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千一夏物語~優しい推理と奇怪な童子~  作者: 石切舞
第一章 不思議な鞠
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不思議な鞠のおはなし(二)

 と、千一は優人のほうに身を乗り出す。少し怒ったような顔をしていた。


「先生! 昨日か一昨日くらいのことなんですけど、マンションの一室に監禁されたんですよ! とても怖かったです! しかもその部屋というのが最悪でして、蜂の大群が飛び回っているんです! 部屋の中が見えなくなるくらいに、もうぶんぶん飛んでいました! 逃げ出そうとしたんですが、扉が開かないんです! ちなみに窓はありませんでした! まあ監禁されているので当たり前ですよね! その時の絶望感はすごかったですけど!」


「それは大変でしたね」


 どうやら、怒っているように見えたのは、その時の惨状を訴えたかったからのようだ。優人に言ったところで、何も始まらない気もするが。


「刺されるのが嫌で部屋中を逃げ回りました! その時、たまに顔が焼けるように熱くなることがあったんです! よく見れば、壁や床に、ニコちゃんマークがでかでかと貼りつけてあります! そこだけ電気ストーブみたいに熱くて、蜂が寄ってこないんですよ! 大喜びでニコちゃんマークのところに行ったんですが、熱すぎて何秒もいられません! 我慢できずに離れては蜂の大群の中を逃げ惑い、ニコちゃんマークのところへ逃げ込んではいい具合に焼かれて、参っていました! これってプールとサウナを交互に楽しむ時と似ていませんか!」


「そうですね」


 ちなみに千一の顔には、虫刺されあと一つない。火傷らしきあともない。元気なものだった。


 と、千一の右の草履が、沓脱ぎ石の上にぽとりと落ちる。こりずにずっと足をぶらぶらさせていたせいだ。


 優人は屈み込んで拾い、千一の濡れた白足袋に引っかけてやった。千一は座りなおした優人に向かって、白い歯を見せて笑いかける。草履を拾ってくれたことを喜んでいるというより、早く話したくてたまらない様子であった。


「こうなったら蹴鞠をしましょう! 蹴鞠なら二人でできますよ! 風流ですね! 鞠って、ただのボールと違って、遠くに転がらないじゃありませんか! すぐに止まってくれます! 拾いに行く手間が少しでもはぶけるなんて、優秀ですよね! 楽しい蹴鞠の始まりです!」


 千一は満面の笑みで、思いっきり右足を振るう。優人が拾った草履は吹っ飛んでいった。庭を横切り、木の陰にある苔むした灯籠に、こつんと当たる。


「まあ、普通のボールは表面が滑らかですが、鞠は糸が編み込まれているせいで、抵抗がありますよね」


 優人は苦笑を浮かべると、千一の草履を拾いに行く。縁側の下に置いてあるサンダルを持ち出して、足を入れた。ひさしから出ると、日光に一瞬くらりとする。


 夏の日差しは、燃えるように熱かった。


 優人はじりじりと肌が焼けるのを感じながら、庭を足早に横切る。陰で涼んでいる草履を拾った。縁側にいる千一にかかげて見せる。


 縁側で足をぷらぷらさせていた千一は、ぱあっと顔を輝かせた。半開きの瞳が限界まで見開かれる。縁側から飛び降り、優人のほうへ駆け寄ってきた。


「あっ、だめですよ千一君。靴を履かなきゃ」


 片足が白足袋のまま庭を走ってくる千一に、優人も慌てて駆け寄る。急いで草履を履かせてやろうとした。


 が、千一は自慢げに鞠を頭上に掲げ、その場で飛び跳ね始める。マフラーが犬の尻尾のように揺れた。片方の草履がなくても、まったくお構いなしだ。


「毛糸玉が詰まったバスケットの中にダイブしたいです! パステルカラーの毛糸玉でお願いします! ピンクとレモン色と水色は欠かせません! ふわふわして気持ちがいいんでしょうね! お日様の香りがするに違いありません! 一生バスケットの中で暮らしたいです!」


「買ってきたら、履いてくれます?」


「ひらめきました! この鞠を集めれば毛糸玉なんていらないじゃありませんか! なんて頭がいいんでしょう! 天才の発想ですね! もう少し電球がぴかっとなるのが早ければ、十一個は確実に確保できましたのに! もうありません! 悲しいです!」


「え、ないんですか……?」


 千一の物言いには、何か引っかかるところがあった。だが今は草履だ。


 白足袋が茶色に汚れるさまを、指をくわえて見ているわけにはいかない。優人は屈み込み、手を伸ばす。が、その瞬間、これが目に入らぬかとばかりに、千一は鞠を優人の顔に押しつけた。ありがたくない印籠だ。


「千一君、草履を履いてくれたら、ちょっとお尋ねしたいことが、あるんですよ」


 優人は必死に何度も手を伸ばし、千一を掴まえようとする。だが童子は、小さな体を活かして器用に避け続けた。遊んでもらっていると思っているのか、優人の手が近づいてくるたびに黄色い悲鳴を上げている。悪いパターンだ。


