老人と領兵
「ふむ。ご本人はおられないが、この状況では仕方なかろうな」
老人が若干の呆れを含んだ、突き放したような口調で呟く。つい先ほどまでの好好爺然とした雰囲気は見る影もなく、領兵達は震え上がった。
話に聞いたことしかない自動車と、それに乗って現れた、矍鑠とした老人。その胸には黄金の徽章が燦然と輝いている。
名乗られずとも、彼の身分を知ることは容易だった。だからこそ、明確な敵意を向けられたことに体を硬直させている。
「わ、我々は職務を全うしようとしたのです!」
「うら若くか弱い女性を取り囲み拘束することが、領兵の職務か?」
冷たい声が響く。声だけではない。叫んだ巨漢に向ける眼差しも冷たかった。
巨漢は滝のように冷や汗を流した。
それを一瞥して、老人は徐ろに口を開く。
「ならば問おう。それを職務としたは何ゆえか」
巨漢はごくりと固唾を呑んだ。
「あ、あの店に不法入国者がいると通報があったのです」
老人が訝しげに眉を動かす。
巨漢は必死で言葉を繋げた。
「信頼できる筋からの情報です。調査したところ、あの女には戸籍が無く……」
「不法入国者と断定した、と?」
「は、はっ。その通りでございます!」
だから自分達に非はないと主張する巨漢に老人がゆっくりと目を閉じる。
そして開いたとき、そこにあったのは底知れぬ闇の瞳だった。
「図体ばかりの木偶共が」
老人が低く吐き捨てる。続けざまに、言葉を失った巨漢に見せつけるように懐から紙を取り出した。
「汝らが拘束せし女人の戸籍はここにある。領を越え、王都にまで直接申請が出されていた。───これがどういうことか、よもや解らぬとは申すまいな」
巨漢の顔が驚愕に彩られる。次の瞬間にはその意味を理解して蒼白になり凍りついた。
巨漢だけではない。屈強な領兵の誰しもが、己らが仕出かした事の重大さを悟って彫像のように固まっていた。
通常、移民の戸籍は領の役所に届けられ、厳正な審査を通過した上で王都へと渡る。そこで再度審査され、受理されれば領を通じて戸籍が与えられる。
王都へ直接届け出されたということは、それだけの影響力を持つ何者かに伝があるということだ。
「し、知らなかったのです!あのおん……女性が、そのような方だとヒューイットは……他の奴らだって誰も言ってなかった!」
「ヒューイット……確か近頃成り上がった家だったか。だが些事に過ぎぬ。いや、公正であるべき領兵が有力者に阿り、暴挙に出たのだから、実に赦し難い」
老人の一団を見る目は厳しく、慈悲の欠片もありはしない。
知らぬ存ぜぬでは済まされない。
「事の次第は全て報告し、厳正な調査を行った上で、沙汰を言い渡す」
もう終わりだ……と誰かが呻くように呟いた。
老人は最早何を言う価値もないと踵を返し、ゆっくりとした足取りで薬屋の入口を潜った。
老人が店に足を踏み入れるも、店内の誰もそれに気づく様子はなかった。それでも老人は、目的の人物目指して歩み行く。
途中、アーサーが気づいて目線だけを投げかけると、老人は恭しく頭を垂れ、二枚の紙を差し出した。
それらをアーサーがしかと受け取ったのを確認すると、彼は何も言わず礼をとったまま後退していく。
やがて店を辞したのを見送って、ショック状態にある瑞希の代わりにアーサーが臨時休業を宣言した。
事情が事情なだけに、客達は気遣わしげにしながらも店を後にしていく。
こうして、多少の爪痕を残しながらも、騒動は無事、幕を閉じたのだった。
────本当に?




