第四十四話:腕によりをかけて
「それじゃあぼちぼち始めていくかー」
完全に沈黙した巨大な鮫を前に、悠は舌なめずりをした。
傍に川はあれど、まさか砂漠の上で魚を捌くことになるとは思わなかった──この奇っ怪な現状に、上質の獲物に感謝しながら、悠は包丁代わりのドラゴンナイフを取り出す。
「さて、聞かれる前に言っておこう。今回の献立はシンプルにディープホワイトのムニエルと──刺身。生魚だ!」
期待の視線が集まる中、悠は鮫を前にそう宣言する。
生魚──それはかつてクララとカティアを戦慄せしめた、この世界における『禁忌』の一つである。
地球は諸外国における扱い以上に、この世界では『流通と鮮度』が邪魔をして生魚を食べることは半ば自殺行為扱の一つだ。
「なま……ですか。なんこつといい、けっこうげてもの好きですか?」
一度はそれを食べたクララとカティアは問題ないだろうが、アリシアはまだ生魚は未体験。
なんこつの様に『食べられるけど食べない』モノとは違い、半ば毒のように扱われている生魚への抵抗はなまなかなものではない。
「なんこつも生魚も俺の国じゃ結構ポピュラーで人気なんだけどなー。でも抵抗があるのもわかる、ので最初に聞いとく。食うか? 刺身。無理して食わないでも、他に調理方法はあるからさ」
それを見越して、悠は予めからアリシアにその意思を問うておく。
アリシアは──
「いただきます。少なくとも食べものにかんしては、しんらいしていますので」
つみれを食べていなければ、その答えは逆のものだったろう。
しかしアリシアは迷いなくそれを食べる事を選んだ。
嬉しい答えに、悠の口角が持ち上がる。
美味しいという気持ちが百点ならばそれを共有できるという体験は百二十点。美味いものは皆で食べたほうが美味い、それは悠の持論だ。
「よっし! じゃあ調理開始だ!」
気合を入れ直すと、悠はドラゴンナイフを構え、ディープホワイトの身体に対してまっすぐ精密に構える。
解体用の刃が欲しかったが贅沢も言っていられないだろう──今度なにか良い素材が手に入ったら、もう少し刃渡りが長い刃を用意したいものだ。
魔物の素材の調理器具が増えていったら面白いな、なんて考えながら、刃を走らせたその時だった。
「……!(うおお、すげえ抵抗なくすんなり入った……!)」
硬い皮を持つにもかかわらず、ドラゴンナイフはいとも容易く鮫の皮を、肉を斬り進んでいく。
予想以上のナイフの力に、作業も捗る。
「ヒレ……ヒレもなあ、食べてみたいんだけども……」
「……? たべれば、いいのでは?」
「いや、手間も時間もメチャクチャかかるんだ。今は設備も足りないし、時間の方も何ヶ月って単位だ。流石にこれは諦めるしか無い。高級食材ってんで、興味はあるんだけどな」
「ユウの国における高級食材か……それは少し、いやかなり興味があるな……」
「いや、味自体は大したことがないらしい。食感がとにかく良くて、ぎゅんぎゅん味を吸うんだとさ。まあ、他になるものもあるかもしれないな」
途中、悠が何気なく呟いたのをアリシアが拾うと談笑が始まったりしつつ──ようやく、ディープホワイトから大きな切り身を取り出すことに成功する。
「……すっげぇ。見ろよこれ。脂のノリ方が尋常じゃねえ……」
「うああー! 何これ、こんなの見たことないよ……!」
「きめ細やかな脂がきらきら光って……ディープホワイトの凶悪な顔からは想像できないな……」
特にその白身の部分──それは、マグロの大トロに勝るとも劣らないほどの脂のノリ方であった。
手がじっとりとぬめる脂の感触も、これを見てしまえば些細なことだ。
