第四十五話:洞穴を統べるモノ
悠達極圏探索隊が『白の砂漠』を訪れてから、四日ほどが経過していた。
川をたどり、岩山を超え、無限の白を行く。
なんだかんだで食料にも水にも困ることはなく、もはや一番の天敵は変わり映えのない光景による退屈だ──というほど、悠達はこの環境に順応していた。
それでも病気などはやはり恐ろしいし、どうしても取りづらい栄養素もある。今は平気でもこの淋しげな大地でずっと生きていくのは難しいだろう。そういう所が『極圏』たる所以なのだと噛み締めながら、悠達は行進を続けていた。
島の中心部に近づくにつれ、辺りは少しずつ寒くなり、現在の気温は氷点下。
吸い込む空気の冷たさに白い息を吐き出して辺りを見ればひたすら広がる白の世界。
その光景には世界の終わりを連想しながらも、仲間の存在に背中を押され、歩き続けてきた。
しかし──そんな無限の世界にも、終わりはあるようだ。
ひたすら辿ってきた川は、とある場所で途切れていた。……いや、途切れていたという言い方は正しくない。
ちゃんと表現するならば『地表から見えなくなった』とでも言うべきか。
「おお……マジか」
「洞窟、だね」
川はまだ続いている。
ただし──その先は、洞窟の中に。
ゲームなんかだとお約束の地形。だが、悠がその入り口を見て最初に感じたのは恐怖だった。
まるで大口を開けて獲物を待つ生物のよう──そんな例えを最初にしたのは誰か。なるほど、確かにその例えは的確だ、と悠は冷たい汗を流す。
それでも、笑みが浮かぶのは冒険家気質の現代っ子の性だろう。
「俺は、入って調査したいと思う。皆はどう思う?」
昔の人類の中には洞穴で暮らしてきた者もいる──だとすれば、滅んだと思われる文明の痕跡くらいはあってもおかしくないのではないか。
少しのロマンと、クララのルーツを見つけてやりたいという気持ち。そしてひとにぎりの勇気が、悠をそこへ駆り立てた。
僅かな逡巡の後、クララとカティアは頷いた。
「ここまできたんです、わたしもつきあいましょう。どのみち一人のこされるのもよくありませんし」
「アリシアちゃん……ありがとう」
アリシアはというと──憎まれ口を混ぜつつも、この分だと最初からついていく気でいただろう。
妙な所で素直じゃない少女に苦笑しつつ、悠は洞窟を見据える。
「満場一致が出た所で行くか……と、行きたいところだけど。洞窟に入る前には、何個かやることがある」
早速洞窟探索を開始しようとするクララを制し、悠はおもむろに手頃な石を手にとった。
そしてそれを、洞窟の中へと投げ入れる。
洞窟内に小石が跳ねると、軽い音が反響し、重なって聞こえる。
悠が声を潜めていると、クララ達もそれに習う。暫くの間そうしていると、悠はクララ達へと振り返った。
「こういう地形──洞窟なんかに入る時は、こうやって中に何かいないか確認してから入ったほうが良いんだ。暗闇で大型の獣とバッタリ、ってのは怖いだろ」
「そ、それは怖い……教えてくれてありがとう、ユウ」
「用心に越したことはないということか」
洞窟は雨風を防げる関係上か、好んで寝床とする動物も多い。
地球上の砂漠のように熱い地域は熱も防げることが多く、もしも遭難などすればその日の宿とするには最適だ。だが人間にとって心地よいのなら、それは地上で生活する動物にとっても同じだ。『先客』との無用なトラブルを避けるにも、こうして確認することはしておいたほうが良いだろう。
「と、もう一つ。視界の確保もあるけど、洞窟内では松明を用意する。火があれば有毒な気体があった時、察知しやすいんだ。まあ明かりなしで洞窟に入る機会もなかなかないと思うけど、一応な」
そして、洞窟に入る前にすべき事の二つ目が火の用意だ。
有毒なガスがあった場合、二酸化炭素に満ちていた場合──火は、それらの気体に顕著に反応する。
火が燃え盛る、逆に消えるなどの反応でその場に何が在るかを確認すれば、対処の取りようもあるというものだ。
「それじゃ準備が出来た所で──行くか」
「うん」
「そうですね」
こうして最低限の準備を紹介し終えると、悠は洞窟の中へと向かう。
先頭を歩くつもりだったが、隣にクララが並ぶのを見留ても、悠は何も言わなかった。
「なんだこれ……光る苔か」
洞窟の中を歩き始めると、最初に悠が気に留めたのは壁を覆う苔の様な植物だった。
「ヒカリゴケだな。暗所の闇の魔力を吸収して、光を放つという変わった植物だよ。こんな場所だとよく生えているが、他所から持ち込めば勝手に繁殖するくらい生命力も強いらしい」
