第十四話:衣と食と……
静けさの木々の中。
悠はベースキャンプから僅かに離れた場所で意識を集中していた。
まだ日は高く、昼を回ったかどうかといった所だろうか。悠がこうして一人集中を高めているのは、身につけた能力を使いこなす訓練を行うためだ。
本日は調子が良く、食料の調達がスムーズに完了したため、この山で生き抜く力を上手く扱うために自分の持つ力を確認しているのである。
大きく息を吸い込み、吐き出す。身をかがめた悠は、思い切り垂直に飛び上がる。
重力に逆らって跳ね上がる視線は、何も身に着けていない、何にも乗っていない状態では有り得ない程の速度で空へ跳ね上がっていく。その上昇は木の頂上までは届かなかったが、木の背丈の半ば以上へと届くとようやく下降を始めた。
「っとと、我ながら人間離れしたもんだなあ……」
僅かにバランスを崩しながら着地すると、悠は恐る恐るといった様子で苦笑する。
今の垂直跳びの記録は十メートルに届いたか否か、といった所だろうか。もはやアスリートの全力は愚か、地球上の生物を全て含めても悠には敵うまい。
「次は、と」
それは、戦闘力に関しても同じだ。強靭な身体能力に加え──彼には、食した獲物から奪った特殊な力がある。
意識を傾け、身体に命じることで、悠の身体は紅い光に包まれる。便宜上『硬質化』と名付けられた能力は読んで字のごとく、悠の身体を衝撃から守る鎧となっている。
この状態ならば石を全力で叩いても、傷つくのは石だけだ。悠の拳は無傷で守られる。
「誘引の力は……やめとこう。余計なもんを引き寄せても困る」
それに加えて、彼は自らを魅力的な食物に見せかけることで生物を誘引する力がある。
強靭な身体能力、強固な外殻、そして擬態にも似た獲物の誘引能力。更にその身体能力は上質な食事を摂るほどに強くなるという能力まで持っている。
それなんて究極生物だ……と。彼には自嘲的に笑うまでの知能さえもあるのだ。
もしも悠がこのまま地球に帰還したならば、間違いなく地上最強の生物と言えるだろう。
そんな彼にも、今は悩みがあった。
遭難中という身分もそうだが、もっと大きな悩みだ。それは、数日前に身につけたある力が関係している。
躊躇いがちに何かを考えてから、自らに眠る力に語りかける──
すると、悠の身体を作る仕組みへ新たに取り込まれた『魔力』が湧き上がってくる。
身体の内から外へ。力強い息吹が吹き上がる──!
ただしそれは──泡という形で。
「……いや、どうせいっちゅうねん」
強靭な身体能力を持ち、強固な外殻を発生させ、獲物を引き寄せる力さえ持ち──あまつさえ、毒を見分け、食べるほど強くなる力まで持つ。更に更に、知能まであり……
泡が出る。
自分が何処へ向かっているのかわからない。マッドサイエンティストがお遊びで作った怪物の様な、ギャグ漫画の登場人物のような。圧倒的な行き先の不安というか、進路の悩みが、今の悠を苦しめる悩みの原因だった。
「ユウ? 少し良いか──って、なんだ貴様はっ!」
体中が泡に包まれた悠は、もはやなんだかよくわからない生き物になっている。見ようによっては人型の白いふわふわであり、イエティにでも見えるかもしれない。
そんな奇っ怪な生物に対して声を荒げたカティアに、悠はゆっくりと振り返る。
「わしじゃよ」
「あ、ああ……泡の力を試していたのか。すまないな、あまりにも珍妙な光景ゆえ、つい……」
抜き放ちかけた剣を収め、カティアは謝罪する。
泡を消そうと意識すると、泡は弾けるよりも早く、一瞬で悠の身体から消えていく。
水中ならばバブリンと同じように使えるのかもしれないが、魚のように早く泳ぐことができなくては、逃げることには使えないだろう。
どう扱えば良いかわからない力に自虐的な笑みを浮かべるその姿は、煤けていた。
「ん、別にいいって。俺も珍奇な光景だと思うし……で、どうした?」
「ああそうだった、クララが予定より二三日早く治療が終わるかも知れないということなのでな、これからのことを改めて話そうと思ったんだ」
期せずして追い打ちをかけてしまう形になったカティアは、悠の言葉を救いとして飛びついた。
「お、良い知らせだな。じゃあキャンプに戻るか」
「そうだな。……っと、すまない」
だがひとまずの会話が終わると、カティアが脚をふらつかせる。
悠が抱きとめると、カティアは簡素な礼を言って歩き出した。