 ちりんと、軒下につり下げられた風鈴が揺れる。木の葉が風に擦れる音が聞こえた。真っ白な雲が、ゆっくり形を変える。風が吹いてきたようだ。


「千一君、もっと鞠のことを教えてください」


 優人は小さく息を吐くと、千一の足を問答無用で鷲掴みにする。半ば強引に草履を履かせた。一般的な子供への対応から、元気すぎる子供の対処法へシフトしたようだ。教師としての経験が役立ったようである。


 千一は飛び跳ねるのをやめて、形のよい眉を寄せる。


「先生! 子ども扱いはやめてください! 今とても怒っています! 草履くらい一人で履けるという怒りが胸にうずまいているんです! あっ! でも前にガラスの靴を履かせてもらっているお姫様を見たことがあります! あの方は大人ですか! ならいいです! むしろ楽なので本音を言えば嬉しかったです! ありがとうございます! 今後ともよろしくお願いします先生!」


「こちらこそよろしくお願いします、と言いたいところなのですが、あのお姫様はまだ女の子と言える歳である可能性が……ああいえ、それより鞠のことを――」


「監禁されたマンションのリビングには、象牙色のソファがあったんです! ちなみに蜂とニコちゃんマークのことは忘れてください! 撤去しました! それでですね! そのソファの肘掛けから、ぶくぶく泡が出てきたんです! とても怖くなって、洗面所に逃げ込みました! 絶対泡の中から何か出てくるって分かったからです! 予知ならびに予感です! それで洗面所なんですが、リビングの隣にありますので、顔を出せばソファの様子を見ることができるんです! 怖いのでそんな無茶な真似は絶対にしませんでしたけれどね! だって顔を出したら、泡から出てくる怪物と目が合っちゃうってことじゃありませんか! 怪物が出てくるってだけで怖いのに、むざむざ発見されたくありません! 十中八九ワレキにされます! がたがた震えていました!」


「それは恐ろしい体験をしましたね」


ワレキ? などと疑問に思ってはいけない。千一がたまにおかしなことを言うのは、いつものことだ。


「この危機的状況から、どうすれば助かるのか必死に考えました! 玄関へ行くにはどうしてもリビングを通らなくてはいけません! それは絶対に駄目です! そんなことをするくらいなら籠城して運を天に任せます! でもできれば確実に助かりたい! 焦りまくっていたその時! あるものが目に飛び込んできたんです! それは着せ替え人形のお洋服でした! 最近のマリちゃん人形はすごいんですよ! なんせ小さなハンガーまでお洋服についているんです! ピンク色のハンガーに、花柄のワンピースがかけてありました! それが床に転がっているんです! たぶんお洗濯した後、床に投げっぱなしだったのでしょう! だってここは洗濯機がすぐそばにある洗面所ですから!」


「そのハンガーが役に立ったのですか?」


 優人は草履をちらりと見やる。白足袋は大丈夫であろうか? 見た目にはさほど変わっていないように思えるが、草履を履かせる前に、足の裏を見ておくべきであった。


地面はからからに乾いているため、土自体は濡れていないものの、問題は千一から今もしたたり落ちている水である。

濡れた土が白足袋にこびりついているなんて事態になっていなければよいのだが。


これが普通の人であったなら、叩いて払えば、すぐに落ちたのだろう。


「これだと思いましたね! 怪物はたしかに怖いですが、泡の大きさから見て、出てくるのは間違いなくお人形さんサイズです! 服をプレゼントして、仲良くなってしまえば問題はありません! いわゆるご機嫌取りってやつです! さっそく洗面所から手だけ出して、リビングにワンピースを放り投げました! ハンガーの重みもあって、うまい具合に飛んでいったと思います! ぱちんと、フローリングにハンガーが落ちる音が聞こえました! リビングはフローリングです! 成功の証ですね!」


「千一君は優しいですね」


 てっきりハンガーで怪物を退治しようとするのかと考えていた優人は、思わず笑ってしまう。


「生還したということは、仲良くなれたのですね」

「それで鞠の件なのですが!」

「! はい」


 優人は突然のことに目をしばたたかせながらも、身を乗り出す。


 やっと鞠について話してくれるようだ。不思議な鞠の謎が解けるかもしれないというあわい期待が、優人の胸に広がっていく。何か実のある話になればいいのだが。


 千一は鞠を口の前に持っていく。


「この時期は鞠をたくさんつくってあるので、あり余っているはずです! 今からもらってきます! 先生は大きめのバスケットを用意してください! 子供一人が入れるくらいなら籠でもいいですよ! でも栗拾いに使ったものだけは絶対にやめてくださいね! 以前底にひっついていたとげがお尻に……これ以上はトラウマが刺激されます! 後で文書で報告しますので、お許しください!」


 優人は目を見開いた。息を呑む。今までの千一の言葉が、頭を埋め尽くす。


 なるほど、そういうことか。

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