馬車と人
その日、瑞希は大樽を脇に置いて馬車を待っていた。馬車といっても、店に客たちを運んでくる定期馬車ではない。先日組合と定期購入の契約を結んだスポーツドリンクを買い取りにくる馬車だ。樽を運び込むのはどうしても力仕事になるためアーサーがディックに頼もうかとも思ったのだが、今日が初めての受け渡しだからと瑞希が対応することにした。
会計はアーサーに任せてあるから何も問題はないだろうが、営業時間に店を動き回っていないという現状は違和感が強く、悪いことをしているわけでもないのに落ち着かない。そわそわと馬車の到来を待ち侘びる瑞希を宥めるように、柔らかな風がふわりと吹いた。
少し前までは火傷するのではとさえ思うような熱風だったのに、今の風は心なしか涼しさを感じられた。そして気づくのは、外で待っていてもじりじりと肌を焼く熱を感じないこと。夏の終わりが近づいてきている証拠だ。
実際、いま民衆の心を占めている武術大会は開催が来週と目前に迫っている。ディックは気負いなく《フェアリー・ファーマシー》での日常を過ごしているが、薬を求めてやってくる参加者と思しき客の中にはぴりぴりと険のある雰囲気を纏う者も少なくなかった。聞くところによると、街の方では小規模とはいえ衝突が頻発しているらしい。《フェアリー・ファーマシー》ではアーサーたちがいてくれるからか功労賞が抑止力となっているのか、瑞希たちが誰かに絡まれることはないのだが、このまま何事もなければと願わずにはいられなかった。
「あ、きっとあれね」
道の先から小さな影が近づいて来るのを見つけて、瑞希は背伸びして目を凝らした。
すると、気のせいだろうか。馬車はおそらく組合からのものなのだろうが、人影が一つでは無いように見えた。積み込みの補助要員だろうか。
馬車は普段よりも幾分か早いスピードで動き、瞬く間に瑞希の目にもはっきり様子の伺えるほどに距離を詰めた。
乗っているのはやはり二人。けれどそれは助っ人ではなかった。
自身もよく知る顔に、瑞希が目を大きく見開く。
瑞希の前の程近いところに停車した馬車から降りてきた二人は、一人は苦笑いを浮かべ、もう一人は無愛想にも見える表情でぎこちなく片手を上げた。
「ダートンさん、どうしてここに?」
聞いていなかった突然の来訪に、瑞希が驚きの抜け切らない声で尋ねる。
ダートンはぐっと眉間に力を込めて、がしがしと豪快に後ろ頭を掻いた。その隣で、顔馴染みの馬車の御者が仕方なさそうに笑っている。
「親父さんに、どうしてもって頼まれちまってねぇ。すまないが、話だけでも聞いてやってくれないかい」
「話?」
ひょっとして、ディックの様子についてだろうか。
息子のことを心配して、しかし本人には素直に聞けずにこうしてやってきたのかもしれない。
そう思うと突然の来訪にと得心がいって、瑞希は二つ返事で了承した。
「大切な息子さんをお預かりしてるんですもの、私にお話しできることならいくらでも」
もちろん本人には内緒にしておきますよ、と悪戯っぽい声音で付け足すと、ダートンが大きく舌打ちした。がしがしと後ろ頭を掻く手の勢いがますます強くなる。
荒々しいその仕草が、しかし照れ隠しであることの証明のようにも思えて、瑞希はにこにこと笑顔を浮かべてそれを見ていた。




