⑦ また自分を誇らしく思える日がきっと
アンヴァルは思わず片手で、アリアンロッドの肩を押し出した。
「あぅっ」
よって彼女はだるまのように転がった。
「……突きとばしたぁ!?」
「悪い」
しれっと謝った彼は鏡に向き直し、化粧の仕上げを始める。
今のは思いきり茶化したアリアンロッドの咎だが、彼女の深層心理では、彼にとことんまで否定して欲しくて、不満を隠せない口先がすぼんでいた。
「でもヴァル、もうさすがに女装は厳しいね。これが最後よ」
「当たり前だ。二度とやるもんか」
室内もだいぶ明るくなってきた。光で彼の顔があらわになると────
「ん~、やっぱりイナンナやフレイヤがやってたお化粧は、もっと自然だったわ」
「できない奴が言うな」
そこで、支度をだいたい終えたアンヴァルは手荷物から小箱と薬の瓶を取り、アリアンロッドに手渡して言う。
「これに薬を塗っておいてくれ」
アリアンロッドが開けた小箱に入っているのは、国宝の指輪に見せかけたレプリカだ。
「目が眩むほどわざとらしく発光する薬を塗りつけるのよね」
この蛍光塗料は薬師マクリールから購入した特殊な薬だ。
「だいたい、あの場は昼間で明るいんだから、光なんて本来、見えるわけないんだ。頭おかしくなってる奴が騙されればそれでいい」
「レプリカに塗り付けて、しばらくこの箱の中に閉じ込めておけば、昼間でも目を刺激する不思議な輝きが貯まるんだよね? ……って、あれ? 閉じ込め──……」
彼女の脳裏に、とある閉じられた場の景色が蘇る。
「塗り終わったら屋舎に行って医師と兵を呼んでこいよ」
「うん、行くよ。でもその前に、行くところがある!」
「ん?」
「まだ見てないところがあったわ!!」
アリアンロッドは急ぎ足でそこを離れ、地下に続く階段へと走った。
見る必要がないと思っていた。
あんなところ、考える隙もない。だって自分たちは入れられていたのだから、そこにないことは知っている。
あの狭い地下階には、実は────
階段を降り、そこに辿り着いた。
「燈台下暗し……? 本当に見えていなかった」
自分たちが入れられていた手前の牢の奥には、もう一室あったのだ。
アリアンロッドは緊張感と共に奥へと踏み出した。左手に振り向くと、格子の向こうの、奥の壁に掲げられていたのは。
「美しい……。残る伝説の武器は、長弓だったのね」
艶めかしく弧を描く、赤い弓柄のロングボウであった。
アリアンロッドはその足で庭園の中に佇む宿舎に向かい、護衛隊の隊長に入手した長弓を預けた。間断なく、細かな説明もせずと医師と兵士数名を屋敷に連れ出した。
そして4階に上がったら、上ってきた階段を扉の内側から覗ける部屋に隠れ、連れてきた男たちも奥に押し込み待機させている。
医師は、「急患がいるというお話でしたが……?」と、もちろん訝しむのだが、ここは「待ってて」としか言いようがなかった。
「あ、来た!」
過去の自分とアンヴァルが階段を慌てて降りていったのを確認し、彼女は急いで医師を引っ張り出す。
離れの応接間に入室した医師は負傷したイナンナに応急手当を施した。それが済めば直ちに、兵らが彼女を板に乗せ運び出す。一部の兵はアンヴァルを目にして、「あれ、美女? いや、誰? アンヴァル様??」という顔をしたが、美女風のアンヴァルに「一刻も早く連れていけ」と美女らしかぬ顔面で威圧され、大急ぎで役目を務めるのだった。
アリアンロッドは「きっとこれでイナンナは助かる」と期待を胸に、仮の救護室へと走った。
ここでアリアンロッドに仕込まれていた軍隊は、主を失ったあちらの護送兵らを見張ることに専心した。ひとりたりとも外出を許さず、より上の高官、さらには最高権力者ユング王への通達を遅らせるように。いつかは知られてしまうが、イナンナの状態が落ち着くまでは、事を荒立てたくなかった。
その後、イナンナの容体が持ち直したことを確信した医師は、治療の場を屋敷の大門に近い宿舎の寝室に移した。
アリアンロッドもそこで寝泊まりし、しきりとイナンナに話しかけるのだが、彼女はこう呟くばかりだ。
「消えたい。消えてなくなりたい。情けなくて、恥ずかしい」
その様子にはアリアンロッドもただ思いあぐねる。それでも彼女の手を取り、懸命に説き伏せた。
