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潮風のプレリュード

作者: 久遠 睦

第一部 日常のリズム


第一章 日曜の朝、午前六時


日曜の朝、午前六時。横浜市港北区、日吉の街がまだ薄明かりに包まれている頃、田中明美は目を覚ます。四十七歳の彼女にとって、この静寂の時間は一週間の始まりを告げる儀式のようなものだった。窓の外では、東急東横線の始発電車が遠くで立てるかすかな金属音が、街の目覚めを予感させる。

彼女が高校生の娘、由奈と二人で暮らすこの2LDKのアパートは、日吉駅から歩いて十五分ほどの閑静な住宅街にある 。都心や横浜中心部へのアクセスも良く、それでいて緑豊かな公園も点在するこの街は、子育て世帯に人気が高い 。家賃は月十七万円ほどで、貿易事務の正社員として働く明美の収入からすれば決して楽な金額ではないが、娘との穏やかな生活を守るための城だった 。

ベッドから音を立てずに抜け出すと、明美はまず洗濯機のスイッチを入れる。週末に溜まった洗濯物が静かに回り始める音は、彼女の日常のリズムそのものだ。十年以上前、夫との離婚が成立した日から、彼女はこのリズムを自らの手で築き上げてきた。それは、仕事と家事、そして一人娘の育児という、決して途切れることのないタスクの連なりだった 。


キッチンに立ち、冷蔵庫から手際よく食材を取り出す。平日の朝、由奈が部活の朝練で早く家を出る日でも、必ず持たせる弁当の準備だ。鶏肉を切り分け、ほうれん草を茹で、卵焼きを焼く。その動きには一切の無駄がない。中堅の輸入商社で貿易事務の仕事に就く彼女は、書類一枚のミスが大きな損失に繋がる世界で生きてきた 。その正確さと計画性は、いつしか私生活にも深く浸透していた。

シングルマザーの平均年収が三百万円に満たないという統計もある中で、明美の年収は四百五十万円前後。それは彼女の努力と能力の証であり、ささやかな誇りでもあった 。しかし、その経済的自立は、同時に彼女の心を覆う鎧ともなっていた。離婚という嵐を乗り越え、娘との平穏な港を築くために、彼女は感情の波に揺さぶられることを極端に避けるようになった。誰かに頼ること、甘えることは、この手で築いた安定を脅かすリスクだと、無意識のうちに感じていた。

だから、彼女の日常は完璧なまでに管理された、静かな凪の海だった。その海に、新しい風が吹くことなど、彼女自身が望んでいなかった。少なくとも、そう信じていた。


第二章 投げかけられた問い


火曜日の夜、食卓には珍しく二人の姿があった。高校二年生の由奈は、ダンス部の練習とアルバイトでいつも忙しく、平日の夜に母娘でゆっくり食事をする時間は貴重だった 。

「今日の練習、新しい振り付けがめっちゃ難しくてさ」

由奈はスマートフォンの画面をスクロールしながら、今日の出来事を報告する。彼女が所属するダンス部は、校内でも特に人気があり、練習も厳しい 。それに加え、週に三日はみなとみらいの商業施設「MARK IS」に入っているお洒落なカフェでアルバイトをしていた 。現代の高校生らしい、エネルギッシュで充実した毎日だ 。

明美は娘の話に相槌を打ちながら、味噌汁をすする。自立心旺盛で、自分の世界をしっかりと持っている娘を頼もしく思う反面、その距離感が少しだけ寂しいと感じる時もある。

不意に、由奈が顔を上げた。スマートフォンの画面から目を離し、真っ直ぐに明美を見つめる。

「ねえ、お母さん。再婚とかしないの?」

その問いは、何の脈絡もなく、まるで天気の話でもするかのように軽やかに放たれた。悪意など微塵もない、純粋な好奇心から生まれた言葉だと分かっていた。だが、明美の心には小さな石が投げ込まれたような波紋が広がった。