「これが……ねえ。実際に見てみるとちょっと感動」
その名は見ての通り、ヒカリゴケ。
ただし、カティアの説明を聞く限り、地球にあるそれとは大きく生態が違うようだ。
──悠は完全にファンタジーの世界のみの植物だと思っているようだが、実は地球にもヒカリゴケという植物は存在する。そちらは、非常にデリケートで、厳密には自力で発光しているわけではないようだが。
思いの外洞窟内が明るかった事に感動する悠だが、松明の炎は消さず、揺らめかせている。
ふと、何かが気になったのか悠は脚を止めた。
にもかかわらず、松明の炎は一定に揺らいでいる。ということは──
「風の音──この洞窟、どこかに通じてるのかもしれないな」
空気の流れが存在する、という事だ。
少なくとも一箇所、どこかに外とつながった場所がある。
それは小さな穴かもしれないし、何処かに通じる抜け道かもしれない。
不覚にも、悠は自分が楽しんでいることに気がついた。
誰も来ないような砂漠の奥地、洞窟を抜けた先は──なんて考えると、少年が疼く。
ヌガーを齧りながら、悠は洞窟を観察する。
洞窟の中は光が差し込まないというのにヒカリゴケのおかげで明るい。それに伴ってか心なし外よりも温かく、また川まで流れている──
あらゆる条件が、生物が住むのには適していると言えた。
雨風を凌げて水の心配が無い、それだけでもヒトが身を寄せる理由足り得るほどだ。
しかし、そこにはヒトは疎か魔物の気配すらない。
そればかりは、少し違和感を覚えた。
滞りなく、しかして慎重に洞窟を進んでいくと──やがて、悠達は巨大な空洞に出た。
正確な高さはわからないが、数十メートルといっても差し支えないくらいだ。横も同じ──まるで、岩山の中身をくり抜いた様な空間だった。
「うおおおおおお……っ! すっげえ! なんだここ!」
「わああ……!」
自然が作ったとは思えない、しかしヒトが作りようもないくらい雄大な空洞に、思わず悠とクララは感嘆の叫びをあげた。
ただの空洞だが、その規模が、大いなる存在を意識せずにはいられなかったからだ。
「見事な場所だな……集落くらいなら作れてしまいそうだ」
カティアが言う通り、この広さならば小さな集落くらいなら快適に暮らせるだろう。
もしかしたら、ここにヒトが居た痕跡があるかもしれない。カティアの言うことを考えれば、ここに痕跡があっても不自然ではないだろう。
進行は一旦中断して、辺りを探してみるのも良いかもしれない。
ヒカリゴケくらいしか見えないにもかかわらず、言葉も失って大空洞をくまなく見回しているアリシアに倣ってみるか──と、悠は微笑ましげに息を吐く。
……だが、それが、探索が実行されることはなかった。
突如として、アリシアの動きが止まったからだ。
放物線を描くボールが空中でぴたりと停止するかのような急な動きに、悠はアリシアの視線の先へと首を動かす──
そう、考えても見れば当たり前だ。
悠はその姿を確認した時、先程思い浮かべた違和感を思い出す。
こんな好条件が揃った場所に、ヒトは疎か魔物の存在さえないのは、おかしい。
その場所を狙うものが多くとも、この環境で生きるためなら奪おうとさえしそうな場所──そこに、生命が根付かなかったのには、理由がある。
「ひっ……何、あれ……っ!」
その姿を悠とアリシアに遅れて確認し、引きつった声を上げたのはクララだった。
……視線の先にあるモノ。それは、高さにして三メートル以上はある、巨大な甲殻類だった。
細く鋭い鋏に多脚。横に広い身体には幾つもの棘──そしてその背後には蠍の様な尾を持った、巨大な蟹。
身体から飛び出た、感情の存在を感じさせない瞳が、ただ淡々と悠達を捉えていた。
数年ぶりの、餌として。
「う、おおおッ!」
化物。まさにそう形容するに相応しい存在が、鋏を打ち鳴らして向かってくる──あまりにも異様で現実離れした捕食者の存在に、悠は叫び声を上げた。
あるいは恐怖から、あるいはそれを打ち払うため。どちらもがないまぜになった叫びが、洞窟内に木霊する。
「な……なんだこの化物は……! こんな魔物、聞いたことがないぞ!?」
困惑しながらも剣を抜き放つのはカティアだ。
悠達極圏探索隊の中で、極圏及びそこの生物に──比較的と付随するものの──最も詳しいのはカティアだと言っていい。
そのカティアが取り乱すほど、未知。知られざる怪物を前に、悠はつばを飲んだ。