「……具合、悪そうだな」
カティアがキャンプに合流してから、四日ほどがたった今。最初の一日をピークに、カティアは段々疲労が蓄積していっている様子だった。
本人はそれを表に出すまいとしているようだが、よろめくほどではそれも意味がない。
呟きは木々のざわめきに浚われ、カティアへ届くことはなかった。悠も直ぐにその背を追って歩き出すが、その瞳は険しいままだった。
◆
「じゃあ、予定を早めるって感じで平気そうなんだな」
「うん。本当にいいご飯が食べられてるから、魔力がいっぱいで予想よりずっと治りが早いんだ。これもユウのおかげだよ……」
キャンプに戻った悠は、クララ達とこれからの予定を話していた。
といっても、話していたこと自体は今までに打ち合わせた内容の焼き直しだ。
「本当に……私なんかのために、しかも怪我までしてて何にもできないのに、色々してくれて……感謝しきることもできないよ」
「だから、クララが居るから頑張れるって言ったろ。俺一人だったら多分ディアルクからも逃げようとしてて、カティアとも会えてなかったよ」
最近では影を潜めていた控えめな思考を咎めると、クララは肩を狭めるようにして小さくなる。
その姿に悠は少しだけ笑う。改めて考えると、クララが居なかった時に自分はどうしていたか。恐らくこんなふうに笑ったりはできなかっただろう。ディアルクに立ち向かうことはなかったろうし、だとすればカティアと出会うこともなかったろう。もしかすると、食事を楽しむ余裕さえなくしていたかもしれない。
想像は飽くまで可能性に過ぎない話。しかしクララの存在には、確かに救われているのだと思うと、自分の『幸運』に感謝せざるを得なかった。
「なあ、だとするとカティアも危なかったかもしれないよな」
もしそうなっていたら、あるいはカティアも──と。本当に何気なく、悠は隣りに座るカティアへと声をかける。
「……っ! す、すまない……少し、寝ていたようだ。今、私を呼んだか?」
するとカティアは、びくりと身を震わせてから、悪夢から飛び起きるように返答した。
その目には明らかな疲れを映しており、顔色も優れない。
「いや、ちょっと話しかけただけ。でも……どうした? 具合悪いんなら、寝てた方がいいぞ。食料にもまだ余裕があるんだしさ」
「具合が、悪いというほどでは……」
「悪い、よね? 顔色、良くないよ」
「さっきだって倒れそうになってただろ?」
「うぐ……」
問い詰めるような悠の視線から逃れながらも否定するカティア。そんな彼女に追い打ちをかけたのは、悠だけではなかった。
それほどまでに、一見して判るほどカティアの体調は悪かったのだ。
「もし何かあるなら、早めに言ってくれ。山で体調を崩すのは、本当に洒落にならない。敢えて厳しい言葉で言わせてもらうけど、今黙ってて後で何かが起きたら、お前が今考えてる以上の『迷惑』になるぞ」
クララを説得するのとは逆に、悠は強い言葉で律するようにカティアを諭す。それでも敢えてと取り付けたのは、悠自身もあまり言いたくない言葉だったからだ。
だがそれはカティアに対しては一番有効な手段である。責任感が強く、聡い彼女にはその言葉が本当だということも判るし──何より、その言葉が悠自身にとって好ましくない発言だという事がわかってしまうのだから。
「そうか、そうだな……済まなかった。いや、私も何も考えなしに話さなかったわけではないんだが……言った所で仕方がないというのもあり、話すのが遅れてしまった」
こうなった以上、カティアにはもう口を噤んでいることができない。
悠とクララが見守る中、カティアは意を決した表情で口を開く。
「実は、単純に──寝不足なんだ。しばらくロクに寝ることができていない。結局まともに寝ることが出来たのは、ユウ達と出会ったあの日くらい。後は……限界が来て少しだけ寝入っては直ぐに目覚める、その繰り返しだ」
カティアの体調を悪くさせているその理由。
それは、寝不足だった。
シンプルな理由だが、睡眠は人体にとって欠かすことの出来ない欲求であり、行動だ。
たった一日寝ていないだけでもコンディションは著しく悪くなるし、精神も疲弊する。
「寝不足か……そりゃ、仕方がないな。慣れない環境じゃ、寝られない人は本当に寝られないって言うからなあ」
