第二十話:光進
その光景が、二人にはまるで水底の中のようにゆっくり見えた。
ドラゴンに両刃剣を突き刺す悠。痛覚にねじれた叫びを上げるドラゴン。
与えた傷は深く、勝利を確信した。その瞬間にドラゴンが口から炎を爆ぜさせて、悠の方を振り向く様が。
「いやああああああッ、ユウううぅぅぅぅっ!」
そして──悠が、ドラゴンのブレスに飲まれていくさまが。
叫んでも、時は止まらない。ただただその光景から一時も目を離せないでいたから、その一瞬が傷のように長く、痛く続いただけだった。
「そん、な。ユウ……」
ひと目見て、悠は助からないと判る光景だった。
ドラゴンの吐くブレスは、この世界では有名だ。燃える間もなく木を焦がし、鉄をも溶かし、地獄を作り出す。
恐ろしい存在の吐き出すおぞましい物は、この世界では絶望の代名詞だ。
あまりの温度に、人は燃え尽きて死ぬことさえ許されない。一瞬の内に表面だけが焦げ、その中で肉が沸き立ち、骨から散っていく。およそ考えられる最大限の苦痛を持って死ぬ冥府の炎。それがドラゴンの吐き出す『ブレス』という現象だった。
悠がブレスに包み込まれた。その意味する事を理解してしまったカティアが崩れ落ちる。
状況が絶望的になったからではない。朗らかで、食べることが何よりも好きで──そんな、生命の象徴にさえ見える少年が、命の恩人があっさりと死んでしまったからだ。
その耐え難い喪失感が思った以上に大きく、カティアの身体から『支え』を抜いてしまったので、彼女は立っていられなくなったのだ。
クララは、自分のせいでユウが死んでしまったと、半狂乱になっている。
実際に誰のせいか──というのは、語れまい。あえて言うのならば当たり前に『ドラゴンのせいだ』といえるくらいだ。
それでもクララは自戒の念と喪失感で押しつぶされそうになった。
──もう少し遅ければ、本当にそうなっていたかもしれない。
「死ぬかと、思っただろうがぁ!」
炎の中から白い塊が現れ、更にその中から見知った少年の姿が現れなければ。
その声に、クララとカティアは虚を突かれ、泣くのも忘れてその光景をただ見ていた。
もはや言うまでもないだろう。
炎の中から現れた、白い塊、そしてその中から現れたのは──
「ユウっ!」
上総悠、その人だった。
しかも現れたその姿はほぼ無傷。衣服にさえ傷がないほど完璧な状態だ。
「な、何故……っ!? いや、嬉しいが、しかし!」
涙を滲ませたカティアは、泣き笑いの表情になって、叫ぶようにまくし立てる。
何が起きたかを冷静に整理しようとしているようだが、これが現実であるようにと祈るような表情を見れば、まだ冷静でないのは判るだろう。
「話は後だ! それより──少しだけ、時間を稼げるか!?」
この場において、今一番冷静なのは、いままさに死にかけたばかりの悠自身だった。
逆に、最も驚いていたのは──ドラゴンである。
あらゆるモノをこの世ならざる存在にする竜のブレス。それを受けて無傷で居たものなど、いまだありはしないのだから。
「……っわかった! 任せておけ! 時間など、いくらでも稼いでやる!」
悠が自分に声をかけた。その事実は、今目の前の光景が夢想のものでないことをカティアに知らしめる。
涙を拭って剣を構え直すと、カティアは悠とすれ違いざまに戦列へ躍り出た。
「何秒欲しい!」
「二十……いや三十秒!」
「容易い!」
悠の自分でも無茶かも知れないと思った要求を快諾すると、カティアは一度目を瞑る。
そして、開く。たったそれだけ。たったそれだけで、意識を切り替えると──カティアの身体から、暴風のような圧倒的な魔力が噴き出してくる。
──魔力とは、心の力。悠の生還はカティアにとって、事実以上の意味を持っていた。生命の象徴が生きて帰ってきたいま、彼女に『怖いものはない』。
