第十一話:海のいきもの
悠はカティアを引き連れ、とある場所へと向かっていた。
本来ならば塩を必要としていたためそこへはもっと早い段階で訪れるつもりだった悠だが、クララやカティアとの出会いなど様々なイベントが有ったり、なにより山の中で岩塩が手に入ってしまったため目的の場所へ到達するのは大分遅れていた。
だが今、ようやく悠はその場所を訪れる事が出来ていた。
視界の果まで続く蒼。揺らめく水面は陽光を反射して、宝石よりも強く輝いている──
「海だー!」
そう、海である。生命の最初に生まれたところ。母なる海。数多の通称を持ち、人々を魅了してやまないあの海だ。
「テンションが高いなユウ。海は好きか?」
「まあな。海ってより、海の生き物が好きなんだけどさ」
はしゃぐ悠を見て、カティアは優しげに鼻を鳴らす。年長者としての落ち着きに溢れた知的な態度だ。尤も、当のカティアは高く見積もって中学生くらいの幼気な少女だが。
悠の言葉にほう、と感心するカティアだが、まだ付き合いが浅い彼女は悠のいう『生き物が好き』の意味をただしく理解していない。
「でも綺麗な海だなー。クララも連れてきたかったよ」
「それは確かにそうだな。……私も、海を見るのは久々だ」
とはいえ、悠でも海の美しさを愛でるくらいの感性は持っている。
悠の住んでいた地域だと視界の果まで続くような水平線を見る機会は少なかったので、このヴィエールという世界の自然の雄大さは、素直に素晴らしいと思う。
「うっし! じゃあ早速魚の方を探そうぜ!」
「ああ、クララを待たせては悪い」
それでも花より団子なのは変わらない。今のところで悠が自分の食欲よりも優先するのは、自分を含めた誰かの命くらいしかないだろう。
海の方へと移動し、悠は目を凝らし始める。……比較的浅い場所にも、魚はよく見られた。こうして見ている分には陸の動物──悠達への警戒心もない。
まるで、夢のような環境だと悠は思った。悠は、釣りも嗜む。それなりの大きさの魚が、人を恐れない。俗に言う『魚がすれていない』というやつだ。こんなにも綺麗な海で、魚達が泳いでいるというのは、食欲を目的とした釣り人達にとってはたまらない環境だろう。
「ここはのどかだな。極圏とは大違いだ」
悠にとって平和な環境は、カティアにとっても平和に映るらしい。
獲物を探すギラついた目を収め、海の美しさにため息を吐くカティアへと視線を移す。
「そういえば気になってたんだけどその『極圏』ってなんなんだ? 昨日も言ってたよな」
その言葉の中に、興味を惹かれる単語があったからだ。
悠の疑問に、カティアもまた一瞬だけ疑問を浮かべた。それは、この国に住んでいる者ならばほぼ全員が知っているような言葉だったからだ。
「……? ふむ……極圏というのは、人が住まうに適していない場所のことだ。例えばひどく暑いだとか、逆に寒いとか。湿地帯が広がっているとか、雨が殆ど降らないとか、そういう場所のことだな」
しかしカティアは自身の疑問を口にせず、悠に問われた事をただ答えた。
恩人を訝しむ事をしたくなかったし、友人の疑問に答えてやりたいと思ったからだ。
「そういう場所に住んでいる魔物は、過酷な環境に適応するためか危険な奴らばかりでな。私が探しているドラゴンなんかも、本来は極圏に住む魔物なんだ。偶に極圏から流れてきた魔物を狩るのも、私達神殿騎士の仕事というわけだ」
カティアの説明に悠は昨夜の会話を思い出し、成る程と相槌を打った。
極圏、と翻訳された地球の言葉だが、その意味は地球のものとは違っていた。
ヴィエールでいう極圏とはまさしく『極まった圏』。この上ない、限界の地域、範囲という意味だった。
地球でいう『極圏』を思い浮かべていた悠は先日の会話でしっくりこないような違和感を覚えていたのだが、意味を聞いた今は疑問が氷解し、すっきりとしていた。
だがそれよりも。
「強い魔物が沢山か。美味い奴も一杯居るんだろうなあ」
「うむ。……うん? 確かに美味い魔物は多いと聞くな。そういった魔物を求めて冒険者たちはこぞって極圏の探索へと向かっているよ。そこで命を落とす者は多く、私達としては頭を抱えるばかりだが……」
悠の興味は、強い魔物が多い。イコール美味しい生物が多いという方向へ向かっていた。
もはやカティアの言葉も後半は聞こえていない。悠のなかで極圏は危険な土地という以上に美味なるものが溢れた土地という存在になっていた。
いつか行ってみたいなあ、という言葉を口に出さなかった悠は偶然ながらも幸運だったといえるだろう。
