ぬるま湯と生存
この世の中で一番悪い事はなんだろう。僕は授業で芥川龍之介の羅生門を読みながら思った。あの下人は悪人なんだろうか。あの老婆はいけない事をしたのだろうか。どう見ても、僕のクラスの方が悪人は多い。そもそも今の授業中だって誰も聞いちゃいない。新年度の初めは教室の隅で泣いていた若い女の先生も、もう二学期ともなれば慣れたもんだ。つらつらと指導書の文字を黒板に書き写している。教室で化粧をする女子。机に座って喋る男子達。その中で、僕だけは真面目に授業を受けていた。この先生にやる気が無いのはとっくに知っている。でも、それでも一応文科省が認定した指導書だ。勉強になるはずだ。先生が僕をちらっと見て、面倒臭そうに欠伸をした。
「おい、お前もこれ食えよ」
ぽすっと後ろから駄菓子を投げ付けられた。袋に入っている物ではなく、中身がそのままの安いスナック菓子だった。それは僕の背中に軽く粉を付けると、ぽとりとゴミだらけの床に落ちた。
「あーあ。折角あげたのに食わないのかよー。勿体ないねー。弁償しろよー。つか、お前、これでも食うよな」
いつも授業中はこんな感じだ。毎日暇潰しの種類が変わるだけだ。僕は対処法を知ってるから、別にこれがエスカレートしたりはしない。
「先生」僕は静かに手を挙げた。先生は一瞬気付かない振りをして、「何でしょうか」と僕に気だるい目を向けた
「後ろのA君が落としちゃったらしくて」
先生も対処を知っているし、これをやらないとさらに面倒臭い「いじめ」になるので対応してくれる。
「はいはい。もう落とさないようにね。それから、授業中はお菓子食べちゃダメですよ」
Aは「へーい。でもそれKのだから。Kにあげたんでーす」と言って笑った。先生は見た目だけふうっとため息を吐く真似をして、何も言わずに僕の机に駄菓子を乗せた。
毎教科、毎日毎日、こんなものだ。だから何かとか思わない。それが社会で、世の中と言うものだろう。理不尽だ。不条理だ。だから僕は勉強して、勉強して、勉強して。このクズみたいな世界で生き残ってやる。一番になろうとか、世界を変えるような人物になりたいとかは思わない。どうせ僕にはそんな力はないんだから。一生懸命授業を聞いたって、予習復習をしたって、元から才能の無い僕はどうにもならないんだ。だから、せめて生き残れるように、それだけを目標に生きるだけだ。
理不尽は日常的に存在していても、大きな塊になって攻撃してくる時が、きっと一生に何回もあるだろう。何十回も、何百回も。
いつも通りの授業風景。荒れた教室、汚い床。先生。一人だけ授業を聴く僕。僕はいつも通り、先生に対処を求めた。なんで僕は気付かなかったのだろう。いや、中学二年生に、そんなに興味の無い人間の変化に気付けと言うのが無理だ。
いつも通り先生はAに近付くと、Aを平出で殴ったのだ。後から聞くと、先生は男に振られてイライラしていたらしい。なんでも遊びの関係がもつれたとかなんとか。長い黒髪の淑やかな先生――のイメージを信じていた生徒が何人居たかはともかく、同僚の先生達は意外だと言っていた。
僕は先生の顔なんて見ていなかった。その時には先生に視線を向ける振りをしていつも通り板書を取っていた。それはいつも通りの僕だったし、そんな僕の「いつも」を先生も知っていた。ただ先生に面倒事の処理を押し付けている生徒、教師の事なんて尊敬も、寧ろなんとも思っていない生徒。自分を一つの駒のように利用する生意気な生徒。そう思っていただろうな。なのに殴ったのは僕ではなかった。「先生を舐めるな」と僕を殴れば良かったのに。いつもは僕の机に駄菓子を置く先生が、僕の横を通り過ぎたのに気が付いたのは、パアン! と大きな音が教室に響いて、その後に騒がしい教室が気持ち悪いぐらい静かになった時だった。
いつものガヤガヤした雑音が消えて、一斉に動きを止めた生徒達は僕の後ろの席を見つめている。この学校では、どんなに生徒が悪行や不良行為をしても手を出す所か怒る事もしなかった。軽く、形式的に注意を促すだけだ。挨拶のように。社交辞令の方が近いかも知れない。それだけに、いきなりの、初めての教師の反撃を体験した生徒達は皆驚いて、少しだけ大人を怖くなった。大人に怒られる事も忘れていた子供達だ。