異様の怪物を一言で表すのならば蟹だ。
しかし、蟹──とはいうが、その姿はドラゴンさえ打ち破った悠達を恐怖させるに余りある。
怒り、困惑。ドラゴンの瞳からは確かにそれら感情が感じられた。
だがこの怪物はどうだ? 青みがかった灰色の甲殻、規則的に動く多脚、そして感情の存在を否定するかのような眼は『機関』を思わせる。
そう、まるで機械のようなのだ。エネルギーの補給のため、餌を摂取する。それだけのためだけに動いているかのような『生態系を実行するための機械』。
それが、眼前の存在に悠が抱いた印象だった。
「……っ! 来るぞ!」
異質の存在を前に、いち早く指示を出したのはカティアだった。
巨大蟹がその歩みの速度をあげると、まるで悪魔が歯を打ち鳴らすような音とともに巨体が急激に接近する──!
悠はクララを、カティアはアリシアを。それぞれが近くに居た二人を抱えて後方へと飛ぶと、一瞬前まで悠達が居た場所を、巨大蟹の鋏が叩きつけた。
空洞内どころか洞窟の入り口まで届きそうな音とともに、砕けた石の地面が飛散する。
「なんてぇ威力……!」
「道理で洞窟内の生物が居ないはずだ……!」
洞窟の主が如き生物を恐れて近づかなかったか──あるいは、この怪物に喰われたか。これほどの好立地に生物がいなかった理由を悟った悠とカティアは、強く歯噛みする。
思えば気づいておくべきだったと。しかし今となってはもう遅い。
こうなった以上は、戦うだけだ。
「カティア!」
「わかっている!」
二人声を掛け合い、並び立つようにして巨大蟹と対峙する。
恐怖と不快感がないまぜになった戦慄をかなぐり捨てて、悠とカティアは武器を構えた。
「作戦は!」
「盾役囮役は俺! カティアは一発ももらうな!」
「相変わらず無茶を言うなあキミは!」
軽口を飛ばし合うと、二人の息はぴったりと合って、恐怖も何処かへ吹き飛んでいく。
向かってくる巨大蟹を挟むように、二人は散開する。
蟹の瞳は、左右がそれぞれ逆の方向へと向けられ、悠とカティアを絶え間なく監視している。
悠はすかさず『誘引』と『硬質化』を発動。囮として必要な能力を揃えるに至る。
だが──
「む……っ!」
巨大蟹は、それでもなおカティアの方へと向かった。
戦いは常に何が起こるかわからない──その心構えが、薙ぎ払われる刃を回避させる。
後方宙返りで鋭い刃を避けると、カティアは叫んだ。
「恐らく『位置』だ! 攻撃しやすい者を優先的に狙っている!」
『誘引』が効かず困惑していた悠は、カティアの報告で我に返った。
感情が無い様──と感じていた巨大蟹は、正しくそのとおりなのかもしれない。餌として魅力的であるように見える悠よりも、近くのカティアを優先する。それは感じた印象通りに機械的だ。
「接近する! 隙を窺ってくれ!」
「了解した!」
声を掛け合い、悠とカティアはお互いの距離を保つようにして、悠は接近、カティアは交代を同時に行う。
カティアの距離が鋏の射程外に出ると、巨大蟹は予想通り、悠へと鋏を振り上げる。
石の地面を破砕するほどの一撃だ。『硬質化』を使っても無事ではすまないだろう。
今回はいままで以上にちゃんと避ける必要があるというわけだ。
そう考えている間にも地を砕き、破片を飛ばす蟹に舌打ちをしながら、悠は相棒の攻撃を確認する。
飛びかかったカティアが、蟹に剣を突き立てんとする──が。
「ぐっ……! 硬い!」
巨大蟹の甲殻は凄まじい硬度だった。
その音の頑強さは、ギッシリと詰まった大岩を叩いたかのようだ。
頭上へと反撃する巨大蟹の初期動作を見て、迅速に回避行動に移ったカティアは、音もなく着地すると痺れた手を二三払う。
カティアが離れた事で標的が自分に切り替わると、悠は左右から交互に繰り出される鋏の攻撃を避けるために大きく距離を取った。
それでもなお、距離は悠のほうが近い──巨大蟹は再び悠へと接近してくる。
──その瞬間、悠が未知の恐怖を感じ取ったのは、野生の一部として身を晒した経験のおかげかも知れない。
蟹といえば鋏。
種によってその用途は違うが、カニという生物を知るものならば、まずはその両手のそれを連想するだろう。
だが、この『カニ』はそれだけではない──背部から伸びる、蠍の様な尾。
後退する最中で、悠はそれが鎌首をもたげる蛇のごとく、自分に向けられるのがわかった。
あれはやばい。
その危険性を直感で感じ取った悠は、出来るだけシンプルな自分への注意喚起と共に、全力で身を横へと『回避』させる──!