「すげえ、なんにもわからない俺でもすげえってワカるのが、すげえ」
魔術の基礎しか知らない悠には今のカティアがどのような状態にあるのかわからない。それでもその身に宿す精神の力は、はるか遠い科学文明に生きていた悠に届いていた。
「こうしちゃいられねえ」
前方で剣と爪の打ち合いで激しい金属音を打ち鳴らすカティア達をよそに、悠は集中力を高めていく。
……ごく野性的なやり方だが、悠もまた己の内に眠る魔力に働きかけていた。
今、悠の体には大きな力が渦巻いている。それはこの世界で食事をすることで蓄えられた魔力だ。それらは悠の体を廻り、身体能力となって現れていたが──魔力の器を拡張し、並々と水を湛えても、放たれることはなかった。
それが、開放されようとしていた。まるでダムの堰を切ったように。水門の鍵がその手に握られることで。力を開放しつつあることで、悠はその力の資格者と成りつつあった。
その契約を済ませるための時間が、カティアに稼いでもらった時間だ。
一度は目覚めなかったと思っていた力だが、悠には今の自分にそれが出来るという事が漠然と理解できた。
深く集中すると、世界が静かになっていく。ただ敵の姿だけを見据え、両刃剣を構える。
そうして、悠は脚に力を込めた。求めるのは最も早く最も雄々しい真っすぐの力。
究極を求めて力を込めれば込めるだけ、満ちてきた。限界があるのか、わからない。しかしある一点を境に──それが、溢れ出す。
溢れず、霧散せず。力の光となって、脚に集う。
「ユウ……それって……!」
その悠の姿に、クララがあるモノを想起した。
もう、言うまでもないだろう。力は満ちた。
「カティアッ!」
ただそれだけで十分だったのは、短い間ながら命を預けあって戦ったからだろう。
悠の叫びを聞くと、カティアは強く地を蹴って、右へ跳ねた。
ほんの一瞬だけドラゴンの眼はカティアを追ったが、光り輝く悠の脚を見れば、真に何を警戒すべきかわかったようだ。
……悠が取り込んだ能力には、名前がない。それは基本的に魔物の生態の一部であって、単なる行動だ。故に内容を説明すれば識別する必要はない。『硬質化』も『誘引』も、便宜上悠がそう呼んでいるだけの力だ。
だが──この力には、名前がある。麓の住民を恐れさせ、山の魔物を恐怖で支配した暴君の力は、名を冠した。
「『チャージ』!」
その名を解き放つと、悠は地面を蹴り砕く。衝撃が走り、石の地面が円形に陥没する。
それは余波に過ぎない。
光の弾丸と化した悠は、一直線にドラゴンへと向かう。
ディアルクの光角の様に真っ直ぐに。目指すは一枚だけ喉元に生えた逆さの鱗。
逆鱗。竜の弱点とされる、ただ一点だ。
ドラゴンはかつてのディアルクの様に、生まれて初めての恐怖を感じていた。絶対たる存在と自負していた自分の生命が脅かされるその感覚が『恐怖』だということさえ知らず、ただ光に握りつぶされるかのような漠然とした不安を覚えたのだ。
ここで少しかの暴君とこの『支配者』に違うところがあったとすれば──支配者に慢心がなかったことだろう。
即座にブレスの準備を整えたドラゴンが、一も二もなく地獄の火炎を吐き出した。
皮を焦がし、肉を湧かせる極高温。
だが──意外と、試したことはないだろうか。
炎に触れるのが一瞬なら、熱くない。凄まじい速度で駆ける悠の身体には、空気の膜が覆っているのだ。いかなドラゴンブレスと言えど、今の悠を止めることはできなかった。
「突き抜けえええええぇぇェェェッッ!」
雷の轟くが如き咆哮を上げ、悠はドラゴンの逆鱗へと両刃剣を突き刺した。
「カェェッ──!」
喉に突如として生えた強烈な異物感に、ドラゴンは既にまともな発声さえ出来ない。