「どうして急にそんなこと」

「いや、別に。クラスの子のお母さんが最近再婚したって聞いて、ちょっと思っただけ」

明美は箸を置き、穏やかな笑みを浮かべて答えた。

「相手もいないし、それに、お母さんは由奈と二人がいいの」

それは嘘ではなかった。この静かで満ち足りた生活を、何よりも大切に思っている。しかし、その言葉は同時に、彼女の心の奥底にある本音を隠すための盾でもあった。

四十代も後半になり、恋愛というものからすっかり遠ざかっていた 。離婚の傷が癒えていないわけではない。ただ、新しい関係を築くことの面倒くささと、それに伴う感情の揺れ動きを想像するだけで、疲労感を覚えてしまうのだ 。今の平和を乱されるくらいなら、一人の方がずっといい。そう自分に言い聞かせ、心の扉には何重にも鍵をかけてきた。

「ふーん、そっか」

由奈はそれ以上何も言わず、またスマートフォンの世界へと戻っていった。食卓には再び沈黙が訪れる。だが、その沈黙は先ほどまでの穏やかなものとは少しだけ質が違っていた。母と娘の間に、言葉にされない思いが横たわる、静かな夜だった。


第二部 予期せぬ潮流


第三章 港からの電話


金曜日の午後三時。明美は会社のデスクで、山積みの通関書類と格闘していた。モニターに映し出された数字とアルファベットの羅列を、鋭い集中力で追いかける。その時、ポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションが静かに震えた。ディスプレイに表示されたのは、見慣れない番号だった。

普段なら仕事中に私用の電話に出ることはない。だが、なぜか胸騒ぎがして、彼女は席を立ち、給湯室へと向かった。

「もしもし、田中です」

「突然のお電話失礼いたします。私、娘さんのアルバイト先、『MARK IS みなとみらい』のカフェで店長をしております、佐藤と申します」

落ち着いた、それでいて少し緊張をはらんだ男性の声だった。明美の心臓がどくん、と大きく鳴った。

「由奈が、どうかしましたか?」

「落ち着いて聞いてください。先ほど、由奈さんがシフト中に倒れられまして。今は意識も戻り、店の休憩室で休んでいらっしゃいます。ご安心ください」

佐藤と名乗る男性は、冷静かつ的確に状況を説明した。彼の声には、人を安心させる不思議な響きがあった。しかし、明美の頭の中は真っ白になっていた。

由奈が倒れた。その事実だけが、警報のように鳴り響く。最近、ダンスの大会が近いと言って、朝早くから夜遅くまで練習に打ち込んでいた。アルバイトも新しい仕事を任されたと張り切っていた。そういえば、昨日の朝食も「時間がないから」と、ほとんど口にしていなかった。

若い女性に多い鉄欠乏性貧血。過労と栄養不足が重なったのだろうか 。なぜもっと気をつけて見てやれなかったのか。後悔の念が押し寄せる。

「すぐに、向かいます」

震える声でそう言うのが精一杯だった。

「承知いたしました。お待ちしております。くれぐれも、慌てずにお越しください」

電話の向こうで、佐藤は最後まで冷静だった。彼のその落ち着きだけが、パニックに陥りそうな明美をかろうじて繋ぎとめていた。オフィスに戻り、上司に早退を告げると、彼女はコートを掴んで会社を飛び出した。外は、西日がビルの谷間をオレンジ色に染め始めていた。


第四章 見知らぬ人の優しさ


東急東横線の日吉駅からみなとみらい駅までは、急行に乗れば二十分とかからない 。電車の窓に映る自分の顔は、血の気が引いて青ざめていた。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。最悪の事態ばかりが頭をよぎり、明美は固く目を閉じた。

みなとみらい駅の改札を抜け、足早に「MARK IS」へと向かう。指定されたカフェは、ガラス張りの開放的な空間で、平日の午後にもかかわらず多くの客で賑わっていた。店の入り口で待っていたのは、電話の主である佐藤だった。