「う、おおおッ!?」
その瞬間、何かが奔った。
何かが──身体を反らすほんの一瞬前まであった場所に『何か』としか言えない速度が駆け抜けていく。
「ユウ!」
「大丈夫だ! ……けどこれは」
視線のみを動かし、何かが迸った後を見る。
……そこには、まさに一閃。『何か』が通った後はバターにナイフを通したような跡が走っており──同時に、凍りついていた。
はっと何かに気づいたように、悠が巨大蟹へと振り返る。
中でも視線は、その禍々しい尾に注がれていた。
尾からは液体のようなものが滴り落ちていた。
そこから何かが放たれたのは明確だ。
ならば、まさか──
「冷凍液……!」
先程の攻撃は、凄まじい勢いで体液を噴出させたものだった。
そして、その体液は──極低温の性質を持っている。
「尻尾に気をつけろ……! これだけは、受けちゃダメだ!」
威力自体もさることながら、触れたものを凍てつかせる性質から防御は不可能だ。
怒鳴るような悠からの指示にカティアは頷き、一層尻尾への注意を深めた。
しかし、どうするべきか。
巨大蟹の防御力は高く、まともな攻撃では傷一つ付けられない。
悪い状況をごまかすように、地球でもカニを食べるのは苦労したな──なんて、悠は笑う。
だが、その時に気づく。
カニを食べる時、どうしていたかを。
「関節だ」
「……?」
「関節のつなぎ目、特に裏側なら、もう少し防御力が低いはず! 行けるか!」
悠は此方に迫る巨大蟹を見据えながら、カティアに指示を飛ばす。
関節。悠の言葉に、カティアはプレートメイルを連想する。確かに、いくら鎧は強固でも、動きを制限しないよう、関節には繋ぎ目があるはずだ。
「……やってみよう!」
「任せた!」
力やスピード、要素ごとに抜き出していけば、悠のほうがカティアに勝る部分は多い。
だがカティアには悠が持っていない戦闘の技術がある、経験がある。
メインのアタッカーをカティアに任せ、悠は前線で巨大蟹の注意を引きつけることに専念することにした。
「っっっっっぶね!」
開き、突き出されるようにした鋏が眼の前で閉じると、悠は冷たい汗が流れるのを自覚した。
『硬質化』こそ途切れさせていないものの、鋭い鋏があの巨体の剛力で挟まれれば──無事でいられると思うほど、悠は楽観的ではなかった。
そもそも、捕まったらアウトだ。
「おわっ、ちょおま、マジでやめろ!」
巨大蟹には冷凍液の噴射があるのだから。
捕まえた獲物に浴びせれば、それだけで終わりだ。
先ほどとは違い横薙ぎに奔る冷凍液を避けるため、悠は敢えて前へと身を交わした。
高所から発射されているため、冷凍液による攻撃は巨大蟹の近くに安全圏があるようなのだ。
「斬るッ!」
鋏の連続攻撃と、尾の冷凍液。一息の切れ間を見つけると、カティアは身を小さくして、低い位置にある関節の裏側を斬りつけた。
鉄の板を割くような音が、火花と共に散る。
確かな手応えに笑みを浮かべるまでもなく、カティアは飽くまでも集中を切らさずに離脱した。
「通るぞ! 関節の裏は比較的柔らかい!」
それでも、あの音を聞けばわかるように、強固ではあるようだったが──名剣ではあるものの、普通と言って差し支えない金属の剣でもダメージを与えられる。
その事実が、闘志の炎に火をくべた。
巨大蟹から痛みや危機感のようなものは感じない。だが、極めて規則正しかった動きには乱れが生じる。
大きな傷を与えれば『性能の低下』は発生するらしい。何処までも機械の様な冷たさを感じさせる魔物に、悠は武器を構え直す。
だが──飽くまでも、巨大蟹も生物なのだ。
その動きは、規則性だけでは縛れない。
「なにっ!」
「お……おい!」
突如として、巨大蟹は悠達を無視し、クララ達の方へと向かっていったのだ。