「日々の中で……何かに必死になっていると、情けないことだらけで恥ずかしいことだらけよ。私なんて本当にそればっかり。でも生きていれば、自分を誇らしく思える日だって、きっとまたあるから。消えたいなんて言わないで」
彼女が今後、健常人のように歩くことは不可能かもしれないが、矢による負傷は時が経てば癒える。あとは医師の許可を待つのみで、連れて帰るのは無理ではないが、やはり本人の意思を前向きなものに変えたかった。
「ねぇイナンナ。国に帰ろう? きっと歩けるようにもなる。国に奇跡のような術を持つ優秀な医師がいるの。遠い国から来た、女性の医師よ」
どう言っても彼女は虚ろな目をしたままで、仕草の一つも返さない。
「私、その医師にお願いしたんだ。国の若者を育成して欲しいって。女性の人材も育つわ。少しずつだけど国は変わっていけるから、そこに暮らす人々のために。きっと……」
イナンナはただ床から空を見つめていた。
翌朝、アリアンロッドが目覚めた時のこと。兵士が慌てて連絡にやってきた。
「え? イナンナがいない!?」
アリアンロッドは寝室に走ったが、寝床はもぬけの殻だった。
「ろくに歩けないのにそんな遠くへ行けるわけない! 早く探して! 急いで!!」
それからまる2日間探したが、結局彼女は見つからなかった。向こうの護送兵の人数も変わっていない。
アリアンロッドはひどく落ち込んだ。言葉も思いも彼女には届かなかったのだと。
もう、諦めるほかなく、向こう側の兵士も開放し、翌朝、国へ戻ることにした。
その夜中、宿舎の裏庭でアリアンロッドは、黒の上空から零れ落ちてきそうな星々を眺めていた。
「眠れないのか? まぁお前は明日、車内で寝ていればいいけど」
丸太に座るアリアンロッドの隣にアンヴァルも腰を据えた。ちょうど見張りを交代したところのようだ。
「見張りくらい、下の人たちに任せて寝てればいいのに」
「俺は昼間に寝てたんだ。……もういい加減、イナンナのことは諦めろ」
「諦めてるわよ。ただ、生きていてくれればいいなって……」
今にも泣き出しそうな彼女の言葉尻に、アンヴァルは「しまった、墓穴を掘った」と、慌てて他の話題を探す。
「あ──、えっとさ。結局、残りの伝説の武器は何だったんだ? 見つけたんだよな?」
「ん―、秘密。言ったら取られそうだし」
「はぁ? 隊長に渡したんだろう? あいつが知ってて俺が知らないなんてありえないだろうが! 言え!」
アンヴァルは彼女の頬をつまんで引っ張った。
「嫌だよー。帰ったら私専用の保管庫で大事にしまっておくんだ」
アリアンロッドは遅まきながら両手で押さえて頬を守る。
「そんな持ち腐れ……! 言えって。余計気になってきたわ。言わないと──……」
ここからはアンヴァルの意趣返しである。
「夜が明けるまで、俺の好きにするぞ」
「ん?」
「お前のこと」
「……え?」
真顔の彼がじっと目を見つめてくる。
「……?」
アリアンロッドは少しのあいだ考えた末に、ああ、あの時の軽口か、と思い出した。冗談を冗談で返すのは子どもの頃からの流儀なので、この場は冷やしてはならない。
「ええ、わたくし、あなたになら何をされても──……」
台詞は侍女の談義由来、人差し指を唇にちょんと置いて、表情はここでも歌姫ローズを参考にしてみた。
すると、彼のわきわきした魔の手が忍び寄る。
「や、やだっ、きゃはははは!!」
「言え! そして寄越せ!!」
「やめてやめてぇくすぐったああい」
「何されてもいいんだろ!」
真夜中に近所迷惑な二人組であった。
「あっ、あんっ……!」
「……へっ???」
アリアンロッドの上げた妙な声が、瞬息でアンヴァルの手を止める。
アンヴァルの目に映る赤い顔のアリアンロッドは、立腹した頬の膨らませように加えて、胸の前で両腕をクロスして身を守り、
「今、どさくさに紛れて胸、触った!」
と騒いだ。
「さ、触ってない。……触ってない。……触ってない、触ってない!」
アンヴァルはあっさり手を引っ込め、好きにするのは即時終了した。
翌朝そこを出立する時、軍隊長の手荷物に、他の武器がしまってあるのとは明らかに寸法の違う包みがあり、結局、武器種はアンヴァルに露呈したのだった。