プロローグ
なんだこれは。一体何が起こった?
楽しみにしていたキャンプを翌日に控えたとある日、少年 上総悠は不可解な視界に困惑していた。
上総悠は、概ね普通の高校生だった。彼に特殊な境遇は無く、特殊な能力も無い。
それでも、彼の瞳はおよそ──生きている人の中では──誰も見たことのないような景色を映していた。
赤。一面の赤だ。視界の全てを覆う赤。劇に降ろした緞帳《どんちょう》を至近距離で見つめるような赤一色。それが、段々とブラックアウトしていく。
目は閉じていない。それでも世界は暗くなっていく。
悠はまるで、幕の下りた劇場が闇に包まれていくような感覚を覚えた。
しかし悠が思う……というよりは覚えた感覚は、的を射ていた。何かが終わるという圧倒的な実感。その正体は、身体から血液と共に意識が失われていく故の感覚だった。
気がつけば、辺りは騒がしい。喧騒の中に居るにも関わらず、悠はその声に意識を留めることができなかった。周りの人々が何を言っているかも分からず──その中心に自分が居ることもわからない。
だが、声が近づいてきた事はわかった。次の瞬間、赤い暗闇が青に変わっていく。抱きかかえられたのだと気づけたのは、ある種奇跡と言えた。
暗幕に幾ばくかの明るさが戻ったのも束の間、景色はまた急速に暗くなっていたからだ。
そこで、悠はようやく気づいた。自分が今、死に在ることに。
さっきまで見ていた光景が、全部自分の中にあったものだと気づくと、悠の意識は急速に闇に沈んでいった。
もう、声さえも聞こえない。目は永遠に黒を映し、耳は静寂を聞くことしかないだろう。
そしてついに、悠は思考をすることさえなくなった。その体からは決定的な何かが離れてゆき──ここに、少しだけ変わった性格の少年の物語は、幕を下ろす事になったのだ。
◆
「……ん」
頬を擽る柔らかなむず痒さに、仰向けの少年は唸るような声を上げた。
同時に風が肌を撫ぜる。揺らされた何かが頬を触っていることに気づいた少年は、瞼の奥に光があることに気がついた。
……ざわざわと、何かが音を立てる。だがそれは同じ擬音で表現されつつも、街の喧騒とはまるで違う穏やかなものだった。
そう、穏やかな風が、匂いを伴って鼻を擽った。嗅いだことのあるような、無いような。しかし落ち着く香り。
それが木々の香りだと気がついたのは、その少年が植物性の匂いがする環境をよく好んでいたからだ。
「……?」
それは先程まで少年が居た環境とは、まるで違っていた。
血の匂い。嫌な喧騒。死を抱えて、暗闇の中に落ちていく感覚──
今、少年が感じているのは、真逆と言ってもよいものだった。草木の香り、それらが奏でているであろう穏やかな囁き。それらがより鮮明に感じられるようになっていく感覚。
恐る恐る目を開いてみると──そこは、ちょうど赤とは真逆にある色の中。木々に囲まれた木漏れ日の、中心だった。
今の今まで死へ向かっていた身体に、青い匂いと光が──真逆のモノである”生”が流れ込んでくる。
パーカーに身を包んだ少年、上総悠は満ちてくる活力によって、目を覚ました。
病院でもなく、道路でもない、およそ住んでいた場所の近くにはない自然の中で。
「は……え……? ここ、どこだよ……」
確かな生の実感を得た悠だったが、最初に感じたのは自分が生きている、という歓びよりも強い困惑だった。
それはそうだ。確認はしていないものの、間違いなく死に至る致命傷を受けていながら、現在はほぼ無傷。それでいて目覚めたのは街の中でも病院でもない森の中。活力がみなぎっているからこそ、置かれた状況の異常さがわかってくるというものだ。
森の中は温かだったが、悠は骨の髄から冷たさが染み出してくるような感覚を覚える。見知らぬ森でただ一人。アウトドアを好むが故、その状況の恐ろしさはよく知っている。
──しかし。
現状を確認するために、辺りを見回した悠は、困惑ごとその思考を停止させた。
何故ならば、そこは植物にあふれていたからだ。ただし、初めて見る謎の植物がである。見たことも聞いたこともない謎の植物が、視界の中を埋め尽くしていたのだ。
植物は植物だ。そういう人もいるだろうし、それは事実だ。だが、悠にとっては少し違う。彼は一般人と比べれば植物、とりわけ日本で見られる山や川に生えるものに関しては、多くの知識を持っているからだ。
頭を満たしていた困惑はどこかへ吹っ飛んでいた。空っぽになった頭が、視線を下げる。上体を支えている手元に生えていたのは、やはり見たこともない葉である。
視界の全てが、見たこともない植物で形成されている、来た記憶さえ無い見知らぬ場所。
そして、先程まで死に瀕していたという状況が、悠の頭に一つの仮説──いや、結論を導いていた。それは──
「まさか……異世界、ってヤツか!」