戦闘に慣れていない二人が狙われた事に、悠とカティアは焦りを隠しれなかった。
巨大な体躯は鎧が歩くような音を立てながら、クララ達へと向かう──
しかし、彼女たちとてただこの旅に着いてきているというわけではない。
クララが両手を、球状のものを包むようにかざすと、そこに強い光が集まり始める。
魔法だ。おそらくは魔力を放出してダメージを与えるタイプ。まるで手に小型の太陽を生み出したかのような、強い輝き。
ただそれに夢中でいるのか、クララは接近してくる魔物にも動じない。
もう、あと数歩で巨大蟹の鋏はクララ達に及ぶだろう。
その瞬間、巨大蟹の体勢ががくりと沈む。
「思ったとおり。とうそうしんも何もないあいてになら、少しだけ『とおり』ますね。クララさん」
アリシアの『まどろみ』だ。
強力な魔物であったため完全には入らなかったようだが、極端に感情が薄い巨大蟹にならば、その一片は通るようだ。
「『バリスタ』!」
そして、体勢を崩した魔物へと、クララの魔法が放たれる──!
巨大な矢に姿を変えた魔力が、巨大蟹の頭部へと向かう。
巨大蟹は僅かに身を捩ってそれを避けようとする。ソレだけの力を秘めているのだろう、初めて見せた回避行動であった。
しかし、緩慢な動作では避けきれなかったようで──飛び出た眼を、魔法の矢が吹き飛ばす!
「す、すげえぞクララ! アリシア!」
心の何処かでは非戦闘員だと思っていた二人の見事な攻撃に、悠は賛辞を送る。
しかしアリシアの『まどろみ』は意思さえあれば打ち破れること、クララの攻撃は野生との戦闘においては致命的ともいえる隙がある事から、二回目はないだろう。
だが離脱するにはそれで十分、そそくさと引いたクララ達は、悠に激励を飛ばす。
「私達は大丈夫だから──だから、頑張って!」
その一言で、悠は今までクララの感じていた苦しさのようなものを感じ取った。
あとで謝ろう──未来に思いを馳せると、もう怖いものはなかった。
巨大蟹に追いついた悠達が、猛烈な攻撃を加える。
2つに分けて死角を無くしていた眼が片方欠けたというのは、完璧なコンビネーションを行う悠とカティアを相手取るには致命的と言えた。
嵐が意思を持ったかのような苛烈かつ正確な攻撃に、巨大蟹は為す術無く体中の関節を壊されていった。
呼吸も忘れて舞う悠とカティア。
しかしそれは、合図を境に終わりを迎える。
巨大蟹の巨体が沈み、地を揺らす。
……ついにその脚の全てが破壊され、身体を支えておけなくなったのだ。
こうなっては、もう移動は不可能だろう。
時折身体を持ち上げようとするも、関節が破壊された脚ではそれも叶わない。
しかしまだ必殺の尾が活きている。
息を荒げながらも、悠達は油断なく巨大蟹を観察する──
だからこそ、気づけたのだろう。
巨大蟹の尾が、先程離脱していったクララ達の方向──アリシアを正確に捉えている事に。
遅れて、アリシアもそれに気がついたようだった。決定的なまでの死の矛先が自分に向けられているという事を。
その破壊力は、一度見たら忘れられないだろう。
『死』。アリシアは幾度も実験体を飲み込むそれを見てきた。
死を迎えた者の中には、仲の良い者もいた。だがどこか漠然と、遠い世界のようにそれを見送ってきた。
だが違う。それを突きつけられれば身は凍り、体中に亡者の爪が突き立てられたかのような痺れが走る。
「い、や」
知らず口から漏れるのは、絶望。
そんな事をしている間に逃げれば──ほんの少し、きれいな形で死ねただろうか。
二つに分かたれた自分のビジョンが浮かぶと、アリシアの身体から力が抜ける。
だが『死』の前に、少年が立ちはだかった。
アリシアと巨大蟹の尾を結ぶ一直線の軌道に立ちふさがるように、悠がその身を滑り込ませる。