「田中さんですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

佐藤は、スマートカジュアルな服装の、明美より少し年上に見える男性だった。穏やかな目元に、心労を隠しきれないような微かな翳りが見える。彼の案内に従い、スタッフ専用の通路を通って休憩室へ入ると、ソファに横たわる由奈の姿があった。

「お母さん…」

由奈は顔色が悪かったが、意識ははっきりしていた。明美は娘のそばに駆け寄り、その額にそっと手を当てる。熱はない。安堵のため息が漏れた。

「佐藤です」

男性が改めて自己紹介をした。彼はこの店の店長ではなく、いくつかの店舗を統括するエリアマネージャーなのだという。たまたまこの店を訪れていた時に、由奈が倒れたのだと。

「貧血のようでしたので、すぐに横にならせて、水分を摂ってもらいました。念のため救急車を呼ぶことも考えましたが、本人が大丈夫だと言うものですから」

彼の対応は、実に的確で落ち着いていた 。混乱するスタッフに指示を出し、他の客に動揺が広がらないよう配慮し、そして何より由奈を安心させてくれていた。その手際の良さに、明美はただただ頭が下がる思いだった。

「本当に、ありがとうございました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

深々と頭を下げる明美に、佐藤は「いえ、とんでもない」と柔らかく首を振った。

「それより、お帰りはどうされますか?電車で大丈夫ですか?」

「はい、そのつもりですが…」

「もしよろしければ、車でお送りしますよ。私もこれから事務所に戻るだけですし、方向もそれほど違いませんから」

予期せぬ申し出に、明美は戸惑った。これ以上、見ず知らずの人に迷惑をかけるわけにはいかない。しかし、ぐったりとしている由奈を連れて満員の電車に乗って帰ることを考えると、彼の厚意はあまりにも魅力的だった。

「ですが、そんな…」

「遠慮なさらないでください。これも私の仕事のうちです。さあ、行きましょう」

彼の有無を言わせぬ穏やかな口調に、明美はそれ以上固辞することができなかった。彼の車は、派手さはないが手入れの行き届いた国産車だった。後部座席で由奈を気遣いながら、明美は助手席に座る。車内には、ほのかなコーヒーの香りが漂っていた。みなとみらいのきらびやかな夜景を背に、車は静かに走り出した。この見知らぬ男性の優しさが、張り詰めていた明美の心を少しずつ解きほぐしていくのを感じていた。


第五章 感謝のディナー


一週間後、由奈はすっかり元気を取り戻し、いつもの日常が戻ってきた。明美は何度考えても、あの日の佐藤の親切にどう報いればいいのか分からなかった。菓子折りを持って店を訪ねるだけでは、感謝の気持ちが伝えきれない気がした。悩んだ末、彼女は勇気を出して佐藤に電話をかけ、食事に誘った。

「お礼など本当に気になさらないでください」と最初は固辞していた佐藤も、明美の真摯な申し出に最後は折れてくれた。

店は、明美が選んだ。横浜駅西口からほど近い、鶴屋町にある「Italianbar The Attachment」 。お洒落でありながら堅苦しくなく、四十代の男女が落ち着いて話をするのにふさわしい場所だと思った。

金曜の夜、店は賑わっていたが、予約していたテーブル席は少し奥まった静かな場所だった。

「先日は、本当にありがとうございました」

改めて頭を下げる明美に、佐藤は「もうその話はいいですよ」と苦笑した。

「それより、由奈ちゃんの体調はいかがですか?」

「はい、おかげさまで。あれ以来、無理なダイエットはやめて、ちゃんと食べるようになりました」

義務感から始まった食事が、いつしか心地よい会話へと変わっていった。仕事の話、横浜という街の好きな場所の話、そして、互いの過去の話。

「実は私も、バツイチなんです」と佐藤が打ち明けたのは、ワインのボトルが半分ほど空になった頃だった。「十年以上前になりますが。子供はいません」

その告白に、明美は驚かなかった。むしろ、彼の纏う穏やかで少し寂しげな雰囲気の理由が分かったような気がした。

「私もです。由奈がまだ小学生の頃でした」

離婚という共通の経験は、二人の間の壁を静かに取り払った 。失敗から学んだこと、一人で生きていくことの覚悟、そして、時折訪れるどうしようもない孤独。どちらからともなく、そんな話をした。佐藤のユーモアは、決して人を傷つけない、自分自身に向けられた優しいものだった。彼の話を聞いていると、明美は自然と笑顔になっていた。

