願わくば
成長期も未経験なカイルには、キッチンの流し台は高かった。背伸びをしてみても蛇口から流れ出る水には手が届かず、ぴょんぴょんとカエルよろしく飛び跳ねてみてようやく指先が触れた。
「こーら。ダメよ、イスの上に上がりなさい」
危ないことはしないの、と叱るとカイルは素直に跳ねるのをやめた。
その傍に運んできたイスを下ろして、今度はカイルを抱き上げる。その時カイルは驚いていたけれど、暴れることはなかったから瑞希は一安心した。
抱き上げたカイルは軽かった。ライラと比べれば重みはあるが、身の丈を考えるとやはり足りない。体感してしまったことに瑞希は心を痛めた。
「母さん?」
「んー?」
不思議そうにするカイルに瑞希は態とらしく首を傾げた。
今、二人の間の距離は短くなっている。カイルは一気に近くなった目線にぱちくりとしているが、すぐに嬉しそうに笑った。
「お皿は私が洗うから、カイルは布巾でそれを拭いてくれる?」
「ん、わかった」
任せてと頷いたカイルに布巾を渡して、袖が濡れてしまわないように折って捲る。
身長に合わせて購入したはずの服はカイルの体型にあっていない。異様な捲りやすさに、瑞希だけがやるせない思いを感じていた。
「母さんの手、おっきいね」
ふとカイルが呟いた。じいっと食い入るように見つめる手は確かにカイルのそれより大きいが、水仕事をするせいで綺麗とは言い難い。年齢を考えれば手入れができている方だと言えるが、若干なりともささくれができているから触り心地はよくないのだ。
「カイルもこれから大きくなるわ。アーサーの手、私の手よりもずっと大きかったでしょう?」
「僕も父さんみたいに大きくなれる?」
「もちろんよ。ライラも……もしかしたら私よりも大きくなるかも。私はあまり背が高くないから」
そうなったら悲しいものがあるが、いつかはこの子達も立派に成長を遂げる。大きくなった二人がどんな大人になるのかーーその時が今から楽しみだと思った。
いつかは父のように、と言われたカイルは一気に高揚を見せた。男の子にとって父親とは一番身近な目標となり得る人間なのだ。アーサーはその可能性をしっかり掴んでいた。
「ねぇねぇ、どうしたら父さんみたいになれる?」
「そうねぇ……まずはたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん寝ることかしら」
子供のうちは何もかもが勉強だ。大人が軽視しがちな遊びだってその例外ではない。
コンピュータゲームの発達によって衰退の一途を辿っているが、遊びというのは大人が思う以上に有意義なものなのだ。
外を走り回ればその分体力が身に付く。ルールは規範性を学べるし、他者と触れ合い交流することでコミュニケーション能力が養える。遊びを通して身に付くものは、どれも社会生活を送る上では欠かせないものばかりなのだ。
しかし、カイルがそんな意図を知るはずはない。遊ぶという予想外の言葉に豆鉄砲を食らった鳩のような反応が面白くて、堪えきれずくすりくすりと笑い声が零れ出た。
「遊びじゃなくても、何でもいいの。いろんなことに挑戦して、いろんな経験をすれば」
どんな経験が、どんな場面で役に立つのかーーそれは誰にもわからない。遠回りが本当に遠回りなのか、誰にも定義できないように。
「さぁ、洗い物を済ませちゃいましょ。お昼からまたお仕事があるから」
ぱちんと手を合わせる瑞希を見上げて、カイルはこっくり頷いた。
その頬が、ほんのりと色づいていた。