それと、尾から冷凍液が噴出されるのは、同時のことだった。
瀕死のためか、それに先程の光線のような勢いは無い。
自分を貫いてアリシアを──ということはないだろうと安堵したのは悠。わけも分からず、悠が身代わりになることを避けようと叫ぼうとするのがアリシア。
そして──同時に勝算を感じたのも、また悠だった。
大きく息を吸い込んで、身を反らす。
イメージするのは地獄の業火。肉まで焦がし骨を煮立たせる闇の火炎。
『ドラゴンブレス』。極低温に対して悠が放ったのは、極限の高温であった。
紅と蒼。熱と冷。相反する存在は互いに近づいていき──激突する。
刹那巻き起こったのは、耳をつんざくような蒸発音と、爆発的な水蒸気の拡散。
文字通りに爆発が起きたと言っていい。その衝撃に吹き飛ばされる悠だが──
彼は、自らの無事を誇るように、叫んだ。
「カティアァァァァァっ!」
その叫びと同時に、カティアは巨大蟹の口にロングソードを突き立てた。
悠の無事を、勝利を予見していたカティアは既に動いていた。
そのまま脳天へと通り抜けた刃は、蟹の内臓を踊りかき回す。
それは痛みを感じずとも関係がないような、圧倒的な『破壊』であった。
勢いよく剣を引き抜くと、巨大蟹からは濁った泡が噴き出してくる。
最後の生命を焼き尽くすように巨大蟹がもがくと──ぱたり、と。死神の構える鎌のような尾が、倒れた。
「や……ったァ……!」
吹き飛ばされたままの体勢、二つの脚の間から、悠は声を絞り出した。
小さく気合を入れてカティアの方へと視線をやれば、清々しいまでのサムズアップ。
悠は威勢よくサムズアップを返すと、立ち上がろうとした。
……しかし、それは後回しになる。
「なんで、たすけようとしたんですか」
「……あー」
申し訳が立たない気持ちと、する意味がないことをされた困惑、そしてごく小さな怒り。
辛そうな──今にも泣き出しそうなアリシアに、ただそう問われて、悠は頬をかいた。
きっとメリットはないはず、だとか思っているんだろうな。なんとなくアリシアの気持ちがわかる悠は、少しだけ、どう伝えるかだけを考えてから答えを返した。
「仲間だからな。まあなんで怒ってるかはわかるけど、メリットがなくても多少無理をしても、俺が助けたかったから助けた。それだけ」
理屈で言えば無茶苦茶だし、仲間とは言うが仮にもリーダーという立場でそれをするべきではないだろう。
言いたいことはたくさんあったが、アリシアの頭の中は今まで感じたこともないような感情の絡み合いでパンク寸前だった。
「その、ありがとうございます」
「ん」
ようやく絞り出したのは、小さなお礼だった。
正直まだ戦力的にも、旅における重要度などから自分を助けるために動いた悠はバカだという怒りがあった。
……けれど、何故自分がそんな事実に対して怒っているかを考えると簡単に答えが出てしまって。アリシアは顔を反らす。
「あああー、疲れた! でもまあ、皆お疲れ様。今日はここでメシにするぞ!」
答えるべきことに答えると、悠の調子もすっかり元に戻った。
目立った怪我が無くて良かったと安堵するクララ、さすがは悠だと『生命の象徴』のタフさに頷くカティア。
だが、その宣言の意味を理解すると、その興奮は辺りにも波及していった。
「今日は蟹づくしと行こうじゃないか! 食うぞー!」
勝てば、繋がる川の流れのように、食事がある。
極圏探索隊の面々はこの旅でそれをしっかりと理解していた。
蟹づくし。この世界ではまだ蟹を食べるという考えはまだ普及していないが、悠にとってはその言葉は、贅沢の象徴の一つだった。
この辺りは海にいるような生物が多いな──なんて思いながら、悠はドラゴンナイフを構えた。