「佐藤さんって、面白い方なんですね」

「そうですか?よく、つまらない男だと言われますが」

彼はそう言って、照れたように頭を掻いた。その仕草に、明美は思わず胸が温かくなるのを感じた。

この人は、自分を大きく見せようとしない。格好つけたり、無理をしたりしない。ただ、ありのままの自分でそこにいる。離婚を経て、人間関係の複雑さや見栄の虚しさを知った者同士だからこそ感じられる、心地よい安心感がそこにはあった 。

恋愛小説で描かれるような、劇的な出会いや燃え上がるような情熱ではない。川上弘美の『センセイの鞄』のように、日常の片隅で偶然隣り合わせた二人が、静かに言葉を交わすうちに、ゆっくりと心を通わせていく。そんな、穏やかで、けれど確かな何かが、二人の間に芽生え始めていた 。

食事を終え、店の外に出ると、横浜の夜風が心地よかった。

「今日は、本当にごちそうさまでした。楽しかったです」

「こちらこそ。誘っていただいて、嬉しかったです」

駅までの道を並んで歩く。ただそれだけのことが、明美には何年も忘れていた、新鮮なときめきを与えていた。


第三部 変わりゆく潮目


第六章 夜闇の会話


あの夜のディナーを境に、明美と佐藤の間に細く、しかし確かな繋がりが生まれた。それは、スマートフォンの画面に灯る、ささやかな光のやりとりだった。

最初は、佐藤からの「由奈さんの具合はいかがですか?」というメッセージだった。それに明美が返信し、数回のやりとりで会話は終わる。そんな事務的な関係が、少しずつ変化していった。

ある夜、明美が残業を終えて帰りの電車に乗っていると、佐藤からメッセージが届いた。『今日、面白い本を見つけました』。それは、明美が以前、好きな作家だと話していた人物の新刊だった。そこから、互いの好きな本や映画、音楽の話に広がった。

『この曲、聴いてみてください』と送られてきたリンクを開くと、明美が若い頃によく聴いていたアーティストの、少しマイナーな曲が流れてきた。懐かしさで胸がいっぱいになり、思わず『どうしてこの曲を?』と返すと、『なんとなく、田中さんが好きそうだと思って』という返事が来た。

何気ない会話が、夜ごと続いた。仕事の愚痴、美味しかったランチの写真、窓から見えた美しい夕焼け。それは、母親でも、会社の同僚でもない、「田中明美」という一人の女性としての、誰にも邪魔されないプライベートな空間だった。

電車の中で、彼のメッセージを読んでくすりと笑う。そんな母親の小さな変化を、由奈は見逃さなかった。

「お母さん、最近なんか楽しそうだね。いいことでもあった?」

ソファでテレビを見ながら、由奈が何気なく言った。

「え?そう?」

明美は動揺を隠しながら、そっけなく答える。だが、心の中では、娘の鋭さに驚いていた。そうだ、私は今、楽しいのかもしれない。この、誰にも言えない秘密のやりとりが、灰色だった日常に淡い色彩を与えてくれている。その事実に、明美自身が一番戸惑っていた。


第七章 山下公園の散策


メッセージのやりとりが始まって一ヶ月が経った頃、佐藤から「今度の週末、もしよかったら散歩でもしませんか」と誘われた。それは、これまでの感謝や義理とは違う、初めての明確な「誘い」だった。

土曜日の午後、二人は山下公園で待ち合わせた 。潮風が心地よく吹き抜ける、横浜を象徴する場所。休日の公園は家族連れやカップルで賑わっていたが、その喧騒が逆に二人を気楽にさせた。

