⑨ いつも頼りにしてるよ?
それからアリアンロッドは風邪をひき、数日の間寝込んだ。幸い、医師見習いの娘のおかげで大事にならずに済んだ。
末妹の具合も快方に向かい、エルヴィラは朗らかさを取り戻しつつある。
ある朝、回復してすぐのアリアンロッドは、エルヴィラを落ち着いて話せる場に呼び出し、そこの土手に座って切り出した。
「エルヴィラ、聞いてほしいことがあるのだけど」
エルヴィラは静かに頷いた。
アリアンロッドは、「港から船で出てどこかの島で、厳しく苦しい暮らしを家族で力を合わせ、始めてみないか」と勧める。思えば無茶苦茶なことを言っている。
エルヴィラは真剣な瞳で語るアリアンロッドを、じっと見つめていた。
「それが、神の示す道なの。根拠は見せられないのだけど……」
「分かりました、アリアンロッド様」
「えっ?」
エルヴィラは両手でアリアンロッドの白い手を下から取った。
「あなた様がお休みになられている間に、お医者様から聞きました。あなた様はお隠れになったと聞いていた、亡き国の大聖女であらせられるのですね。そうとは知らず……今までの非礼をお許しください」
「あ、いえ、そんな」
そう畏まられるとアリアンロッドなど、どうにもまごまごしてしまう。
「あなた様に降臨する、始祖神のお力を信じます。嵐の中で妹を見つけてくださった。どうして信じないことがありましょうか。あなた様は薬をお持ちになって、私たちの前に現れ、妹を病から救ってもくださいました。そしてこうして、新しい扉を開いてくださるなんて……」
「でも、厳しく、苦しく、恐ろしい旅になると思う……」
「その先に私たちの幸せがあるのなら、苦難も厭いません。私もあなた様のように、逞しく生きたいのです」
そう言って、彼女はアリアンロッドの手を自身の下腹部に当てた。アリアンロッドはその確かな膨らみを感じた。
「!」
「新しい家族のためにも」
「ええ、必ず。みんなで、幸せになれるから……!」
一家は家屋やすべての持ち物と引き換えに、港までの馬車と御者を手に入れることにした。
その日、出立の準備は整った。夜明けと共にアリアンロッドは一家と馬車で北の港に向かう。
ただアリアンロッドには懸念があった。彼女はいつだって急に、神の気まぐれで元の世に戻されるのだから。
一家を船に乗せるところまでは自分の目で確かめておきたいが、こればかりはどうしようもない。
「エルヴィラならきっと大丈夫よね。でも馬車に乗るまでに、もう一度話しておきたいな。もう寝ちゃってるだろうし、朝になったらでいいか」
実に晴れ晴れしい気分だ。
アリアンロッドは己を通して民が神を深く信じるという事実に、感動を覚えているのだった。
まぶしい朝日が照りつける。
「あれ、ここはどこの森……? あ、エルヴィラ!」
『アリアンロッド様』
深緑の森の中、エルヴィラがちょうどひとりで歩いていた。
「あの、私、船出まで一緒にいられないかもしれないから、もう一度言わせて。私がいなくても大丈夫よね。幸せな未来を信じてね」
彼女はアリアンロッドの手を取って、目に涙をにじませた。
『はい。信じています。みんなで支え合って、温かな日々となるよう努めます。そしてこのお腹の子を生んで、もっと家族が増えていって……。いつかアリアンロッド様にそんな私の家族を、紹介させていただけますか?』
「もちろん! いつかまた会いましょう!」
『はい。いつか、また……』
◇◇
明け方、出立の時。先に馬車に乗り込んだ夫がエルヴィラに尋ねた。
「おや? アリアンロッド様は?」
「もう次の旅に出られたみたい。さっき寝室に伺ったら、いらっしゃらなかったの」
「そうか。じゃあ僕らも出よう」
エルヴィラも迷いのない表情で、家族の待つそこへ乗り込んだ。
◇◆◇
────「アンヴァル、絶対に秘密よ。聖女様って、ほんとうにお転婆さんのようでね、王陛下がひとたび気を抜くと、いつの間にか愛馬で駆けて、城下街に遊びに行ってしまわれるのですって」
第一夫人グローアはくすくすと笑う。つられてディオニソスも苦笑いを浮かべる。
この夜のアンヴァルの夢は、以前の続きだ。
「グローア様、ディオ様。聖女に選ばれた娘はみんなお転婆なのですか?」
幼いアンヴァルは無邪気な疑問を胸に、ふたりの顔を上目で覗き込む。
「……そうかもしれないわね」
聖女であろうとも、王宮に縛られる運命は変わらない。それを思い浮かべた夫人は同情の思いで伏し目がちになった。
「だから、アンヴァル。次に、王宮にいらっしゃる聖女様には、良い相談相手……良い友達になってあげてね」
「俺が、ですか?」
「ええ。ディオニソス殿下だけでは荷が重いわ。そうでしょ?」
隣のディオニソスも穏やかに相槌を打つ。
「きっと次の聖女様も外界へお出になりたがるから。そうしたらアンヴァル、あなたは絶対にそのお方を、どのような状況でも、どんなに巨体の悪漢からも、お守りしてあげてね」
アンヴァルは重要な任務を任されたような気になり、頬を赤く染めた。そして夫人はアンヴァルの耳元でこっそり、
「未来の大聖女様はきっと、あなたを誰よりも頼りにしてくださるようになるわ」
こう、柔らかな声音で囁いたのだった。
「はい……!」
ここで目覚めたアンヴァルはまだ眠そうに、頭や胸を掻いている。
彼は朝一で馬舎に向かうあいだ、「そろそろ帰ってくるだろうか……」とアリアンロッドの帰りを待ちわびた風に思い出し、ソワソワと脈を上げ、そんな自分に気付いたらブルブルッと首を振った。
馬舎に着き、それぞれを見て回り始めたところ。
「うおっ……」
足元に転がる物体に、油断の声を上げてしまった。
「なんだ……」
それは、ディオニソスの馬の大きな体を背もたれにし、干し草の上で眠りこけるアリアンロッドであった。
アンヴァルは鼻からフンッと息を抜いた。
「おい、起きろ。朝だぞ」
その頬をぺしぺしっとはたくのは起こすためで、趣味ではない。
「ん~~あれぇヴァル? もぉどうしてついてきてくれなかったの~~?」
むくりと起き上がった彼女。寝起きいちばんに詰ってくるのだった。
「相談したかったのにもぉ~~」
そしてまたもやゴロンと寝っ転がるものだから、
「……起、き、ろ。邪、魔、だ」
「うう~~ん」
ぺしぺしと頭が覚めるまではたかれ続け、アリアンロッドは覚醒した。
「あれ、ヴァル今日もご機嫌ね? また綺麗な女性がいっぱいの、ふわふわした夢でもみたの?」
「……まぁな」
「えっ!」
なんだかムッとしてしまうアリアンロッドだった。
しかし彼女は今、
「……さーてーと」
それどころではない状況にいた。
「ディオ様に会わなきゃ」
「…………?」
それはいつもアリアンロッドのありったけの元気を放出させる言葉なのに、その時の表情は侘しさや心細さといったものを映したようで、アンヴァルの胸に少し引っ掛かった。