあまり食べられていない。
だがそれは、アレが嫌いコレが嫌いという話ではなく、その食文化を拓いていないだけだ。
最初は蟹ということでさほどの興奮を見せていなかったクララ達だったが、悠の調理工程を見ていくごと、その期待は膨らんでいた。
「ずず……はっ。これは、おみぐるしいところを」
気がつけば、アリシアはよだれを垂らしていた自分に気づき、慌てて口を拭った。
だがクララとカティアもそれを笑う気さえ起きなかった。気がつけば、自分たちの口の中も期待でいっぱいだ。
今回は鮮度をそこまで気にする必要はない。
悠の仕事も自然と速さより丁寧さを重視したものとなる。
それでもてきぱきと手際よく調理を進める悠だが、夢中な悠とは違い、ただまつクララ達にとっては永遠にも感じるような時間だった。
しかし、それもそこまで。
「出来たぞ! 巨大蟹のカニづくし! 完成!」
もとより手際の良い悠、そもそも蟹という素材を活かすことこそが主眼となる調理のシンプルさも助けて、料理はすぐに完成した。
並べられたそれは、感動そのものだった。
炎とヒカリゴケの光に照らされて、きらきらと輝く赤はルビーと比べても遜色はない美しさ。
本当に食べてしまってもよいのだろうかと、本来の目的が罪に感じてしまうほどだ。
ほっくりと焼き上がった焼きガニはごく僅かな焦げ目を付けられていて、美術品の美しさこそ失われてしまっているものの、食物としては限りなく食欲をそそる。
だが、悠が宣言した三品には一品足りなかった。焼きガニと、刺身と刺身──クララ達の眼には、そう映る。
しかしこの内一品はまだ仕上げの工程が残っているのだ。
「こっちの蟹は、この鍋に一度くぐらせてから食べてな」
カニしゃぶである。
最後にさっと熱湯にくぐらせることで、花開く。それがこの料理だ。
「それじゃあ、食べようか! ……いただきます!」
「いただきます」
それ以上は、説明は要らなかった。
悠の掛け声に、あと三つの同じものが重なると、悠達は一斉に刺身へと手を伸ばした。
生食への抵抗が薄くなったクララ達の反応を嬉しく思いつつも、今の悠には再優先事項がある。
これを口の中へと運ぶこと──まるで命令されるかのような抗えない魅力は『誘引』なみだ。
箸を下げる様な重さを感じながら、悠はそれを口に含む。
瞬間、世界が色づく気がした。
こんな暗い洞窟の中だというのに、まるで花畑にでもいるような──爽やかな甘みと香りが、世界を錯覚させた。
飽くまでもさっぱりと──しかし濃厚な、栗や芋にも似た上品な甘みが駆け抜ける。
その香りは爽やかで、濃厚な旨味を飽きさせない。噛む旅に劣化しない快感が真新しく生まれ続けるのだ。
その歯ざわりも、まさに甘美というしかない。
ねっとりと、舌に甘えるように絡みつくさまは大人のキスの様。それを経験したことがない彼らには表現する言葉が見つからないくらい、ただ愛おしい。
しかし無限に続くかと思われる幸せも、咀嚼する内に消えていく。それがまた、ひとときの出会いのようで、切なささえ感じさせた。
だが、ここにはまだ新しい出会いがある。
焼きガニを一口頬張れば、また違う世界が待っている。
爽やかな香りは鮮烈に焼き付くほどの香ばしさに姿を変え、その甘味は一層引き立っている。
水分が減って凝縮された身は、少し歯を入れると一本一本の繊維が解け、旨味のエキスが迸る。
その旨味はまるで大波。岩場に打ち付ける白波のように強烈だ。
そして最後は、カニしゃぶ。
ディープホワイトのアラで出汁をとった鮮烈なダシ。強烈なディープホワイトの旨味のエキスを抽出したそれは、生半可な具材ではたやすく飲み込まれてしまうような代物だ。
だが、それは半ば確信。悠はそれほどのダシであっても、この巨大な蟹の引き立て役にしかならないと考えていた。
悠は意気揚々と、クララ達はあんなに美味い刺身を湯に通していいのか? と葛藤しながら、鍋に蟹の身をくぐらせる。
そうすることで、花が咲いた。
悠はカニしゃぶ用の刺身にナイフを幾度となく走らせていた。
熱湯にさらされた蟹の肉は収縮し、傷つけられた箇所からほつれ、花が開くように解放されたのだ。
一層引き締められた身、そして花開く見た目の美しさ。
見惚れるのもそこそこに食らいつけば、口の中でまた花が咲く。
火の通った部分と生の部分が生み出す食感のハーモニーは絶妙だ。海を連想する深さ。底を見たくて泳いでもたどり着けないような──味に溺れる感覚が、悠を突き動かした。
気がつけば──皆、無言。一言も発さずにただ蟹を食らう、食らう。
時折幸せに停止しては我に返ってまた食べる。
蟹食べてるときって皆静かだよな。
悠が地球のあるあるを思い出すのは──もう入らないというまで蟹を食べて、用意した皿が空になる頃だった。
「美味しかった……なんかもうそれだけしか言えない……」
「これはうまくけいようできませんね……」
蟹は語彙力を殺す。悠はまた一つ学んだ。
圧倒的な満足感は、悠達を夢見心地から話さない。
誰ともなくテントの準備を始め、緩慢に動き始める。
時折──美味かったな、うん。そんな、同じ内容の会話を何度も繰り返しながら、悠達は寝床に付いた。