「ここのバラ、綺麗ですよね」

佐藤が指差したのは、「未来のバラ園」と名付けられた一角だった。色とりどりのバラが、港の青を背景に咲き誇っている 。二人はしばらく、言葉少なげに花々を眺めながら歩いた。

やがて、海に面してずらりと並んだベンチの一つに腰を下ろした 。目の前には横浜ベイブリッジが雄大な姿を見せ、港には白い観光船がゆっくりと行き交っている。遠くで鳴る汽笛の音が、どこか物悲しく、それでいてロマンチックに響いた。

「なんだか、不思議な感じですね」と明美が呟いた。

「何がです?」

「こうして、佐藤さんとここにいることが。一ヶ月前には、想像もしていませんでしたから」

「私もです」と佐藤は微笑んだ。「人生、何が起こるか分かりませんね」

その言葉をきっかけに、二人は少し深い話をした。離婚後の人生について、一人でいることの気楽さと寂しさについて。明美は、自分の平穏な生活を壊すのが怖い、という本音を初めて口にした。

「分かります。私も、もう誰かと深く関わるのはこりごりだと思っていました。傷つくのも、傷つけるのも、もうたくさんだと」

佐藤は、静かに海を見つめながら言った。

「でも、最近思うんです。未来の出来事が、過去の意味を変えることだってあるんじゃないかって」

その言葉は、平野啓一郎の小説『マチネの終わりに』に出てくる一節を彷彿とさせた 。辛かった離婚の経験も、孤独に耐えてきた長い年月も、この先の未来に幸せな出来事が待っているのなら、その全てが今日この日のための準備期間だったのだと思えるかもしれない。過去は変えられないけれど、過去の「意味」は、未来によって変えることができる。

「未来が、過去を変える…」

明美は、その言葉を口の中で繰り返した。佐藤と出会ったことで、閉ざしていた心の扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。ベンチに座る二人の間に、沈黙が流れる。それは気まずいものではなく、互いの心の揺らぎを静かに感じ合う、穏やかな時間だった。


第八章 娘の眼差し


ある平日の夜、アパートのインターフォンが鳴った。モニターに映っていたのは、意外にも佐藤の姿だった。

「すみません、近くまで来たものですから。先日お話ししていた本、お持ちしました」

ドアを開けると、少し気まずそうに笑う佐藤が立っていた。彼の手には、一冊の文庫本が握られている。

「わざわざ、ありがとうございます」

明美が本を受け取ろうとした時、リビングから由奈がひょっこりと顔を出した。

「あ、佐藤さん。こんばんは」

「やあ、由奈ちゃん。こんばんは。もう体は大丈夫?」

「はい、ばっちりです。この間はありがとうございました」

玄関先での短い会話。だが、その間に交わされた母と佐藤のやりとりを、由奈は静かに観察していた。二人の間に流れる、ぎこちなくも温かい空気。そして何より、自分以外の誰かと話している時の、母の見たことのないような柔らかな表情。

佐藤が帰った後、明美がリビングに戻ると、由奈はソファに座って雑誌を読んでいた。

「…佐藤さん、いい人そうだね」

不意に、由奈が呟いた。

「お母さん、楽しそうだし。よかったじゃん」

その言葉には、何の含みも、棘もなかった。ただ、母親の幸せを純粋に喜ぶ、娘の素直な気持ちが込められていた。現代の高校生は、親が思うよりずっと大人で、親の人生を尊重する気持ちを持っているのかもしれない 。由奈には由奈の世界があり、部活やアルバイト、友達との時間で満たされている。母親が自分のためだけに生きることを、彼女は望んでいなかったのだ。

娘からの、予期せぬ、そして何より力強い承認。それは、明美が心のどこかで抱えていた、「自分の幸せを求めてもいいのだろうか」という最後の躊躇いを、きれいに拭い去ってくれる一言だった。

