不思議な鞠のおはなし(三)
すべてが繋がった。
最初から、答えは出ていたようなものだった。固定観念を捨てるだけでよかったのだ。どうして今の今まで気づかなかったのだろう。
どこか遠くから、蝉の鳴き声が聞こえる。昼下がりの日差しが降り注いでいた。抜けるような青空は、見るだけで心が躍る。ただの青空とは違う、夏の青空というのは、どうしてこうも高揚させるものがあるのだろうか。
「分かりましたよ千一君。どうして触ったら怒られてしまうのか」
優人はそっと両手を差し出した。
「その鞠、ちょっと貸してくださいませんか?」
推理の確証を得るためには、鞠を手にとってみることが何よりも重要だった。
どうせ千一は話を聞かないのだから、無理やり奪うしか残された手段はない気もするが、まずはとりあえず、優人は穏便な手段に出る。できれば争いは避けたい。
千一は近寄ってきた優人の両手と、鞠を交互に見た。きょとんとした顔をしている。
分かっていたことだが、無視こそすれ、目が見えていないわけではないのだ。さすがにずっと鞠を持っているのも飽きてきた頃合いかもしれないし、意外とすんなり渡してくれるかもしれな――
「しらきよばなの植木鉢をもらったんです!」
やはり、言うことを無視するのは、動かしがたい事実だったようだ。
千一は、虚ろな瞳には似合わない、心の底から楽しそうな笑みを浮かべる。
「丁度つぼみが開きかけていました! 咲くのを見たかったので、ずっと観察していたんです! あの時はわくわくしましたね! 夜になってもなかなかねばるので、眠るのを我慢して、じっと観察していましたよ! 枕元にしらきよばなの鉢植えをセッティングして、お布団に包まって、開花の時を待つ準備は完成です! ほのかに光るしらきよばなのつぼみと、窓の外から見える流れ星色の夜空は、今でも夢に出るほど幻想的でした! ですがいつの間にか日差しが眩しくて、満開になったしらきよばなが目の前にあったんです! 朝です! あの期待からの急転直下は絶望以外のなにものでもありませんでしたね! それはもう落ち込みました! だっていくら咲いている姿がきれいでも、あとはしぼむだけなんですよ! 頑張って開いた最高の瞬間を見逃してしまったんです! しばらく放心していました! 立ち直ったのが奇跡です!」
「それは残念でしたね」
優人は、落ち込んでいる千一が脳裏に浮かび、ちくりと胸が痛む。鞠をじっと見つめた。どうすれば千一が後生大事に持っている鞠を手放すのか、考えをめぐらせる。
はたして、不思議な鞠の謎を解けば、千一は喜ぶであろうか。
「千一君、とりあえず縁側に戻りましょうか。あまり日光を浴びていたら、熱中症になってしまいますよ」
優人は立ち上がると、手を差し出す。
手を繋げば、おのずと鞠を離すことになると考えたのだ。
もちろん言葉通り、千一が心配でもあった。
千一は、相変わらず水滴をしたたらせ、羽織袴をぐっしょりと濡らしている。乾く気配がしない。それは、とても涼しげに見えた。
だが、首から上には汗一つ浮かんでおらず、おかっぱ頭には容赦なく日差しが降り注いでいるのだ。それに、この時期にマフラーは、やはりまずい。
以前、優人が心配して取ろうとしたら嫌がられたため、無理強いはできないが、せめて屋根の下へ移動したほうがよいであろう。
「手を繋ぐんですか先生! 道路に飛び出す子供を守りたいんですね! 愛情の表れなんですね! こそばゆいです! 嬉しいです!」
「ええ、道路に飛び出さないのもそうですが、転ばないようにするためでもありますよ」
鞠を離してもらうためでもある。
と、千一はその場でニ、三回ほどジャンプした。マフラーが鳥の羽ばたきのように揺れる。
「でも今手が離せないんで、このマフラーを掴んでください! 犬のリードの要領ですよ! 愛情を拒むようで心苦しいです! ですが違うんですよ! 気持ちだけ受け取っているんです! 心は許しても体は許さないんです!」
「でも、転んだら首が絞まってしまいますよ?」
「さあ行きましょう!」
「仕方ありませんね……」
千一が意気揚々と歩き出してしまったため、優人はひらひら揺れているマフラーの端をつかまえる。かなり長いマフラーなので、余っている丈も多く、屈みがちにならなくても歩くことができた。
だがこれでは本当に犬を散歩しているかのようだ。
