消えた三人目のおはなし(一)
「あ、れ……?」
呆然と、少女は海を見つめていた。
海に沈もうとしている夕日は、少女――一花を赤く照らしている。
「人が、消え、ちゃった……?」
目をしばたかせた一花は、みるみる顔を青ざめさせる。現実ではありえない出来事が、その身に起きたことを、実感し始めたのだろう。
と、砂を蹴り、その場から逃げるように走り出した。
海に背を向けて、元来た道を戻っていく。
「先生! ゆーじん! ゆーじん先生! 人が消えちゃったよ!」
担任の名前を叫ぶ少女の声が、古ノ江に響き渡ったのだった。
◇
一花はそろそろと清水家の門から顔を出す。
あれから、自分の家に戻り、自転車に乗りなおして、山の手前にあるここまでやってきたのだ。
大急ぎで自転車をこいできたものの、すでに日はほとんど落ちており、空は橙と紫がまじったような、複雑な色合いになっている。
「ゆ、ゆーじーん……」
一花は門のところで、担任である優人のあだ名をささやく。
清水家の門は開け放たれ、誰でも入ることができるようになっていた。
だが、立派な門構えに、今時では珍しい日本家屋のお屋敷。極めつけには、あきらかに庭師の手が入っているであろう、景観を第一に考えた広々とした庭。
一花は、完全に怖気づいてしまっていた。
「ゆーじーん……いないのー……?」
一花は辺りを見回す。
庭には、不安げな少女に話しかけてくれる人もいなければ、屋敷の障子が突然開き、中から誰かがひょっこり姿を現してくれることもない。さすがに池はないらしく――埋め立てただけかもしれないが――鯉が跳ねる音も、談笑する声が家の中から聞こえることもなかった。
まるで時が止まったかのように、清水の屋敷は静まり返っていた。
「ゆーじーん……」
もう一度名前を呼んだ一花は、じわりと目の端が熱くなる。
独りぼっちで、入る勇気も出ずにこんなところにいるせいでもあるし、徐々に暗くなってくる空が、彼女を急かしているような気がするせいでもあるのだろう。
「出てきてー……」
「こんにちは! お一人ですか!」
突然後ろから声がした。
一花は悲鳴を上げる。地面に尻餅をついた。
ただでさえ不安なのに、何の前触れもなく大声で話しかけられるなど、嫌がらせの類としか思えない。夕方といえど、まだ暑いというのに、背筋に悪寒が走った。
「うう……なによいきなり……」
尻の痛みを我慢しながら、顔を上げると、
そこにいたのは、羽織袴の童子だった。
「今思いっきり転びましたね! 大丈夫ですか! お気持ちはよく分かりますよ! 転ぶのって、ちょっと楽しいですよね! 視界がいきなりひっくり返るところが特に好きです! 難点を挙げるとすれば、転んだ拍子にお尻が痛くなったり膝をすりむいたり、鼻血が出るところでしょうか! だからといって転ぶ真似をして、安全に視界がひっくり返るのを楽しもうとしてもだめです! まず勢いが足りませんし、どうなるか予想がつきますから! 転び愛好家としては×印です! だから転ぶのは天の采配に任せるしかないんですよ! でも大丈夫です! 羽織袴を着ているせいか、よく転ぶ体質なんで! いつでも楽しめます!」
一気にまくしたてられ、一花はぽかんと口を半開きにする。
何かおかしい。
というのが、一花の、童子に対する第一印象だった。
今まで出会った誰よりもお喋りなのもそうだが、こちらを見てにこにこ笑っている童子が、男なのか女なのか、はっきり分からないのも、違和感に繋がるのだろう。
童子は女の子っぽいおかっぱ頭をしているが、このくらいの歳の子なら、男でもやっていそうな気もする。顔は、クラスで一番可愛い自分よりも、可愛らしい気がしないこともない。無論、光の加減のせいもあるだろうが……
ただ、七五三に着そうな、派手な羽織袴が気にかかる。
これが大人の女性であれば、納得できた。卒業式の頃によく見るあれだ。
だが、一花自身、七五三の際に写真館へ行き、そこで飾られている羽織袴の男の子の写真を見た記憶がうっすらあるせいか、これだけでは男の子のように思えてしまうのだ。童子が夏だというのにマフラーをしている点も、それに拍車をかけた。記憶にある七五三の男の子の写真も、お洒落なマフラーを巻いていたのだ。
