思い出の味
僕が生まれたのは、王都の貧民窟にあるぼろ小屋の中だった。湿気とカビ臭さが充満した小屋の中で、兄弟達が母親を呼ぶ鳴き声だけが響いていた。
母親は日に数回僕たちの所へ訪れてはお乳を飲ませてくれたけど、やせ細ってあばらの浮いた体に、毛の抜けた尻尾を見れば、彼女がろくに食事を取れていないことは明らかだった。当然、お乳の量も僕らの腹を満たすにはほど遠く、常に空腹がまとわりついていたのを覚えている。
生まれてから暫くして、目が開き、覚束ないながらもなんとか自力で歩けるようになった頃、母親が姿を消した。
待てど暮らせど彼女がやってくることはなく、自分で餌をとることもできず、そうして末の弟が死んだ。一番体の小さい子だった。
その頃になれば、彼女がもうこの世にはいないことを兄弟全員が理解していた。それでも僕らは彼女を呼ぶのを止めなかった。それ以外にできることがなかったから。
一匹、また一匹と兄弟達が息絶えていく。初め六匹いた僕らは、僕と弟の二匹を残すまでとなった。
もう体を起こしているのも辛くて僕はずっと眠っていたのだけれど、ある時、小屋の外から大きな足音がして目が覚めた。
まるで警戒心のない足取りでドスドスと近づいてくる。音から察するに、相手は相当大きな体を持つ生き物のようだ。きっと僕らなど簡単に捻り潰してしまうのだろう。
僕と弟は恐怖のあまり硬直し、呼吸すらままならなくなった。・・・・・・まあ、もともとろくに動けやしなかったのだけれどね。
やがて扉が開かれ、二足歩行の縦長の生き物・・・・・・人間が現れた。
その人間はとある貴族の屋敷に仕える使用人だった。そこのお嬢様がペットが欲しいとワガママを言い出して、それに応えるべくめぼしい生き物を探していたらしい。
後で知ったのだけれど、貴族向けのペット専門店なるものが王都にはあるらしく、大抵はそこで調達するらしい。勿論、貴族向けなのでそこそこの値段はする。そこで、タダ同然の僕たちを連れて行って、貴族が支払ったお金を協力者と山分けするつもりだったらしい。結局バレてたみたいだけど。
それからその人間は僕たちを布袋に放り込み、屋敷へ連れ帰った。そして裏口から敷地内に入ると、いきなり水をぶっかけて僕たちを乱雑に洗った。秋口の水はかなり冷たかった。
拭き方もやっぱり乱雑で、力は強いわ尻尾は掴むわで散々だった。あらかた水気がとれると水と餌(残飯)を与えられ、そのままお嬢様のもとへと連れていかれた。
「この子にするわ!」
お嬢様が選んだのは弟だった。
弟は緑色のくりっとした丸い目をしている。赤毛で愛嬌のある子だ。それに対し僕は全身真っ黒で、目つきが鋭い上に黄色い目のせいで眼光がさらに鋭くなるから、お嬢様的には気味が悪かったみたい。「この子は可愛くないからいらない」だってさ。
僕はそのまま使用人に首根っこを掴まれ、外に放り出された。
弟だけでも置いてもらえて良かった。あそこなら少なくとも飢える心配はない。あとは僕が生き残ればいいだけだ。
とはいったものの、生まれたばかりの子猫に何ができるのだろう。さっき貰った餌(残飯)のおかげで多少は動けそうだけど、そう長い距離は無理だ。どうしたものかと周りを見回す。
この辺りの建物はどれも塀に囲われていて、入り込めそうな場所はない。道は広いのに往来は殆ど無いし、もの一つ落ちちゃいない。
ここにいても死を待つだけだろう。
僕はより人間のいる方向へと歩き出した。
歩いて歩いて歩き倒して、人間がたくさんいる場所にようやく辿り着いた。けれどこれ以上はもう無理だ。体が動かない。
僕はそのまま街路樹の側に横たわり、目を閉じた。
ここは色んな匂いがするなあ。
人間の匂い、犬や鳥の匂い、花の匂い、土の匂い、でも一番強いのは食べ物の匂いだ。ちらりと目にしただけでも木の箱の上に所狭しと食べ物が並んでいるのが見えた。
並んでいるだけで、食べれやしないんだよなあ。
力を振り絞ってここまで来たはいいけど、失敗だったかな。
あそこで飢え死んだ方がまだ楽だったのかもしれない。
おなかすいたなあ・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・。
「黒猫だ」
突然降ってきた声に、僕の意識は引き戻された。
「ピクリともしないな」
・・・・・・・・・。
「息はしてるのか。突いても起きないってことは死に損ないかな?」
・・・・・・・・・。
「うわ、あばら浮いてら」
・・・・・・・・・。
「死ぬな、こりゃ」
・・・・・・うるさいな。
言われなくても分かってるよ・・・・・。
「そうだ、これちらつかせたら起きるかな?」
そう言って、人間の子供は何かを僕の顔前に持ってきた。
とても強い匂いのするものだ。
この匂いは・・・・・・どこかで嗅いだ気がする。
ええっと・・・確か・・・・・・そうだ、木の箱の上に大きな人間が並べていたアレだ。
それを見て僕は、すごく美味しそうだなって思ったんだ。
・・・・・・・・・ん?
「あ、起きた」
思わず目の前のソレを凝視する。
アレだ。アレに間違いない。すごく美味しそうだったやつだ。この匂いは間違えようがないっ・・・・・!!
顔前のソレに飛びつこうとして、ハッと思いとどまる。
アレはまだ人間の子供の手に握られている。ここで迂闊に動いたらとられてしまうかもしれない。
食べたいけど、飛びつきたいけど、相手への警戒感に身動きがとれない。
僕らは膠着状態に陥った。
相手がアレを右へ左へ動かすものだから、釣られて僕の視線も動いてしまう。時折フェイントを入れられては慌てて視線を戻す、を繰り返した。
と、いきなりアレが僕から遠ざかる。慌てて視線を向ければ、人間の子供とバッチリ目が合ってしまった。
アレしか目に入らなくなっていたけど、相手を警戒していなかったわけじゃない。ちょこっと忘れていただけなんだ。いきなり目が合ってびっくりしただけなんだ。
驚いた僕は硬直した。
そして相手は吹き出した。
「お、おまえッ・・・なんつうグフッ・・・顔ッ・・をッ・・・・・・ヒィッ・・!!!」
突然笑い出した相手を前に、落ち着きを取り戻した僕はただただ困惑した。この子は一体何がしたいんだ?
そんな僕の様子に気づいたのか、笑いをかみ殺しながらも相手がアレを僕の顔前に差し出してきた。
「いいよ。食べな」
そう言って相手は手を離した。僕は少し逡巡したが、今度は直ぐにがっついた。
「おまえ面白いね。気に入った」
これが僕と主の馴れ初めになる。
あの時主がくれたアレは焼き鳥という食べ物だそうで、当時は昇天しそうになるくらい美味しかったはずなのに、今食べるとそんな大した味でもないんだよねえ。主が作ってくれた奴の方が断然美味しい。
それでも、一生忘れることはないんだろうね。