赤と白が作る魅惑的な模様に目を奪われる悠達だが、食べモノに対する興味が人一倍強いからこそ、興奮を振り切って先へ進んだ。
……この世界の『魔物』にどれだけ通用するかわからないが、地球では死んだ鮫はアンモニア臭を放ち始めるのだ。
そもそもそれは海水の中で暮らす鮫が身につけた生態ではあるのだが、姿が似ている以上警戒しておいて損はない。念には念を入れて、という話だ。
ドラゴンナイフを刺身に走らせていく。
音もなく、乱れのない精密な動作──刺身はその見た目のシンプルさに反して、高い技術を要する『料理』だ。刃を走らせる際には身を切り崩さないよう──細胞を潰すことにさえ気をつけながら行わなければならない。
「な、なんか今日は気合が違うね」
「ああ……美しささえ感じさせる動きだな」
「なるほど、これはりっぱな『ぎじゅつ』です」
一糸乱れぬその動きは、悠が必死に習得したものだ。まだまだ鉄人たちの動きには敵わないものの、若者が扱う技術としてなら多くの者に舌を巻かせるだろう。
さて、刺身を切り出した悠は葛藤していた。それは味付けである。ここで塩で決めてしまうか、あるいはオイルと併せ洋風に仕上げるかだ。
醤油がなかったことをこれほど悔やんだことはない。この肉質、そしてここからでも香る芳醇な脂の甘み。一滴、たったそれだけ醤油があればきっとこの刺身は食べた者を天上へと誘ったはずだ。
だがないものねだりをしても仕方がない──というのは、サバイバルで培った思想か。
逡巡の後、悠は決断を下す。塩のみ。これだ。
足りぬわけではなく、多すぎるわけでもない。絶妙。振り子の真ん中を狙うかのような精密さで、悠は刺身に塩をかけた。
結果は──成功であることに疑いの余地はない。塩で身を引き締められた刺身が、一層その輝きをましたような錯覚さえ起こしたからだ。
刺身が上がれば、次はムニエルだ。
此方に使うのは赤身の部分である。
塩コショウ、小麦粉をまぶした切り身をバターと共にフライパンで焼き上げる──
ディープホワイトの身は、非常に多くの脂を含んでいる。バターは香り付け程度の少量が良いだろう。
小麦粉がカリッとした食感を生み出せば──完璧だ。
「出来上がり! ディープホワイト刺しと白砂鮫のムニエルだ! 刺身は鮮度が落ちたら良くないから、早速食べようぜ」
「おおー……早い! あっという間にこれだけの料理が……スゴイなあ」
「いつもながら舌を巻く。流石だな」
今回は鮮度との勝負ということもあり、悠の気合は十分だった。
その間、数分ほど。たったそれだけで、クララ達の前にはご馳走が並べられていた。
「これは……おいしそう、です」
感動するよりも先に、アリシアは驚愕していた。
生魚、これが本当にそうだというのか。赤と白が織りなすコントラスト。薄暗い砂漠にあってなお輝くような脂の輝き──立ち上ってくる甘い香りは上質なミルクさえ思わせる優しさを連想する。
また、ムニエルの方もすごい。
脂が差し込まれた赤身が焼けたその姿は、よく脂の乗った牛ステーキを思わせる色合いだ。
ステーキの実物を見たことがないアリシアだったが、ステーキはこんな風なのだろうか──と思い浮かべ姿はドンピシャであった。
それほどまでに、その二皿は抗いようのない力で食欲を引き出していた。
「それじゃ、いただきます──」
「あっ、い、いただきます……!」
ただ漫然とそれを口に運ぶのは、罪業である。
そう思わせるほどの威圧感に、アリシアは慌てて悠達に習う。
どちらから行くべきか。そのどちらもが究極を思わせる二皿は、人生の分かれ道さえ思わせた。
だがそれでも敢えて選ぶのならば──悠がしきりに鮮度を強調していた刺身の方。
たっぷりの迷いは、アリシアを含む全員に正解を選ばせた。
