吟遊詩人のお仕事
海中に溶け込んだ魔力を受けて、船はスムーズに進みだした。雪解けが始まるこの時期、日差しは明るいが、風はまだ少し冷たい。
ここは、雪深い北の国ラフィールの沿岸、イグレネシア半島。かつて勇者と邪竜の激しい闘いが削り出した半島だといわれている。別名龍神の痕。海からすぐに切り立った崖が続き、荒波と雪に浸食された、戦いの伝説に相応しい荒々しい土地だ。
厳しい自然に囲まれたこの土地に、もちろん、人は住んでいる。とはいえ、決して人口は多くない。
その代わりというわけではないが、雪解け水で仕込む酒は美味いし、荒れた大地には魔力をたっぷり含んだ温泉もある。特に、勇者が傷をいやしたとされる温泉は、今なお湯治場として人気だ。そして、まだまだ知られていない秘境が多く残るといわれている。
その秘境が今回の俺の目的地だ。
ああ、秘境は楽しみではあるが、不本意ながら少しは“仕事”もしとかないとな...。
俺は深呼吸して心を鎮めると、目を閉じ、耳を澄ました。心の中を空っぽにする。一度すべての感覚を遮断する。そして、そこからさらに精神を研ぎ澄ました。
体いっぱいに吸いこんだ海風をゆっくりと吐き出す。一呼吸おいてから、頭の中に海とラフィールの土地を思い描いた。続いて、描いた頭の中の海に、小さな船をぽつんと浮かべる。この船は、今、俺が乗っている船だ。
ここまで準備運動だ。
俺は意識の中の世界を維持したまま、静かに目を開いた。そしてまず、聴覚を広げていく。いくつもの折り重なる波の音、船が海の水をかき分ける音、船にぶつかって砕ける水の音、波をかき分けて走る船が軋む音。
意識の枠を超えて、さらに感覚を広げる。
帆に張られたロープが風を切る音、たわむ音、乗客のカップルが語らう声、老婆が荷物を下ろす音。あらゆる音を意識に取り込み、頭の中の世界に融合する。
次は視覚だ。実はここが難しい。
頭の中に作ったイメージの世界に色をのせていく。初春の柔らかい空の青、吸い込まれそうな海の蒼、海風にあてられて渋みがでた船体に、太陽のオレンジが鮮やかに反射する。
さらに嗅覚。磯の香り、風の柔らかさ、魔素の流れ。今あるこの世界そのものを切り取って意識の中に配置する。
俺はイメージの中にあるガラス細工のジオラマのような世界を壊さないように意識しながら、腰に下げた袋から小さな玉を取り出した。手のひらに乗った玉は透明なガラスのような真球の玉だ。
これは、記録玉と呼ばれる記録媒体だ。
魔素の流れを操って頭の中の世界をそのまま記録玉の中に流し込んでいく。玉の中に流れ込んだ魔素はうずを巻いてイメージ通りの海を作る。そこに土地ができ、小さな海にはさらに小さな連絡船が浮かぶ。
玉が俺の頭の中の世界を写しとっていく。
作ったことはないが、ボトルシップとか作るときはこれに近いかもしれない。何しろイメージってやつは繊細で、気を抜くと、あっという間に崩れてしまうのだ。
「ふう」
魔素が完全に記録玉に移って安定すると、思わずため息が漏れた。完成した記録玉を日の光にかざし、透かして見る。きらきらと輝く玉の中に俺が描いた世界がすっぽりと収まっていた。
ふむ。旅の始まりってことで、少し気合いを入れたが、まあまあのできだろう。
俺の名は、シルベ。一応、駆け出しの吟遊詩人だ。
あり体にいれば、世界を記録する事が俺の今の職業“吟遊詩人”の仕事だ。
この世界は、“思い”でできている。これは、“比喩ではなく”だ。この世界には、魔素というモノが満ちている。魔素は万能元素とも原初のエネルギーとのもいわれている。正確なところはいろんな学説があってわからないらしい。
ただ、魔素が何かの"思い"に反応して実世界に干渉する力を持っていることは疑いようもない。ただし“思い”ならなんでも魔素と反応するわけではないらしい。
そして一般に、魔素に反応する"思い"の総称を"魔力"という。
この世界は魔力の循環で成立している、らしい。魔人や人だけではない、動物、植物、水や岩などの自然物も魔素との相互作用を持っているそうだ。これが世界を維持している。逆いうと、魔素の循環が停滞した空間は世界としての機能を維持できなくなる。だからめったなことではないのだが、理論的にはその世界が誰からの干渉されなくなるとその世界は消えてなくなることになる。
魔素の流れの少ない未開の土地は、どんどん崩壊していく。つまり、何もしなければ、人が住める世界は小さくなっていく。歴史的に吟遊詩人の仕事は、世界のありようを記録し、崩壊を食い止めることだ。これに、崩壊が近い未踏の地を開き、人々に知らせることによって、魔素の循環をスムーズにすることも含まれる。
もっとも、最近では記録玉の機能と性能が向上し、誰でも世界の見た目を簡単に記録できるようになった。その上、魔素流を活用した列車もあって、人の流れもスムーズな現代だ。今、人がいる範囲で歴史上の大災害レベルの急性の世界崩壊はまず起こらないといってもいい。
とはいえ、まだまだ未開の地はあるし、新しく生成される「世界」もある。じわじわ崩壊している地域もある。それらを世間伝え、認知度を上げて魔素の流れを整えるのがのが俺達の仕事というわけだ。
ちなみに、吟遊詩人は国家資格で、かなり権威もある。だが、はっきり言おう、俺はこの職業が嫌いだ。正直、できればとっとと辞めたいのだ。
理由は、まあ、いろいろあるが、とにかく今は“駆け出しの吟遊詩人”をしながら、吟遊詩人から足を洗う方法を模索し、放浪の旅を続けているというわけだ。
今いるこのラフィールは帝都にから距離があり、人口減少が進む、崩壊傾向の地域ではある。とはいえ、限界を迎えているほどではなく、現状ではなんとか安定しているという程度だろう。そういう意味じゃ、あたらいい秘湯を発見するのも大事な仕事ではある。別に俺だって、吟遊詩人という職業が嫌いなだけで、世界を崩壊させたいわけじゃないのだ。
イグレネシア半島。さて、どんな出会いがあるものか、俺は、海から見る半島の向こうにある誰も知らない温泉に思いを馳せた。