一瞬だけ怯んだが、教室は再び、いや前以上に盛り上がった。「W先生やるじゃーん」「キレイな顔が台無しー」「あーあ、言いつけちゃお。これアップするわ」生徒の殆どがスマートフォンを先生に向けた。面白がって取り囲んではいるが、当事者の二人には近付く気配は無い。そんな風景は先生の視界には入っていなかった。取り敢えず、ただ、イライラとストレスを発散したかっただけ。誰かにぶつけたかった。誰かを攻撃したかった。その欲求だけで動いていた。先生は今まで見せた事の無い歪んだ顔で、泣きながら、Aを罵倒した。ヒステリーの女性その物だった。
「お前が悪い! お前みたいな奴が居るから! 死ね! 死ね!」
一発目でビビっていたAに畳み掛けるように絶叫した。流石のAも引いていた。距離を取ろうと少し体を後ろに動かすと、素早く先生は二発目の平出打ちを喰らわせて動きを止めた。Aの髪を掴んで、激しく揺さぶりながら再び暴言を吐いた。
次の瞬間にAがキレた。「うるせー!」と、座ったまま乱暴に机を蹴り飛ばす。ガターン! バアン! と机の金属音が響いた。そのエンターテイメントも周りの生徒達は楽しんでいる。どうなるかと皆ワクワクしていた。この教室で二人だけが本気の感情で動いていた。先生も負けじと「うるせぇんだよ!」と倒れた机を蹴る。二回目の金属音が鳴った。頭に血が上っていた二人だが、Aの方が武器が多かった。慣れた手付きでポケットからナイフを取り出したかと思うと、既に先生の首を目がけてナイフを振り下ろしていた。立ち上がる動作を見逃していたくらいだ。
僕はこんな事どうでも良かった。早く授業に戻って欲しかった。しかし、黒板を写し終わった今はやる事が無い。半身だけ後ろに捩じって見ていた。それがいけなかったのか。それもでもダメだったのか。やっぱり、僕が一番悪かったからか。
先生は隣に居た僕のシャツを掴んで、僕を盾にした。下方向に軌道修正されたナイフが僕の首をざっくりと切った。血がダラダラと流れる。生暖かい液が肌を伝っていく感覚が気持ち悪い。手を当ててみると手の平が真っ赤だった。そして痛い事に気付く。なんで僕が。なんで僕が。なんで僕が。先生とAはそんな事どうでも良いように睨み合っている。面倒な反撃をした事、その攻撃を避けらた事に更にイライラしているようだ。今度は次の攻撃に備えて、先生が先に防御を仕掛けた。つまり、再び僕を盾に使った。
僕には抵抗なんて出来ない。ただ状況に流されて、それでも最小限の被害で済む生き方で大人しく生きて行くしか出来ない。先生に引っ張られるままに立ち上がった。シャツもじっとりと赤くなっている。
先生は嬉しそうで、楽しそうだった。やっぱり、僕が一番嫌いだったんじゃないか。コイツさえ自分のクラスに居なければって思ってたんだろ? 平和なクラスに大人しい子なんて居なければって。だから先生も僕が何の脅しにならない事は知っている。Aが同級生を刺すのが怖くなったり、躊躇したりしない奴だって知ってる。僕は二人の腹いせに殺される。
それで良いのか? 本当に良いのか? 殺されるとか死ぬとかは良いとして、こんな馬鹿二人のこんなくだらない喧嘩に巻き込まれて死ぬのか? こんな奴等より早く死ぬのか?
そう頭に過った瞬間、向かって来るAのナイフに自分から飛び込んだ。狂った人間はAでも怖いのだろう。きっと狂った人間の反撃が一番怖いのを知っていたのだろう。Aは一瞬手を止めた。しかし僕はナイフに向かって行く。両手でナイフの刃を掴んで、Aからもぎ取った。血塗れの手で必死に引き抜こうとしている僕が怖かったのだろう。Aの力はそんなに強くなかった。素早く柄に持ち替え、僕は体当たりでAの腹部にナイフを深く刺した。
僕は殺人をした。殺人は一番悪い事だ。僕は悪い人間か? 不思議な事に、全く罪悪感は無かった。害虫駆除と同じ感覚がした。楽しそうなシャッター音が大量に鳴っている。