神殿騎士は行方不明者の捜索を依頼されることもあり、カティアもそうした任務を何度か受けたことはある。その任務の中でも彼女にとって特に厄介だったのが、行方不明者が極圏に行ったという情報を聞いた時だった。
極圏は危険なため、二次災害を防ぐという目的でめったなことでは神殿騎士の渡航許可は得られない。行方不明者がよほど重要な存在だった場合は特例もあるが、極圏へ行方をくらませた者は大体が死亡扱いとされるのだ。
そんなわけで、カティアにとって極圏へと向かう者は基本的に『厄介者』である。もしも悠がその言葉を口にしたのならば、彼女は命の恩人である悠の身を案じて滾々と説教を垂れ流す存在へと変貌したことだろう。
「そういうわけで、こういうのどかな風景は結構好きなんだ。……尤も、安全とされる地域も時として牙を剥く事を、身をもって知ったがな……」
「山って実は結構危険だからな。でもそれがわかれば、次は大丈夫だろ」
力なく笑うカティアの背を叩き、悠は朗らかに笑う。
そうだろうか、と聞き返しつつもカティアは気分が楽になるのを感じていた。
不思議な安心感を覚えさせる奴だ。悠もまた遭難中だという事を忘れておらずとも、カティアは思う。
「さ! 作業再開と行こうぜ」
カティアがそう思うのは、遭難という『死』を感じさせる環境において、バイタリティあふれる悠が生命力を感じさせるからなのだろう。
何かを食べるというのは生きるという事の象徴だ。食への欲求が強いというのは、ある意味で生きることへの欲求が強いこととも言い換えることが出来た。
戦闘力で言えば、カティアは『騎士』の中でも特に秀でている方だ。だがその実、いざ一人になると何も出来なかったらしい。カティアは一度だけ自嘲的に笑ったが、それきり自虐することはせず、前へと向き直り──悠を見る。
この状況に置いても心の底から楽しそうにしている悠の、その溢れるバイタリティを自分も見習おうと思ったのだ。
今度は愉快そうに鼻を鳴らして、カティアもまた覚悟を決める。
自分もまた、今夜の食事を楽しみにできるくらいの余裕を手にしてみよう。
その為にとまず行ったのが──
「では行こうか!」
「おう! その意気──!? おま……カティア!?」
勢い良く衣服を脱ぎ捨てる事だった。
大胆かつ突飛な行動に、悠は思わず声を荒げた。
カティアは首元から太腿までを覆うインナーを着込んでいるため、肌の露出自体は少ない。だが黒いインナーはぴっちりと身体に張り付いているため、身体のラインを隠すことは全くできていなかった。
騎士としての訓練で細く引き締まったカティアの身体は、少女らしい線の細さを描きながらも、僅かに筋肉質で艶めかしい凹凸を浮き上がらせている。慎ましやかな胸も、今となってはそのなだらかさが『肢体』を表現していた。
多感な時期である高校生──なんのかんのと言っても思春期である悠にとって、その光景は刺激に余るものだったろう。なにせ、此方に来てからは『そんな』余裕さえもなかったほどだ。正直言って、大変よろしくない。
「むぅ……そんなにおかしなこと、か?」
一方で、カティアもそんな悠の様子に触発されていた。
カティアが所属する『神殿騎士』では、男女ごとに部隊が分かれている。出撃前や任務の最中などに、仲間の前でインナー姿を晒すことくらいは別におかしなことではなかったのだ。……そう、同性の前でならば。
カティアは、いわゆる箱入り娘だった。厳しい訓練の日々はあったものの、基本的には親に溺愛されて育ったお嬢様。そんなお嬢様は同年代の異性とは殆ど会話さえしたことがない程であったため、ここに来てカティアは自分の常識のなさを知った。
それでも知識だけはあるものだから、少年がこのような反応をする意味くらいはわかる。
カティアは急に恥ずかしくなった。中途半端な知識のせいで、この行為が恥ずべきものであるという事だけはわかってしまったようだ。
「……さあ! 準備は出来た! 始めるぞ!」
「お、おう!」
そんなカティアが選んだのは──勢いで、この状況を押し通すという道だった。
もしかして、異世界だとこれが当たり前なのか? あまりにも凛としたカティアの声に一瞬だけそう思った悠だったが、顔を真っ赤にして、結んだ口を波打たせているカティアを見ればそうではないことはわかった。
ならば、彼も男だ。情けをかけるのが日本の男児というものである。
……別に、悪いものを見たわけではないし。ついそう思ってしまうくらいはご愛嬌。