寝不足を解決するには単純に眠ればいい。なのだが、悠の言う通り慣れない環境で眠ることが苦手な者は少なくない。極端な話、枕の有無でさえ寝付けなくなる人も居るくらいだ。寝具に慣れているから外では眠れない……ある程度文明が発達している場所ならば、そんな人間のほうが多いくらいだろう。
「……そうなんだ。解決する方法も考えつかず、言って士気を下げるくらいなら、と報告すべきことを黙する事にしてしまっていた。すまなかった」
「いや、そういう理由なら仕方がないよ。こっちこそキツい言い方をして悪かった」
「……それで辛かったのはどちらかな。ともあれ、申し訳ないがこのままではユウに負担をかけてしまうかもしれない」
幼気で小さな頭を重苦しく下げると、カティアはまた少し不安定に身体を揺らす。
どうやら、寝不足は深刻なようだ。
「そうか……うーん、力になれることなら、なるんだけどなあ。寝づらいのはどうにもなれないかもしれん」
「音や気候など、環境的には平気だし、寝具がないのも気にはならないのだがな……」
「へ?」
解決してやりたいが環境はどうにもならないし──何か出来ることはないかと思案する悠が、独り言の様に行き先のない言葉を呟くと、カティアもまた同じように唸る。
だが、カティアのつぶやきに悠は調子の外れた声で聞き返した。
「音も気候も平気って、んじゃ何が苦手なんだ?」
悠が思い浮かべていたのが、まさにその二つだったからだ。雨風や動植物の音、それに暑さや寒さ。悠は山に満ちたそれらが相手だからこそ、どうにもならないと思っていた。
「む。いや、その……むう、言わねばならないか?」
物事の根幹へと掘り進む様にして聞き込みをする悠に、カティアの歯切れは悪い。
その様子に悠は聞いてはならないこと、デリケートな話を聞いてしまったかと青ざめるが──
「もしかして……虫が原因……?」
「や、うむう……」
真相は、思わぬ人物が解き明かすこととなった。
恐る恐る手をあげるクララに、カティアは味わい深い表情を浮かべる。
否定したいが否定できない。行き場のない表情がもごもごと変化していく。
「恥ずかしいがその、そうなんだ……私は本当に、虫だけはダメで……芋虫から羽虫、甲虫に至るまで、全てがおぞましく、恐ろしい」
観念した様子で、カティアは語り始める。
「極度の疲労と命が助かった安心感で、ユウ達に出会った日は平気だったんだが、余裕が出来てしまうともうダメになってしまってな。居るかもしれないというだけで気になってしまうし、虫が足や手を登ってきた時など、声を抑えるので精一杯だった……」
一度語り始めると、堰を切ったように飛び出すカティアの独白。
寄生虫の一件で虫が苦手だという事は知っていた二人だが、それほどまでとはと驚く。
気を回せば二人も気づいたのだろうが、カティア自身がそれを恥じて黙っていたため、気が付かなかったのが原因だろう。
「それなら早く言ってくれりゃ良かったのに」
だが、正解は、さっさと打ち明けてしまうことだった。
「へっ?」
こんど素っ頓狂な声を出したのはカティアの方だ。
「いや、ある程度ならなんとかなるぞ、虫」
悠が言うことが、到底信じられるものではなかったからだ。全幅の信頼をおく、命の友人が言ったことでさえ。
「ば、馬鹿な……不可能だ。山にどれだけの虫がいると思っている!?」
「いやいや、完璧ではないけど出来るって。んー……そうだな、飯の調達も終わったし、ちょっとやってみようか。じゃあ、カティアも手伝ってな」
苦笑いを浮かべながら、悠は腰を上げた。
「ちょっとやる」といった通りに動き出す悠に、カティアは焦りながらも追従する。
「そんなわけで、ちょっと辺りで色々集めてくるわ。暇だと思うけど留守番よろしくな」
「あ、うん。わかった。何かあったら声を出すね」
僅かに困惑を見せながらも手を振り見送るクララに手を振り返して悠は歩きだす。
カティアは未だに何が何だかわかっていない様子で悠の背中を追った。
「んー……これなら大丈夫だな」
キャンプから少し離れた所で、悠は歩みを止める。
「えっと、今から何をするんだ?」
辺りには何もない。悠の目的が未だわからないカティアは、思わず質問をした。
すると悠は少しだけ考える素振りを見せて、いたずらっぽく笑う。
「家造り」
何を馬鹿な。言っていることの突飛な様子に驚くカティアだったが──
自信を感じさせる悠の笑みに、疑う言葉を飲み込むのだった。