「ところで先生を見ませんでしたか! 何の用もありませんが遊びに来たんです!」
「え、ゆーじんのことを知って……」
一花の目の前に、色白の小さな手が差し出される。引っ張って、起きあがらせてくれるのだろう。一花はとっさに手にとって、
思わず振り払った。
「どうされました?」
声変わりしていない男の子のような、可愛らしい少女のような声にぞくりとする。
童子の袴の裾から、雫が垂れた。
ひんやりとした手は、びっしょりと濡れていたのだ。
よく見れば、童子の足元には水たまりができている。
夕日を背にしているせいで、今まで逆光でよく分からなかったが、羽織袴はなぜかぐっしょり濡れ、ぽたぽたと透明な液体を、雨のように垂れ流していた。
「どうして……濡れているの……?」
一花の問いかけに、童子は首を傾げて、笑いかけた。理由は分からないが、童子の首から上には、水滴一つついていなかった。
「ぬいぐるみを作ったんですよ! 折り紙で! 折り紙にわたを詰めて、可愛らしいミルキーホップを生み出しました! 折り紙って万能ですよね! わたを詰めてセロハンテープでとめるだけで完成なんですよ! 色だってたくさんありますし、筆で目玉を書き込むのだってできます! やっぱり万能です! ミルキーホップはお気に入りのぬいぐるみになりました!」
「え――」
あまりに関係のないことを言われて、一花は固まる。脳が処理しきれない。
その間にも、童子は自作のぬいぐるみの自慢をぺらぺら喋りまくった。得意満面、といった様子だ。
「――たしかに抱き心地は最悪です! 思い出すだけでぞっとします! ですがそれ以上の価値がミルキーホップには詰まっていると思いませんか! そうです! 愛情です!」
一花はふいにむっとした顔をすると、自力で立ち上がる。童子を、睨みつけるくらいの勢いで見つめた。
「なによー……無視しちゃって……あんた、どこの子よ」
「ところで今何時でしょうか! 腹時計は晩ご飯だって叫んでいるのですが! 今日は和菓子しか食べていないんですよね! 口の中があんこです! 先生に何か与えてもらいたいところなんですが、いつ頃お帰りになられるんでしょうか! あと十秒以内に帰ってきてくれないと胃の中が空っぽになったことが原因で、お腹が空気圧に耐え切れず押しつぶされてしまいそうです! ぐちゃって!」
「古ノ江小学校に、あんたみたいのはいないし……隣町の子?」
「口から鳩が飛び出そうです!」
童子はくるりとその場で一回転する。マフラーが広がり、水滴が散った。一花は小さな悲鳴を上げて後ずさる。頭にしているカチューシャに慌てて手を置いた。端から端まで入念に触り、濡れていないことを確かめる。街で買ってきた、お気に入りだというのに。
一花は顔を真っ赤にしながら、ぎろりと童子を睨んだ。
一方、当の童子は空腹らしく、しきりに腹をさすっている。一花など、どこ吹く風だ。
「何するのよ! というか、あんた、ゆーじんとどういう関係なのよ。私はゆーじんの生徒なんだからね! 家だって知ってるんだから!」
「ここって井戸はないんですかね! 中に入って飲み放題を楽しみたいです!」
「そもそも、名前くらい名乗りなさいよ。あんた、じゃあんたも嫌でしょ?」
「うるさいですね」
「えっ……」
「腹の虫がぐうぐう言って、うるさいです! 喋る元気も起きません! 困りものですね!」
「うー……」
童子に無視されるたび、一花は気の強そうな顔を歪ませる。泣いているようにも見えた。先程まで目に涙を浮かべていたせいもあるだろうが、今の童子が怖かったから、本当に泣きそうになっているに違いない。
一花は、おそるおそる屋敷のほうへ体を向けながら、童子を指さす。
「いい、あんた? 私はゆーじんを探すけど、そこで待っていなさい。私の自転車が盗まれないか、見張っているの。分かったわね?」
言うだけ言って、一花は足早に屋敷へ向かう。静まり返った屋敷より、童子のほうが恐ろしくなったようだ。
数歩進んだ一花は、そうっと振り返る。
童子は目の前にいた。
「…………」
童子はにこにこ笑っている。普通なら、思わず頭を撫でたくなるほどの可愛らしさだ。一花は無言で走り去ったが。