お互いに気持ちを通じ合わせながらも、お互いを偽り合う。勢い良く海に飛び込んでいったカティアを見て、悠もまた水の中へと身体を沈めていく。なんとも言えない空気の中、今日の食料調達が幕を開けた。
「(しかし……本当に綺麗な海だな。上から見下ろすのとはまた違う……)」
とはいえ一度海に潜ってしまえば、悠は自分でもびっくりするほど冷静になっていた。心地の良い冷たさが、興奮で蒸気した頭を冷やしてくれるようだった。
そうなると最初に気になったのは、その海の綺麗さだ。山の上から見下ろした海は、陽の光に煌めいて、ダイヤモンドのようだった。
だが海の中に広がっていた世界はまた違う。穏やかな光を湛えたマリンブルーは、まるでサファイアの中に揺蕩うような錯覚を与える。
「(日本じゃ、こんな海殆どないだろうなー……いや、世界中探しても珍しいかも)」
あいにく悠は海といえば潜るよりも釣る人間だ。言わば門外漢だが、それでも悠はその美しさに見惚れていた。……まあ、その上で最も興味を引かれるのは、その美しい世界に住まう魚達──食糧の数々だったが。
「(おお……いるいる。やっぱり警戒が薄い……人を怖がってないんだな)」
海の中でなければ、悠はため息を吐き出していただろう。少し先へと泳いでいけば、触れそうなくらい近くを泳いでいる魚達。時折太陽の光を反射して輝く魚達の優雅な様子は、秘境の楽園を思わせた。
しかし、今の悠が目的としているのは感傷ではない。よりよい食生活である。
「(目移りするなー、どれが美味そうかな、と)」
魚は悠の好物だ。そこら中に好物が漂っているこの環境は『もう食べられないよ』と寝言が出てしまう様な夢に似た光景だった。
それにしても。悠は思案する。
「(魚だと地球にもスゴイのが多かったし、そこまで驚かないな)」
今まで見てきた異世界の動植物に比べて、魚の方には然程衝撃は受けない、と。
魚の形をしている生物たちを見て、悠は落胆の様なものを気泡へと変える。
確かに、地球の魚達にもどうしてそういう進化を迎えたのか想像もつかないような奇抜な見た目をした魚は多い。
その点で言うと、今悠が見ている魚達は──例えば、ヒレが大きかったり多かったり、色が面白おかしかったりとしたが、まだ地球に生息しているような『怪魚』の域を出ていなかったのだ。
それでも此処は地球とは異なる世界なのだ。
「(あいつが良さそうだ)」
透き通るような海を泳いでいる魚のうち一匹に目をつけ、悠はゆらりと動き始めた。
その魚は悠の知る魚の骨格をしながらも、まるまるとしていて肉付きがよく見える。
食材を見極める力を持つ悠が見立てただけあり、その魚は確かな美味である。
だが──だからこそ、その魚は普通ではない。
暗い青色の、ふっくらとした魚。地球でも、然程珍しい色ではない。そのため悠は、此処が異世界であるがゆえに落胆していて、だからこそ少しばかり『日常』に戻っていた。
この調子なら素手で掴めるかもしれない。銛は用意しているものの、鮮度が命の魚だ。やはり獲物はできるだけ綺麗な形で手に入れたい。
ふっくらとした魚へと手をかざし──集中。動きが止まった瞬間を見極め、悠は一気に魚を掴もうとした。
……それが起きたのは、悠が成果を確認したまさにその時。
危機を感知した魚は急激に膨らんでいき──凄まじい高音を放った。
「──ッ! (なんッッ……!?)」
まるで巨大な音叉をハンマーで思い切りぶっ叩いたような音が炸裂し、悠の身体を貫く。
口から飛び出た泡が、重い音を立てて海上へと昇っていくも、悠にはその音へ意識を向ける余裕もなかった。
魚へと伸ばしていた手を引っ込めて、耳をふさいでしまうのは反射の行動だ。その隙に、膨らんでいる状態から萎み、もとのふっくらとした状態以上に小さくなった青い魚は慌てて逃げていった。
突然の高音に驚き、息が切れてしまった悠は慌てて水上へと顔を出す。
「ぶはっ! な、なんだあの魚……っ!」
巨大な高音を聞いた耳はまだ音が鳴り止んでいないかの様に、音叉の音を響かせている。
幸い鼓膜などに大きなダメージは無いらしく、一時的に耳が遠くなっているものの、機能は失っていないようだ。
その事に安堵しながら、魚が逃げていった方を呆けた目で見つめる悠。
「凄い音が聞こえたが、大丈夫か?」
「カティア。ああ、大丈夫だけど、驚いた……」
その凄まじい音は離れた位置に居たカティアにも聞こえたようだ。
水に濡れて光沢が増し、より扇情的になった黒いインナーから目を背け、あったことを説明する悠。
「膨らんで凄まじい音が? ……ふむ、聞いたことがある。たしかシンバルフィッシュだとか言ったかな」