優人は、数年前に死んでしまった犬のジャーキーを思い出し、少しだけ切ない気持ちになる。千一が落ち着きなど一切なく動き回っているせいで、思い出すのは若かりし頃の愛犬の姿ばかりだが。
「先生が後ろをついて来ています! 動けば同じ方向に動いてくれます! 楽しいです! お犬様もこんな気持ちだったんですかね! 人間は犬に行動の自由さえ奪われているってことを、今知りました! これを見れば分かります! ねっ、先生!」
千一はぐるりと優人の周りを歩く。優人の下半身にマフラーが巻きついた。行動の自由を奪われてしまった。
「おっと」
優人の前に戻ってきた千一は、期待をこめた目で優人を見上げる。何を期待しているのか皆目見当がつかないが、何か褒めて欲しそうに思えた。
「首が絞まっていませんか?」
優人はあっさりマフラーから手を離すと、千一の首元に手を伸ばした。マフラーは千一が一回転したせいで、きつく、その細い首を締め上げている。苦しそうだ。
と、千一は後ずさる。
「だめですよ先生! この体はお触り禁止です! どうしても触りたいのなら――なんか息が苦しいんですけど!」
「マフラーがきつくなっているせいですよ」
「喋るたびに喉仏が痛くなります! つらいです! この調子では死ぬかもしれません! あれ!? もしかしてこれはまずい感じじゃありませんか!? そんな! あと五十六年は生きたかったです! お墓は無縁仏になるのでしょうか!? 愛凛華に囲われたエレベーターに乗ったら墓地にちゃんと着くんで、たまには遊びに来てくださいね先生!」
「大丈夫ですよ、死にませんから落ち着いてください」
優人は首とマフラーの間に指を突っ込むと、素早く広げる。肌を触られるのが嫌らしいので、最低限しか指は入れなかった。
千一はびっくりした表情になる。
「触っちゃ駄目ですよせんせ――おお!? 呼吸が楽になりました! 九生に一生を得た気分です! 今ならお寿司を十貫は食べられますね! もちろんわさびありですよ! 褒めてください! ただ連続してわさびを摂取すると舌が死んでしまう奇病にかかっているので、合間合間にわさび抜きも楽しませてくださいね! これが条件です!」
「ポテトとか、ケーキを取ってもいいんですよ?」
優人はふふっと笑いながら言う。回転寿司前提らしい。若干酷いような気もする。千一は皿ではなく、貫と言っているというのに。
「でもなぜかお寿司屋さんに行くと、手作り感満載のクレープを毎回頼んでしまうんです! 正直言ってそこまでおいしいものではありませんけれど、メニューで見たら魅力的なので、つい欲望に負けて頼んでしまうんですよ! いつも後悔しながら完食していますが、もったいないから食べているだけですからね! 勘違いしないでください!」
どうやら、やはり回転寿司屋だったらしい。まさか普通の寿司屋にクレープはないだろう。そもそも、普通の回転寿司屋にクレープも珍しい気がするが。ミルクレープの間違いではないだろうか。
「なんかずっと喋っていたら疲れてきましたよ先生! 声が枯れてきた気がします!」
「そうですか……手も疲れてきたのではないですか?」
と、千一は優人の周りをぐるぐる回る。意味など毛ほどもない行為に違いない。本人が楽しそうなので、これはこれでよいのかもしれないが。マフラーを掴んでいないため、す巻きにされる心配もない。
あまりに千一が動き回るものだから、庭はまるで打ち水をしたようになっていた。足跡ならぬ水跡が、ぐにゃぐにゃと四方八方に伸びている。やはりただの水にしか見えない。この液体は、本当に何なのであろうか。
「さあ千一君。もう少し歩けば、縁側ですよ。スイカがたしか冷蔵庫にあったと思うので、おやつに一緒に食べましょう?」
早く日陰に行かせたいのと、スイカを食べる際に鞠から手を離すのを期待して、優人は動き回る千一の背中に手を置く。あと十数歩行けば縁側だった。
と、
――優人の頬に水滴が落ちる。
千一の謎の液体だと思い、気にしなかったが、
「大変ですよ先生!」
千一は天を見上げた。
ぽかんと大口を開けて、童子は空を指さす。優人は思わず手で隠されていた球面を盗み見た。が、何もない。ただの鞠だ。もう片手のほうに、優人が見たい秘密は隠されているらしい。
「狐の嫁入りですよ!」
千一は高らかに叫んだ。