その、味は──
「んむぅ……! んんんん……ッ!」
言葉を失うほどの味だった。
融点の低い脂は舌の上で容易に溶け出し、噛む度にその世界を膨らませる。
甘い脂が感じさせるのはただただ深さと、鮫の生態にも外見にもかすらないほどの優しさ──
「おいしいです……! したでおせばとけてしまうほどのなめらかさ、あぶらのやさしいあまみ……! くどさのかけらもなく、さらりとあとあじがきえていくさまはゆきどけのよう……! これがあのさめのおにくだと言うのですか……!」
「や、やたら詳細な食レポありがとう……? いや、でも驚いた……塩だけでこんなに臭みがないものなのか。最高の馬刺しでもこうはいかねえぞ……」
基本的に、悠達は言葉のボキャブラリーが少ない。
それでも悠は美味いということがわかれば十分程度に考えていたのだが、大絶賛を詳細に出力するアリシアのレポートは、それはそれで嬉しかった。
「いやー……でもこれはスゴイな。塩だけでこんなに臭みがないなんて……」
薬味の力もなし、醤油もなしで全く臭みのない刺身。自分で作ったにもかかわらずそんなものが実在するのかと、悠は夢見心地でいる。
実際には、これは悠の施した絶妙な塩加減も一役買っていたのだが、素材の力が大きいのは言うまでもないだろう。
「ムニエルの方はどうかな~」
こうなると、もう一皿の方も気になるというものだ。
薄い小麦粉の層にフォークを入れると、赤身は脂の層に合わせてほぐれるように崩れた。
その柔らかな感触は持ち上げれば解けて落ちてしまいそうなほど。
注意深く一口分をフォークに乗せて口へ運ぶと、そこにあったのはまた天国だった。
強い脂の層がはっきりとしているせいだろうか、ムニエルは口の中に入れた瞬間、僅かな衝撃でさえほろりと崩れていく。まるで蕾が開花するように、小さな塊が一斉にはらりと開くと、口の中には繊細ながら力強い、獣肉にさえ錯覚する旨味が迸る。
赤身の力強さが、脂の甘味が、少し口を動かす度に一斉に咲いては散っていく。連続で花火を打ち上げているかのような目まぐるしい旨味に、これもまた言葉を失った。
「やわらかい……あかみとあかみにさしこまれたあぶらのそうがとけてはあかみをすべりおとしていきます。かまずともたえまなくうまみがふきだしてくる。またバターのふうみがみるくのようなやさしいかおりによくあっていますね」
一人、雄弁に語るはやはりアリシアだ。
素材としてだけではなく、料理としても評価を忘れない辺りにアリシアの流儀が感じられる。
しかし長々と語っていては刺身の鮮度は落ち、ムニエルの蕩けた脂も固まってしまうだろう。
ひとしきり評価を下すと、後はもう全員が単純な感想しか言えなかった。
美味い美味いと言いながら、それを食べ終わるのは、作る時と同じくらい早かった。
「っはー、満足……! 鮫の刺身、一回食べてみたかったけどこれはまた別格だなあ」
「たしか古くなると食べられないんだっけ? 極圏じゃないと味わえないんだねえ……」
「まあ、ソレは海の魚の話だけどな。大丈夫かもしれないし、使えそうな部分は持っていってみるか」
恍惚の表情で腹を擦っていると、今日はもうこのまま眠りについてしまうのが一番幸せだろうと思ってしまう。
だが実際にはテントも張っていないし、もう少し移動しておきたいというのもある。
寒さに構わず今日一日を終えたくなってしまうほどの満足感は、ある意味で危険とさえ言えた。
「よーし、じゃあ満腹になった所でもうひと踏ん張りと行くかー……」
「そうだな。ならば早く動こう。じきに日が暮れてしまうぞ」
それほどの満足感だからこそ、その充足は活力として悠達の身体を動かすのだった。