悠の説明に、カティアは『シンバルフィッシュ』という名を説いた。
「特殊な器官を持っているらしく、危機を感じると大きな音を出して捕食者を驚かせると聞いたことがある」
カティアの説明は、まさに先程の高音の事を言っていた。水の中は音が伝わりやすく、地球の魚にも音を利用するものは多い。しかしまさかこんな方法で音を使うとは。
カティアの説明に感心の息を吐き出しながら、悠はまだ自分がどこか地球の常識に縛られていることを痛感した。
「なんでも、その音を出す器官は珍味だとか。食味は薄いがなんとも言えぬ魅惑的な歯ごたえだそうだ」
そして──後悔した。
珍味。なんとそそる言葉であろうか。その単語は悠が特に好むものの一つであった。
知識さえあれば、油断さえなければ。異世界の珍味をこの舌で味わう事が出来ていたかもしれないのに。この世界で生きていくことを決めた今、やはり必要になるのは知識だ。悠は静かに励むことを決めた。
「まあ、気を取り直そう。幸い、まだ魚はいる」
「そうだな。今度は油断しないぞ」
石と木で作った手製の銛を掲げ、悠はカティアと離れて改めて魚を探す。
水中の世界はやはり綺麗だったが、集中状態にある悠の目はギラついている。
最初から手掴みなど狙わなければ、という反省で油断を捨てた悠には、もう隙はない。
次に悠が目をつけたのは、海を泳いでいる魚達の中でも特にとぼけた顔をした魚だった。
肉付きはまあまあいい。皮の色は、地球でも珍しくない銀色の様な灰色の様な、落ち着いた色合いだ。
だが顔はカワハギを平らに潰して、その上で黒目の部分が上を向いているような……不意打ちで見てしまえば思わず吹き出してしまいそうな間抜けな顔だった。
「(すげえ顔してるなあ……でもまあ、こういう魚ほど美味かったりするんだよな)」
様々な魚を見てきた悠でも、その表情? にはつい苦笑いが浮かぶ。先程痛い目を見た悠はまさかこれがこの魚の生存戦略なのではなかろうか……と思ったが、流石にそれは無いだろうと思い至っての笑いだ。
とはいえ一度は獲物を逃した手前、悠は気を引き締める。
漂い、揺らぎ、放たれる。規則性も無いような、困惑を誘う魚の動きを見定めるように悠は深く集中をした。
──異世界の食事によって培われた悠の『強さ』は、スローモーションのようにも見える海中の動きを更に仔細なコマ送りへと変える。
不規則な動きにルールを見つけると──今。銛を魚へと突きだそうとする。
だがその瞬間に、ごく僅か。殺気が先行して放たれる。
不細工で何処かのんびりとした、抜けた印象を与えていても、やはり彼らは異世界の生物なのだ。ふっくらとした魚は鋭敏に捕食者の気配を感じ取り、即座に防御行動に移った。
「(……! 墨!? 否、白い……!?)」
悠の殺気を感じ取った魚が防御行動として選んだのは、体中から何か白いモヤの様なものを一気に発生させる事だった。
魚の体中から一斉に吹き出した何かは、あっという間に悠の視界から魚の姿を奪い去る。
殺気を先走らせてしまったものの、それ故に悠は深く集中していたため、すぐさま、幾つもの思考を同時に走らせる。
「(体液……? 毒か!? 違う、だったら先に判るはずだ……! ……? 違う、液体じゃないぞこれ!)」
その正体の一つに自然界の防衛手段としてはポピュラーな毒を思い浮かべる悠だったが、ならば予め食用不適かどうかが判る時点で判別が出来るはずと、これを否定する。
だとすると魚から立ち上ったのは一体何か? それは、一つの可能性が潰れて幾分か冷静になった思考が解き明かしてくれた。
「(……空気! 細かい泡を一斉に吹き出して、目くらましにしたのか!)」
見れば、湧き出した細かい何かは同時に海面へと立ち上っていく。鋭く研ぎ澄まされた視力で、悠はその正体を捉えた。
しかし捉えたのはそれだけではない。狙い定めた獲物への執念は、泡の影に隠れる魚の影もまた視界に捉えていた。
これには幸運も絡んでいた。太陽の向きで、その泡に魚の影が映し出されていたからだ。
目標が映ったのならばやることは一つ。銛の進む先の未来を迎えに行くだけだ。
放たれた銛はブレなく、水を切り裂いて一直線に魚へと向かう。そして、それを貫いた。
銛の先には魚が暴れる感触がある。それを確かめるかのように、強く銛を掴む。
極度の集中で息がそろそろ限界だった事を思い出した悠は、勢い良く海面へと顔を出し、もう底を尽きそうな息を吐き出して叫んだ。
「獲ったどーッ!」
掲げるは戦果、叫ぶは勝鬨。
銛漁、一回やってみたかったんだ。夢を果たした悠は、何処までも満足げだった。