ここが地球上ではない何処か、という事。
そう叫ぶ悠の目は既に絶望混じりの困惑ではなかった。
何故なら──と、そこを語る前に少しだけ上総悠という人物について触れておこう。
彼の名前は上総悠。変わった趣味を持つ、ごく普通の高校生である。趣味など人それぞれ千差万別、変わった趣味を持っていた所で変わった高校生とは言えないだろう。その点、悠に特殊な要素はなく、肉体的に少し丈夫なだけの普通の人間だった。
普通の人間たる彼は、異世界で戦いに使えるような技能も肉体も持っていない。
知能の方は──変わった知識は持つものの、ある程度進んだ文化を発展させる様な知識は無い。銃の作り方など知らないし、政治などちんぷんかんぷんだ。きっと彼は知識で国を導いたり、領を治めたりと言ったことはできないだろう。
だがほんの少しだけ、彼には普通の人間とは違った箇所があった。その内の一つが──
「本当に『青い』葉っぱとか、見たこと無いぞ!? これ、食えるのかな……!?」
一般に流通する様なモノとは一線を画する、野の食材に対する強い関心である。
一般人なら名前も知らないような草、虫、茸。それだけにとどまらず、蛙や蛇など、普通の人ならば食とは結び付けない動物まで。食べられるのならばその全てが食欲の対象だと言うのが上総悠という少年であった。
しかしそういった食材は得てして、流通しない理由というのがある。それは調達の難易度だったり、得る労力に対する可食部分の少なさだったり──あるいは、毒であったり。何かしらの問題を抱えていることが多い。
だからこそ、彼は先述した知識を持っていた。すなわち──野の動植物に対する知識だ。
その知識は、ここが悠の知る生態系の中に無いことだけははっきりと教えてくれていた。
故に彼が感じたのは見知らぬ自然の中に一人放り出された絶望ではない。
未だ知らぬ味覚に溢れた場所に『来られた』という、強い歓びであった。
「すげえ、すげえ! ……でも、こんな状況で喜んでばかりもいられないな」
加えて言うのならば、所謂オタク気質と、アウトドアという趣味が彼に──敢えて遭難でもしなければ使う機会がないような──局地的も過ぎる知識を与えていた。
着の身一つとパラシュートで砂漠に落ちた時どう生還するか。何も持たずに山で過ごすにはどうしたらいいか。人里から遠く離れた地で生存圏へ戻るために、何を探し何を避けるべきか。『有り得ない』様な状況を想定して困難を歩く元軍人のテレビショーで得た、本来ならば『無駄』な知識を持っていたのだ。
「荷物は……タオル、ステンレスの弁当箱に、筆箱の中にカッター。んで、ペットボトルが二本か。……ペットボトルを捨てる前で、運が良かったなあ」
その使うことが無いと思っていた知識が、悠に迅速な行動を起こさせていた。
軽く荷物を確認し、使えそうなモノをピックアップしていく。その中にペットボトルがあったことで、悠は額の汗を拭って、呟く。
「ペットボトルといえば、水だな。まずは水場だけでも見つけないとお陀仏だ」
悠の行動指針の決定、行動開始は迅速だった。日本では使えないと切って捨てられていたサバイバルの知識は、今確かに役立っていたと言えるだろう。
十七年間生きてきてかつて無いほど、悠は興奮して心臓を高鳴らせていた。普段めったに出ない独り言は、悠の跳ねる心を少しだけ宥めてくれる。
悠は一度深呼吸をしてから歩き出した。
よく落ち着いて周囲の環境を見てみると、やはりここは地球ではないのだと実感する。
「うお……!? 何だあれ……!」
悠は、樹上に居る奇っ怪な動物を見て、驚きに声を上げた。その動物は、二本の長い尻尾を使って器用に木の枝を移動していたのだ。
その動物は小柄で見た目からすると危険度は少なさそうだったが、それでも安全とは限らないため、悠は大声を出してしまった自分を咎めるように口を塞いだ。
すると、少し離れた位置でビニール袋を振るった様な音が立つ。
振り返れば、非常に大きな耳を持つ四足歩行の生物が逃げていくのが見えた。
恐らく悠の出した大きな声を警戒して逃げていったのだろう。
見たこともない植物が群生しているのならば、そこに棲まう生物もまた見たこともないようなものばかりだ。
それでも悠はここがどことなく日本の山と似ていると思った。それは辺りの木々の高さや、色味などが原因である。日本とは違い椰子の様な葉を持つ植物も散見されるのだが実際のところ、この『異世界』の気温や湿度などはかなり日本のそれに近いようだ。
「だったら、ある程度は知識が役に立つはずだ」
信仰を口にする教徒の様に、汗を拭いながら呟く。
これだけおかしな生態系だ、出会うことさえ危険な生物だってきっといるはず。見えない影に恐怖しながらも、悠は命を繋ぐために川を探して歩き始めた。