④ ゆずれない
少し間が空いただろうか。
「ヴァルを出して」
静やかだが、力のこもった濁りなき声が、狭いこの場に響いた。
この瞬間、アリアンロッドの瞳は、対象を紫の炎で包むような熱い視線を放っている。
「彼を今すぐここから出して」
イナはその声に少々気圧され、小さくよろめいた。
「……あら、急ぐ必要はないと言っているでしょう? 彼と話してからでも」
「彼は一従者。私は将来、国の最上位に立つ聖女なのだから、決定権は私にあるの」
ここで、本物の聖女であることから、一歩も引くわけにいかなかった。
「聖女だと言い張るなら、なおさら自分の命を優先すべきでは?」
イナも負けじとアリアンロッドの心を揺さぶってくる。
「というか、死ぬのは怖くないの? 慰み者と言ったけど、男よりよほど哀れな死に方をするわよ。主はそういう方なの」
アリアンロッドは奥歯をギッと噛みしめた。
「怖いけど……怖くてどうしようもないけど、そんな二択で生き残ったら、きっとその苦しみは、死よりも苦しい」
「……それは、彼が特べ」
「猿芝居もいい加減にしろ、イナンナ」
ふたりの間の張り詰めた空気を切り裂くように、アンヴァルの鮮明な声が割って入ってきた。
「!? ヴァル、寝てたんじゃ……」
彼は起き上がり、アリアンロッドの隣で格子の向こうの彼女をめいっぱい睨みつけるのだった。
「……ふふふっ」
腸煮えくりかえる様をさらけ出す彼を目にして、女侍従イナは満足そうに薄ら笑う。
「なに? 今、ヴァル、なんて言った?」
混乱の最中にいるアリアンロッドを横目で見たアンヴァルは、頭に血が上っているのか唇を固く結んで、鼻から息を吐いた。そして一呼吸置いてからアリアンロッドを振り向いた。
「こいつは国が数年前隣国に送った密偵で、ディオニソス殿下の異母妹だ」
「えっ……。ええ!??」
しばらく緊張で足が震え、立っているのがやっとだったアリアンロッドは、その場で腰を抜かしてしまった。
(国のスパイ!? それどころか、ディオ様の妹!?)
アンヴァルがその両腕を取り、さっと持ち上げる。
「わ、私、知らない。会ったことない。妹いるなんて聞いてない」
「王家の女性らは全員、離宮に押し込められている」
(そう、私が立ち入る王宮の範囲に王家血筋の女性なんてひとりもいなかった。侍女以外は男性ばかりで、子どもの頃は違和感を覚えていた……。)
「ふふ、お初にお目にかかりますわ、アリアンロッド様。現王の第二夫人の娘、イナンナと申します」
今までずっと高圧的な笑みを浮かべていた彼女が一礼をして、初めて友好的な笑顔を見せた。それは意外にも可愛らしいものだった。
「私、国を発つ際にはぜひ一度、聖女様にお目通りをと、子どもながらに切望しておりました。ですが王の娘であっても、女子はまず王宮に入れませんので」
「……?」
「挨拶はいい。お前がついた嘘を早く洗いざらい話せ」
「嘘?」
アリアンロッドには何がなにやら、理解が追いつかない。彼女が王の娘だというなら、アンヴァルのあまりに気安い態度の理由も分からない。
「嘘なんて。さっきの選択は冗談だけど? ……ああ、ひとつ大事なことが」
ふたりは聞き逃さないよう神経を集中させた。
「聖女の証の書状を持ってきたという者が、姿をくらましました」
「「!?」」
「兵や侍女の話では、応接室に待たせておいたら居なくなっていて所持品も消えた……。私も出向いて確認したのだけど、そこはもぬけの殻」
「お前はその者らを一度も見てないってことだな」
「そう言ってるでしょ。私はあなたたちが本物だと知っている。だから使用人が後から来た侵入者に騙されたのだと思った。もしかしてあなたたちが持っていた書状を、その何者かに盗られたの? だとしたらアンヴァルもとんだ役立たずね」
そんな嫌味にアンヴァルは何も言い返さなかった。
(彼女も、アンヴァルに対して気の置けない様子だわ……)
ふたりのあいだに妙な連帯感すら感じ、アリアンロッドはまだ自分だけ取り残されているのだと不満げであった。
「それとも影武者でも用意した? そんなことは打ち合わせていなかったけど」
「いや、俺たち本当に頭打って失神していたし、訳が分からない」
こちらはこちらで、本当に情けない……と言いたげなイナンナだった。
「これでは和議は無理でしょう。でも私が必ず、あなたたちを無事にここから出すわ」
しかし思考回路があまり働いていないアリアンロッドでも、イナンナが味方だということには納得した。
「まぁ今は無理。敷地内の兵舎に待機していた兵たちが、その行方知れずの者を探しだすために、屋敷の内外問わずうろうろしているわ」
「ならこいつだけ牢の外に出してくれ。ここの侍女の服でも着せれば、お前のそばに置いておけるだろ」
「えっ?」
(私たち離れ離れになってしまうの?)
「こいつ、シモ事情を心配してるから」
「それはそうだけど……」
「分かったわ。でも私はアンヴァルほど甘くはないですから、ご了承を」
そうイナンナが牢の戸を開けようとしたら、アンヴァルがそれをいったん止めた。
「待て。こいつと話がある」
「ヴァル?」
「私は下がっていた方がいいかしら」
気を利かせ階段へ向かおうとしたイナンナをアンヴァルは止める。
「どうせ声は聞こえるだろ。そこにいればいい」
そしてまっすぐにアリアンロッドを見て、憤り混じりの声を発した。
「今度ああいう場面に遭遇したら、何よりも自分の命を優先しろ」
「え?」
「あの、イナンナの戯言だ!」
やっぱり全部聞かれていたのか、とアリアンロッドは伏し目がちにして顔を背けた。
「ごめん……」
顔を背けたまま、バツが悪そうに言葉を紡いでいく。
「私がひとりでここを出られても、無事に国まで帰れる可能性は、あなたよりずっと低いし……ううん。そうじゃなくて、」
ここで彼のほうに向き直し、抑えていた声ははっきりと放たれるようになる。
「私はこんなにも怖いことをあなたに押し付けようとした。ごめん!」
「……は?」
アンヴァルにとっては、彼女の言い分はどうも明後日の方を向いている。
「私、耐えられないの。私のせいであなたが殺されるとか、この世界からいなくなるとか、もう会えなくなるとか。そんなことになったら私、生きていけない」
「はっ?」
彼女がすごくリアルに私刑を想像していることは伝わった。
「どうしても嫌なものは嫌! ヴァルが魚の餌になるのは嫌!!」
アリアンロッドは彼に負けない、頑なな視線を返すのだった。