「…ありがとう」

明美はそう言って、娘の頭をそっと撫でた。窓の外では、街の灯りが優しく瞬いていた。


第四部 丘の上の眺め


第九章 魔法の時間


次に会った時、佐藤は明美を「とっておきの場所があるんです」と言って、車で元町へと連れ出した。坂道を上り、車を停めたのは「港の見える丘公園」の駐車場だった 。

「ここからの景色、特にこの時間が一番好きなんです」

彼が言った通り、公園の展望台から広がる景色は息をのむほど美しかった。時刻は、日没から三十分ほどが過ぎた頃。空はまだ深い藍色と茜色のグラデーションを残し、その下に広がる横浜港の街明かりが、宝石のようにきらめき始めていた 。いわゆる「マジックアワー」と呼ばれる、一日のうちで最もドラマチックな時間帯だった。

正面にはライトアップされた横浜ベイブリッジが白く輝き、その光が穏やかな海面に反射している 。埠頭のオレンジ色のナトリウム灯が、港町ならではの温かい雰囲気を醸し出していた 。

「わあ…」

明美は、思わず感嘆の声を漏らした。毎日この街で暮らし、働いていながら、こんなにも美しい景色があることを知らなかった。

二人は手すりに寄りかかり、言葉もなくその光景に見入っていた。潮風が、頬を優しく撫でていく。やがて、時刻がちょうど七時を回った瞬間、ベイブリッジの主塔の灯りが、すっと青色に変わった 。夜空の藍に溶け込むような、幻想的な青。

その時、佐藤がそっと明美の手に自分の手を重ねた。驚いて彼の方を見ると、彼は黙って景色を見つめたままだったが、その横顔は真剣で、優しかった。彼の大きな手の温もりが、明美の心にじんわりと広がっていく。

もはや、言葉は必要なかった。この息をのむような美しい景色と、触れ合った手の温もり、そして静かに流れる時間が、二人の気持ちが同じ場所にあることを雄弁に物語っていた。感謝から始まった関係は、友情を経て、今、確かに愛と呼べるものへと姿を変えようとしていた。それは、四十代という年齢を重ね、多くの喜びと痛みを経験してきた二人だからこそ分かり合える、静かで、しかし深い感情の交歓だった。


第十章 新しいプレリュード


公園からの帰り道、二人は元町の石畳をゆっくりと歩いていた。先ほどまでの高揚感は、心地よい静けさへと変わり、二人の間を穏やかな空気が満たしていた。

これからどうなるのだろう。この関係を、何と呼べばいいのだろう。明美の心には、期待と不安が入り混じった感情が渦巻いていた。離婚を経験した人間にとって、新しい一歩を踏み出すことは、想像以上に勇気がいることだった 。

そんな彼女の心を見透かしたかのように、佐藤が口を開いた。

「焦らず、ゆっくり行きましょうか」

それは問いかけであり、同時に誓いのような言葉だった。

「急いで結論を出したり、何かの形に当てはめたりしなくてもいい。僕たちには、僕たちのペースがあるはずです」

その言葉に、明美は心がふっと軽くなるのを感じた。そうだ、私たちはもう若くない。未来を焦る必要も、誰かの期待に応える必要もない。ただ、目の前にあるこの温かい気持ちを、一つ一つ大切に育てていけばいい。

「…そうですね」

明美は微笑んで頷いた。

「ゆっくり、ですね」

二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。

元町の洗練されたショーウィンドウの灯りが、二人を優しく照らす。道の先には、横浜中華街の賑やかなネオンが遠くに見えていた。

「どこかで、少し飲んでいきませんか?」

佐藤が尋ねる。

「ええ、ぜひ」

明美が答える。

潮風が、二人の間を吹き抜けていく。それは、長い間止まっていた物語が、再び動き出すのを祝うかのような、優しい風だった。これは終わりではない。ましてや結論でもない。これは、二人の人生の第二楽章を奏でる、ささやかで、しかし希望に満ちた、新しいプレリュードなのだ。


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