第一話:初めての食材
「ふう……一先ず、川が見つかったのはラッキーだったな」
そして、十数分後。悠は川を見つけて、額の汗を拭っていた。
こればかりは、彼の運が良かった……という他ないだろう。何につけても、水だけは摂らなければ生きていけない。遭難した『場所』が無人島だろうが砂漠だろうが、遭難した『時』に最初に確保しなければならないのは何をおいても水になる。
一番必要なモノを最初に見つけられたのは、本当に運が良かった。悠は轢かれて死んだという不幸を体験したばかりであるにも関わらず、己の幸運を感謝する。
結局プラスマイナスゼロ……どころか『事故で死んだ上に異世界へ飛ばされていきなり遭難』という極度のマイナス状態にあるにも関わらず、悠は不幸に気づかないまま幸運をひとしきり喜んで、次の行動に移った。
興奮から出る独り言もそこそこに、押し黙った悠は水面に顔を近づける。
この川がどんなモノか。具体的には飲める水が流れているかどうかを確認しているのだ。
「……流石に、大自然だけあって水は綺麗だな」
悠が見つけた川は、端的にいって綺麗だった。それこそ幻想的なまでに。だが感動さえ覚える様な水の透明度も、異世界という幻想そのものの前では霞んでしまう。
今はその水が飲めるかどうかのほうが重要だからだ。
水は一点の濁りもなく、綺麗だった。第一関門は突破といったところだろうか。
しかしそんなものは見れば分かることだ。悠が探しているのは、別のものである。
「……! 居た!」
悠が探しているものは、とある生物だった。
異世界で地球に居る特定の生物を探すのは愚行と言えるが、肝心なのはそこではない。
似たものを見つけられるかだ。
「筒状とはまた珍しい。……エビ、ではないし、ザリガニでもない……よくわからんやつだなあ……でもまあ、大丈夫だろ!」
悠が探していた目当ての生物とは、ザリガニやエビといった殻を持つ水棲生物であった。
その水が飲めるかどうかを調べる際、水に住まう生物を基準にすることはよくある。
例えばカタツムリやヒルなどがその川に見られれば、遭難という状況下ではまずその水は利用できないといっていいだろう。カタツムリ、ヒル、トンボの幼虫や、ボウフラ等。これらが生息する様な水質の水を飲むためには、科学的な処理が必要になる。
逆に、昆虫の幼虫などが見つかればいい傾向にある。これらが見られれば、その水は濾過や煮沸などの比較的容易な手段で飲めるようになるからだ。
そして、ザリガニやエビ等の甲殻類が見られるのなら──その水は、そのまま飲んでもとりあえずは大丈夫だと言われている。
「ひとまず安心、か。これで駄目なら、その時だな。どうせ一度は死んでる身だ」
もちろん、それらは地球での話だ。悠が今いる世界では、全く逆という事もありえる。
だが一つの指標としてそれらが優秀な事は知っていた。もしもそれらが全く当てはまらないのならば、悠の持つ知識はほぼ役に立たないといっていいだろう。
ある意味では博打とも言える。だが、この水が大丈夫ならば──悠は、この世界で生き抜く上で、一つの──知識という拠り所を見つけることになるだろう。
ひとまずの安心を得た悠は鞄から使用済みのペットボトルを取り出した。二度三度ゆすぎ、飲みくちを擦ってから容器に水を満たしていく。
空の陽にペットボトルを透かすと、そのままの光が通ってきた。不純物は見つからない。
悠は、先に生唾を飲み込んでから、ペットボトルに口を付けた。
……当然、自分の知識が全くあてにならないという事に対する恐怖はあった。毒か酒か、名のある武将が己の勇気を確かめるような気分で、悠はそれを一気にあおる。
すると、悠の顔が驚きに見開かれた。
続いて、一定のリズムをもって喉が躍動し、鈍い水の音を響かせ始める。
「(う……まいッ!)」
臭みはなく、味もない。しかしほんのり香る『山』の芳香。悠はこの上ないその水を美味と感じていた。気温は然程高くはないとは言え、悪路を歩けば当然身体は火照る。その上、ここは名前すら知らない、地球ですらないどこかだ。身体と心が熱くなった人間が求めるモノなど、状況に対する理を廃しても一つしか無いだろう。そんな状況下で、初めて口にするモノ──それは心地良い冷たさと、地球ではもはや見られぬほど清廉な環境で磨かれ抜いた水だった。
