動揺
昼食を終えた瑞希は、アーサーと指定された場所へ配達に向かった。荷を背負わせた馬の手綱を引いて、歩くことしばらく。満腹による眠気もすっかり遠のいた頃、ようやく遠目に野営のテントの影が見えてきた。
もう少し近づくと、威勢のいい声も聞こえてくる。見れば、テントから離れたところで訓練している真っ最中だった。
その手前に、腕を組んで訓練を眺めている男性が一人。軍服は豪奢な肩章や勲章で飾られている。立場のある人物だろうと一目でわかる彼に小走りで近づくと、怪訝そうな目が向けられた。
なんでこんなところに、と言いたげな視線に、瑞希は物怖じせず笑顔で応じた。
「こんにちは、訓練中にすみません。薬屋《フェアリー・ファーマシー》の者です。ご注文頂きましたお薬をお届けに参りました」
「ああ、君が、あの。いや、こちらこそわざわざ足労を申し訳ない」
にわかに目を見開いた男性が、精悍な顔立ちによく似合う硬い言葉遣いで労う。
瑞希も人好きのする笑みを浮かべて「お気遣いなく」と当たり障りのない受け答えした。
そして責任者を問うと、目の前の彼が気まずそうに眉間を寄せた。
「重ね重ね失礼した。国軍総帥、ジークハルト=ルーイン=ライゼンブルク。確認は私が請け負おう」
威風堂々とした言葉に、心臓が強く跳ねる。
思わず動きを止めた瑞希に、ジークハルトは情動の薄い顔をわずかに傾けた。
「どうかしたか」
「え、いえ……」
なんでもない、と震える唇でなんとか紡ぐ。けれど逸る心臓は落ち着くことはなかった。
国軍総帥ーー軍事に疎い瑞希にも、その地位の高さは理解できる。
けれどそれよりも、瑞希の冷静を欠く言葉があった。
(ミドルネームがある……)
こちらの世界に来て、数え切れないほどの人と出会ってきた。けれど、ミドルネームを持つ人はアーサーをおいてほかにいない。
彼の父も持っている可能性が高いが、それでも二人。あまりに少ない。
その希少性からアーサーもフルネームを名乗ることさえ憚ったのだと思っていたのに、ジークハルトは躊躇いなくフルネームを口にした。
気遣いがないということではない。名乗ることが当たり前という認識そのままの態度だった。
ミドルネームがある、彼とアーサーとの共通点は何だろう。
(だめ。いまは仕事に集中しないと)
自分に言い聞かせるように一度目を瞑り、深呼吸する。
心臓は、まだうるさい。けれど吸い込んだ外気が、少しだけ頭を冷やしてくれた。
「薬の確認を、お願いできますか?」
強ばりの解けきらない声で尋ねると、ジークハルトは表情を動かさずに頷いてくれた。
それを受けて、瑞希が体の向きを変える。
「っ!?」
不意に、ジークハルトが息を詰める音がした。瞠目し、硬直した彼の視線を辿った先には、馬の手綱を引くアーサーがいる。
どうして。そう唇が動くのを見た。
荷運びを終えた馬を労ってアーサーが、視線を向けられていることに気づいたのか顔を動かす。その双眸が、意外そうに瞠られた。
「どう、して……こんなところに……」
「? 配達だが」
違う。そうじゃない。
二人の関係は知らないけれど、それだけは瑞希にもわかった。
頭痛を堪えるようにこめかみに指を当てる。気遣うように隣に佇むジークハルトを見上げると、彼は二の句を継げずにはくはくと口を開閉させていた。
平然としているのは、事の元凶たるアーサーただ一人。
異様な空気の流れる場に、訓練の勇ましい声だけが最初から変わることなく響いていた。




