⑤ 鍵と錠前、男と女
「……はぁ」
束の間、アンヴァルの口から言葉のかけらは落ちてこなかったが、結局は、彼女の駄々っ子ぶりに白旗を上げるのだった。
「魚の餌って。お前を死なせて俺がおめおめと国に帰っても、魚の餌になる結末だぞ」
「ディオ様はそんな酷いこと許さないわ」
「いや、許される。城内のお偉いさん全員一致で処刑執行になる」
「そ、そう?」
アンヴァルは再度、深く溜め息をつき、それから語気強く言い放った。
「とにかく、お前は全力で自分が生き残ることを考えろ。もうダメだってなっても、一瞬でも長く生きろ、俺が助ける可能性を伸ばすために」
アリアンロッドの目をいつになく、まっすぐに見た。
「……俺は死なないから」
「……簀巻きにされても?」
「されても」
彼の“死なない宣言”は、信じるに値する実力があった。アリアンロッドはずっと以前から、その武術と、また、説明しようもないが、彼に備わる天運、のようなものを信じている。
「分かった。私が生き残るほうを選ぶ。……。でももう、こんな二択は嫌よ。もう2度と……考えたくもない!」
「…………」
涙がこぼれないよう、ひたすら目に力を入れて踏ん張るアリアンロッドを前に、アンヴァルはイナンナへ、女じゃなかったらタコ殴りにしてやる、という視線を牢内から送った。
イナンナは決まりが悪くてそれを無視した。悪趣味だったと認めているので目を逸らしはしたが、自分だってすぐ止めなかったくせに、と思ったようだ。
話もひと段落つき、イナンナは鍵を扉に差した。扉がギギィと錆びた音を立て開いたら、彼女はしなやかにアリアンロッドの手を引いた。
「ねぇ待って。この錠前、大きくて、私たちが使ってるのと違うよね」
牢から出たアリアンロッドはその場で、気になっていたことを尋ねる。
「国によって錠前の形って違うのね?」
「このお屋敷の錠前は特別仕様です。通常の錠前は鍵と鍵穴がセットで作られているものですが」
イナンナは錠前に開けられた10個の穴を指さした。
「この錠前は使用者があらかじめ、この10箇の穴のうち、正解を一つ選んで仕掛けることができます」
「ん?」
「たとえばこの、上のかんぬきは、左から2つ目の穴が正解だとセットされているので、そこに鍵を差さないと作動しません。鍵を差して閉めた人物、ここが正解だと知る人物しか開けられないということです」
アンヴァルも牢内から説明を聞いている。
「その鍵を持っているだけじゃだめなんだ?」
「そう。逆に言えば、この屋敷の鍵はすべてこの一本で開けられます。そしてここにはふたつのかんぬきが付いているわけですが、これは同時に、かつ、ふたつの正解の穴だけに差さないと、開かないということです」
「ふたつの錠前にそれぞれ10個の穴があって、それを同時に正解……ということは」
「最大百回試せば開けられるってことだな」
アリアンロッドより早くアンヴァルが答えた。
「鍵自体は使用人の集う部屋に同じものがいくらか置いてあります。錠前がふたつなら百回でも試行すればいけるでしょう。この館には最大4つの錠前を構える“なんらか”もありますわ」
「厳重さが必要な部屋や物ほど錠前が多くなるのか」
「ふぅん……暗号のように、簡単には開けられないようにする鍵、ね?」
アリアンロッドはその錠前を旺盛な好奇心で見つめる。
そんな彼女の耳元で、イナンナはまろやかな声音で囁くのだった。
「鍵と錠前、男と女みたいで心が弾みませんか?」
「え?」
「愛する人に“ここが正解よ”と、ひそやかに伝えたいですわね?」
「?」
ここでアリアンロッドのキョトンとした顔に、妙に焦ったアンヴァルは──、
「いいからもう行け! こいつに何か力のつくモノを食わせてやってくれ」
分かりやすくイナンナを急かした。
「アンヴァルはなに、アリアンロッド様の父親かなにか? ……なら、鍵は掛けずに行くけど、頃合いを見て私が迎えに来るから大人しく待ってなさい」
イナンナはアンヴァルに対して、鼻であしらうような態度をとる。
(……なんだか私、ヘンだな。さっきからむずがゆい)
彼に、自分の外にもこれほど気安い女性がいることに、アリアンロッドは多少の寂しさを覚えていた。
(ううん。彼女が王陛下の娘なら、臣下のアンヴァルがこんな態度をとるなんておかしいんだもの。まぁ私に対してもだけど、それは私がそう求めたからで……)
多少のためらいを隠しつつ、イナンナに連れられ地上階へと出たのだった。
「それで、頭のほうは働き始めましたか?」
地上階へ向かいながらふたり、ひそひそと話す。
「まだ混乱中よ。あなたのこととか、想像もしなかった事実を打ち明けられるし」
「そうですか……さきほどの罪滅ぼしに、私の持つ情報を差し上げますわ。こちらのお屋敷の案内と共に」
グランドフロアに出たら、廊下の突き当りまで連れてこられた。
「ここは東南の角になります」
案内の手先に人ひとりが通れるほどの通用口がある。
イナンナが開けたら外に見えるのは川、その向こうに森。この屋敷は三方を川に囲まれていて、川と建物の距離はごくわずかだ。
「通用口から屋敷に沿ったこの石の通路を進むと、“化粧室”があります」
右手に伸びる石造りの通路の先、屋敷の西南側角近くの、川の浅瀬に簡素な建物が見える。
(川に建つレストルームかぁ。衛生的ね)
「さ、この通用口より少し戻って隣が衣類庫です。侍女が頻繁に出入りするので施錠はしません」
入室するとそこには、立ち並ぶ木製の棚に、大量の布地が積み上げられていた。イナンナはそのうちの2枚を取り上げアリアンロッドに被せた。
「侍女の服装です。いつでも脱いで捨てていけるように、今のお衣裳の上に重ね着しておきましょう。重くなりますけど、堪えてくださいね」
イナンナの手でササッと仕立てられた。
「このお屋敷は歴史がありそうね?」
森と山と川に囲まれひっそりと建つシンプルな構造の建物。客人を迎える広間は、いちばん奥の、崖の上の離れに用意されている、風変りな館。
「ではこの館についてお話しします。この地に受け継がれる昔話の一説です」
語りながらイナンナは、アリアンロッドにヘッドスカーフも被せた。
「これは何百年も前に、遠い国からの移住者らによって建てられた館です。安住の地を目指した冒険者らが、気候の良いここに定住を決めたそうです」
代々の領主が酔狂で受け継いだ、古の建造物ということだ。今は国の財産で、アリアンロッドのヴィグリーズ王国の国境から近い土地に建つので、和議のために解放された。
「冒険者らの族長は3人の屈強な戦士だったとか。一族みなで暮らすためにこの大きな屋敷を、力を合わせて建設し、この地に馴染みました。しばらくはここ周辺の民ともうまくやっていたようですが、この国の王がこれを支配下に置こうとした頃には、その子孫は存在していなかった──」
「なら、戦にはならなかったのね」
「近隣の者の語り草ではそのようですわね。さて、お食事にしましょう。今から食堂へ」
ちょうどアリアンロッドの腹の虫が鳴り、彼女は頬を染めて手を腹に添えた。