『味』が、優しい冷たさが、悠の心体を丁寧に冷やしていく。
「ぷっ……はぁ! なんだこれ、水がこんなに……!」
気がつけば水を飲み終えるまで息をも吸い込み続けていた悠が、驚愕を口にする。
その水は、地球上では有り得ない程の『名水』だったのだ。
しばし恍惚となる悠。やがて頭を振るってから、悠は川へ視線を落とす。
「水ってのも、変われば変わるもんなんだな……それとも、ここが異世界だからなのか?」
アウトドアを趣味とする悠は、わざわざその水を求めて山を登る者も居るという『名水』を現地で飲んだこともある。だが、その感動は今飲んだモノに比べれば、濁ってさえいるように思えた。
思わずもう一杯と水を汲み、飲む。一度目ほどの衝撃はなかったが、その水はより悠の心を冷静に近づけた。
「……と、やってる場合でもないな」
もう一度ペットボトルを濯いでから、鞄にしまい込むと、悠は他のモノを取り出した。
それはもう一本のペットボトルと、筆箱──の中にあるカッターである。
近くの石に腰掛けて、悠は二本目のペットボトルを切っていく。まずは白い飲みくちの根本からを落とし、その次は中間より上のあたりを。最後に、底の部分から少し上に穴を開けていく。……意外と、知っている人も多いのではないか。そう、川で小魚やザリガニなんかを取る時に作るような、簡易のトラップである。
切ったペットボトルの上部をハメ込むように、逆にして下部にくっつければ、完成だ。
後はそこに弁当の残りを入れて、準備完了である。
「掛るといいんだけどな……人に慣れてなきゃ、掛ると思うんだが」
そうして、悠は作成した簡易の罠を重しとともに川へと沈めた。直接手で採集してもいいのだが、ここは異世界。何が起こるかわからないし、他にやるべき作業もある。
罠を沈めた場所だけ覚えてから、悠は大漁を願って川を後にした。
◆
そうして、暫く。悠の現在地は川から程よく離れた場所だ。
「ふうっ……こんなもんかなあ」
先程よりも明確に汚れた悠が、汚れを払うように手を叩いた。
悠の眼前には、一見してなんだかよくわからないような──草木の寄せ集めがあった。それがなんなのか、直感的に分かる者も居るかもしれないが、ある程度の割合には説明が必要になるだろう。
「寝床はこれでよし。後は──やっぱり、メシだなあ」
悠が食料採集よりも優先したのは、拠点となる寝床の確保であった。
山は天気が崩れやすく、気候も変わりやすい。それらから身を守る場所を用意するのは、優先度が高いことといえる。
資材が少ない中悠が作ったのは、リンツーと呼ばれる簡単な差掛け小屋だった。木を差し込んだ土台に、枝と葉をかぶせていっただけの簡素なものだ。本来であればブルーシートなんかを用いることが多いが、日常的にそんなものを持っているはずはない。
だが作る手間こそはかかるものの、葉の茂った枝をたっぷりと重ねている小屋のなかは、見た目よりも数段温かかった。雨も防げるだろう。まだまだ虫など問題は多いが、やることが山積みである現状では十分な代物と言えた。
「じゃあ……罠の方に行くか。かかってるといいんだけどな」
最低限の寝床を用意した以上、今は環境のアップグレードよりも食料が優先だ。
生きるためだけではない。恐らく地球人が誰も食べたことのない、未知の味覚に対する興味。悠の脳内は今、それでいっぱいだった。
程よく離れた川へと歩き出す。水場は近いほうが便利ではあるが、あまり川に近いと雨による増水や鉄砲水が起きた時に危険だ。
少し歩いて、川へと到着した悠は、罠を回収する。そこには──
「いたいた! ……川の生き物の捕り方ってのは、異世界でも変わらないんだな」
先程川の中で発見した甲殻類が蠢いていた。
今まで見たことの無い形状だが、殻は見られ、色も地球に居た甲殻類とは共通している。
見た目だけで判断するのならば『食べられそう』に見える。
「よし、じゃあ新鮮な内に調理するためにも、さっさと拠点に戻るか」
こうして異世界での最初の『食材』を手に入れた悠は、足早に拠点へと戻るのであった。