まして、全てを焼き尽くすブレスなど、とてもとても。
逆鱗への一突きは、ドラゴンへ強烈な苦痛を与えているようだった。それが何故なのかは分からないが──動物の身体を参考に、急所を狙った一突きは、筋肉という構造の力によって防がれた。
ならば、幻想の弱点とは。
逆鱗に突き刺した両刃剣を力強く握りしめ、思い切り横へと薙ぐ。
血に混じって火花を散らしつつ、光の両刃剣は美しい軌道を描いた。
ドラゴンは首の半分を断たれた形だ。よもや反撃には転じられまい──と、思いつつも悠は背後へと跳んだ。万一があるのは身にしみた。震える竜を厳しい瞳で見つめ、悠は次の一秒を延々と待ち続ける。
「カァ……カァァ……カ……」
ドラゴンは時折口元に炎を混じらせつつ、苦悶の呻き声を上げている。
この状況に置かれてなおブレスによる反撃を試みているのか? と悠は注意深くドラゴンを観察するが──どうも、違うらしい。
むしろ、逆だ。ドラゴンはこみ上げる炎を抑えようとしているかのように見えた。
行動の意図を測りかねていると、その時は訪れた。
「ケギャァァァァッ!」
逆鱗の傷口に、炎が奔る。
かと思うと──火薬を詰めすぎた花火のように、ドラゴンの首元に炎が迸った。
炎は導火線を焼き尽くすようにドラゴンの傷口を一周すると、すぐさま収まったが──燃え尽きた導火線が崩れて落ちるように。
ドラゴンの首が傾き、地に落ちる。
「あ……」
悠がドラゴンの首を切り払ってから、十秒にも満たない間の出来事だった。
地に落ちたドラゴンの首はもう動かない。やがて──その巨体も、重力に引かれて地に崩れておちた。
──ココまで来れば、何が起きたかわからない三人ではない。
いかに強大な相手だろうと、首を落とせば死ぬのだ。
苦悶の表情でどこか遠くを見ているドラゴンの瞳は、もう何かを映すことはない。
ようやくドラゴンが死んだことを理解すると、死と生が三人になだれ込んできた。
「や……っっったぞおぉぉぉっ!」
最初に勝鬨を上げたのは、悠だった。最後の一撃が自分だったからこそ、勝利の実感が湧いてくるのも早かったのだろう。
天高く両刃剣を掲げるその姿はまさしく勝鬨。悠自身、まさかこんな事はしないだろうな……と思っていたが、いざやってみると心地の良さを感じていた。
「勝、ったのか。ハハ……まさか本当に、こんな戦力で勝てるとは……! それも、目立った外傷は無しと来たものだ!」
次いで、その美酒を煽ったのはカティアであった。
カティアは、ドラゴンがどれほど強力な存在か知っている。その喜びもひとしおだ。
静かに打ち震え、自分たちの成し遂げたことがどれほどのことかを考えると、焦げ付くように胸が熱くなってくる。
「う、うううううう……よが、よがっだよぉ……皆、みんなでいぎでるう……!」
だが一番その喜びに打ち震えていたのは──他でもないクララであった。
自分なんか見捨てればいいのに。何度口にしかけたかわからない言葉を飲み込んで、結局はドラゴンと邂逅してしまった。その上、一度は悠が死んでしまったかと思って──今は、皆でこうして勝利を喜んでいる。
まさに地獄から天国の格差だ。ギリギリ女の子がしてよいかどうかというラインまで顔を歪ませて、クララはほとほとと泣いていた。
「お、おおう……落ち着けって。みんな無事だから、な?」
「そ、そうだぞ。一時はどうなることかと思ったが、今こうして生きている。どうせならば泣くよりも笑おうじゃあないか!」
あんまりにもあんまりなクララの様子を見て、悠とカティアは逆に冷静になっていた。
そんなやり取りをしていると、なんだかキャンプに戻ったようで。悠とカティアは、顔を見合わせて笑った。




