本心
「ルルに気を遣われたのか。悪いことをしてしまったな」
口ではそう言いながらも、グラスを傾けるアーサーはわかりやすく上機嫌だった。笑い事じゃないでしょう、と口先ばかりの苦情を申し入れても、中身の酒とともに容易く呑み込まれてしまう。その余裕はいったいどこから来るのかと、瑞希は内心恨めしい思いをしていた。
二人で挟んだテーブルの上には酒の注がれたグラスが二つ。一つは七、八分目までを深い琥珀色が満たし、もう一つは半分ほどを白湯で割られた薄い琥珀色が満たしている。瑞希が手にするのは当然後者だ。
一度酒を飲んでしまったなら一杯も二杯も変わらないだろうと彼は言うが、それは酒に弱くない人の言だ。しかしアーサーがどうして酒を頼んだかを考えると拒む気も起きなくて、瑞希は結局酒の席に着いていた。
無言でグラスを向けられて、瑞希も心得たようにグラスを向け返す。かちん、とジェラルドとの席では鳴らさなかった音が静かな室内に小さく響いた。
けれど、瑞希だけでなく寝酒を注文したアーサーさえグラスに口を付けようとはしない。瑞希はやはり、と自分の勘が正しかったことを確信した。
「それで?」
「ん?」
「ん、じゃないわ。何か話があるんでしょう」
瑞希の酒の弱さを知っているアーサーが、何の理由もなく酒に付き合わせるとは思えない。
そこまで鈍くないわよ、と言う瑞希に、アーサーが沈黙する。けれど誤魔化すつもりはないらしい。しばらくの躊躇いの後、食事の時、と固い声で答えた。
「父の前で、俺が言ったことを覚えているか」
「ジェラルドさん?」
彼の前ではいろいろと話をしたが、どれのことを言っているのだろう。一つ一つ記憶を手繰る瑞希をじれったく思ったのか、アーサーが性急に「父に」と吐き出す。
「伴侶と言われて、否定しなかった」
瑞希は静かに頷いた。忘れるはずがない。彼にそう言ってもらえて、どれほど嬉しく思ったか。
思い出すだけでまた幸せが胸に満ちて顔を綻ばせた瑞希に、一呼吸の間を置いたアーサーが慎重に言葉を選び、紡ぎ出した。
「俺は、ミズキとなら、とずっと思っていた。ミズキさえ受け入れてくれるなら、と」
アーサーの声は、らしくないほど緊張していた。瑞希の中の冷静な部分が、これは夢だろうかと現状に疑いを抱く。けれど煩いくらいに強く脈打つ心臓の音が、これは現実なのだと知らしめた。
「ミズキは、どう思っている?」
ひゅっと、喉が鳴る。たじろぐ瑞希を、アーサーは真っ直ぐに見つめていた。
瑞希の戸惑いを、彼はどう受け取ったのか。黒い双眸が寂しげに伏せられ、影を落とす。
「すまない、性急が過ぎた」
忘れてくれ、と取り下げられる。何も言えない自分が、とアーサーが自嘲の笑みを刻んだ。
言えなかった言葉が喉に詰まり、瑞希に息苦しさを感じさせる。
――ああ。もう、だめなんだ。
瑞希は膝上の拳を固く握った。
いつもアーサーの優しさに甘えてきた。でも、もうだめなのだ。もう、このままではいられない。いたくない。
「――好き、よ。ちゃんと……ずっと」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。声だけじゃない。手も、きっと全身が震えている。けれどそれが自分にはきっとお似合いだ。
勇気を振り絞って見上げたアーサーは目を丸くして固まっていた。当然だ。今まで瑞希から言えたことはなかったのだから。
でも、もう逃げたくない。立ち止まったままでいるのも嫌だった。
「あなたの傍に……ううん、隣に、いたい」
「俺は、何も言えないのにか?」
「それを最初に受け入れたのは私よ。その上で好きになったのも、私なの」
答えながら、いつかとは逆の現状に不思議と安心感が湧いた。
恋愛事に臆病になってばかりだった瑞希の予防線をアーサーが飛び越えてくれたように、自分も彼の不安という垣根を取り払うことはできただろうか。
アーサーは答えない。俯けられたその顔を、瑞希は静かに見つめた。くしゃりと前髪を巻き込んで目元を覆う手が震えている。手を伸ばして重ねると、震えはいっそう大きくなった。
くるりと翻った手が瑞希の手を捉え、包み込む。
観念して顔を上げたアーサーの目元は赤くなり、水気を帯びていた。
「今とは言えないが、いつの日か。本当に、俺の伴侶になってくれないか」
瑞希は今度こそ、アーサーの問いに答えを告げた。




