⑤ お母様って……。
あの恐ろしい夢の夜から幾日か過ぎ、アリアンロッドも気分が多少上向きになってきた。そろそろ茶色の瓶の薬は底をつくが、シーラは大丈夫だろう。この家にいる限りは、のことであるが。
そんな頃、アリアンロッドはまた過去の夢をみる。
先日の夢の続きだ。王宮に召し出されて、母親と引き離され、もう二度と母と過ごせることはないと悟った幼い彼女は泣いて過ごしていた。
その日々に、すこぶる美しく、たおやかな女性の前に通された。女性は見たこともない清廉で荘厳な衣裳をまとっている。
アリアンロッドはその女性に、一瞬にして見とれてしまった。そこでまた、自分が女性の跡を継ぐのだと、周囲の大人たちからまた明かされた。しかしまだ7つになった頃であり、事情は分からずであったが、ぽろっと口から零れた言葉があった。
『私のお母様になってくれるのですか……?』
その女性は幼い子のために聞き取りやすい、ゆっくりとした口調で、こう答えた。
『母らしいことは、あまりできないと思うが、そなたが私を母と呼ぶのならば、私もそなたの母となるよう努めよう』
このような場面をみて、夢の世界を漂うアリアンロッドは、懐かしい思いで胸がいっぱいになるのだった。
「わぁ、お若いお母様、肌も髪も透きとおる水のように涼やかでいらして、7つの私が思わず懐くのも無理ないわ!」
夢の中の幼いアリアンロッドは、それからすぐに、侍女らのエスコートでその場から退いた。
『……ふぅ』
そこに残った大聖女は額の汗を拭うようなジェスチャーで、“やりきった”という心持ちを表す。
『あ──! 母らしいことできないなんて言っちゃった!! 冷たくなかった!? 今のゼッタイ冷たいって思われたよね!? どうしよう!』
「……お母様??」
夢の中の若い大聖女が、王陛下の袖を掴み早口でまくしたてる。
『今からでも訂正して来ようかしら? でも言ってるコトころころ変えたら、母の威厳ってものが! ここは我慢ね、慕われながらも尊敬されるには、長い目でみたら、やっぱり落ち着いた母親のほうが!』
「あれ? 何だかいつもと雰囲気が違うのだけど……??」
この情景がにわかに信じられないアリアンロッドは目を擦る。目で見ているわけではないので意味はないのだが。
『そう意識せずとも良いのではないかな。あなたはそこにおわすだけで、慕われ敬われる神の使いなのだから』
王陛下は彼女をなだめる。
『そうじゃないの! 私だって人の子よ。人として慕われたいの』
『あなたは神の子でもあるのだから。そしてこの度おいでになった聖女も、あなたと同じ稀有なお立場だ。誰よりも繋がりの深い間柄だよ、心配には及ばないさ』
二の句が継げない大聖女は、少しぷくっとした顔をして、そこを出ようとした。
『どちらに?』
『あなたも一緒に来て』
そのまま大聖女は馬舎に来た。たてがみの美しい、立派な白い馬に歩み寄る。そしてその馬に颯爽とまたがり、王城を出ていった。
「あら? お母様って、馬に乗れたのね……?」
大聖女はいつも王宮の最奥で過ごすので、アリアンロッドはその騎乗姿を見たことがなかった。
大聖女がやって来たのは大きな霊廟の前だ。例の葬儀が催された地であった。
『先代に、後継者についての報告かい?』
馬に乗った王陛下も追いついた。
『いいえ、もうそれは済ましているの』
『いつの間に』
『今日訪れたのはね。ここにアリアンロッドの母君も眠っているんですって』
王陛下は驚いて、唾を一飲みした。
『君はしきたりのことを知っていたのか?』
『以前は考えたこともなかった。新たに聖女として召された娘の家族は、邪魔になる……そりゃそうよね』
『我ら王家を……いや、私を恨むか?』
心苦しさに衣装の胸元をくしゃりと握る、そんな王陛下の問いかけに、大聖女は伏し目がちになり、首を横に振った。
『逝った人はもう戻らない。今更何を言っても仕方ない。だから今日は挨拶に来たの、あの子を生んだ女性に。ご縁をいただいたので』
大聖女は墓をじっと見つめた後、手を合わせた。
『きっと代わりに守りますから、安心してください』
幼いアリアンロッドはこのようなことを露にも知らなかった。この過去をみた現在のアリアンロッドは、矢庭に胸を熱くした。
夢はひとたび暗転した。幼いアリアンロッドが大聖女に歌唱の手ほどきを受けている。
せっかくの、大聖女直々の実技指導だが、アリアンロッドはその手厳しさに声を上げて泣いている。
『もう嫌ぁ……歌いたくないですっ!』
『泣き喚く力があるならもっと腹の底から発声するのじゃ!』
何度歌おうとも、大聖女の合格サインが出ない。その指導は抽象的、感覚的過ぎて、7つ8つの子には到底理解できるものではなかった。
『疲れたからとズルをしても分かるのじゃぞ!!』
幼いアリアンロッドには大聖女の形相が鬼のそれに見える。
『私の授けるヒントはすべて聞き入れよ。そして、すべて役立てよ。これらはそなたのためを思ってのものじゃ。私の言うことを真摯に取り込みさえすればきっと、快く歌えるようになろう』
アリアンロッドは心の中で叫んだ。「もう、歌、キライっ」と。
『歌にそなたの怠惰な姿勢が見えておるぞ。ごまかさない! 楽をしようと思わない!』
『いっ痛っ……いたい……』
腹筋をぐいっと持ち上げられたが、小さな身体のアリアンロッドはもう立っていることすらかなわなかった。
この体たらくに、厳しい顔で大聖女は問う。
『そなたは何かを掴むために、楽で容易い道を行くか、厳しく困難な道を行くか、自ら選べる時にはどちらを行く?』
『? かんたんな道……』
『安易に前者を選ぶでない。厳しくても危うくても遠回りでも、あえて困難に立ち向かう健気さに、神は力をお貸しくださる。信じるのじゃよ』
幼いアリアンロッドには意味のよく分からない話であった。
「今でも意味が分からないわ……」
そして小さいアリアンロッドが自室に戻った時、代わりに王陛下がそこに入室してきた。彼を前にすると、大聖女の表情はくるりと変わる。
『ねぇ! やっぱり私、歌の指導なんて無理よ。諸侯らにはこれだけ歌えるのだから、幼い頃からさぞ厳しい訓練を受けてきたのだろうって言われてるけど、実際は神の力に目覚めた時、歌の才能まで授かってしまっただけだもの! 私は平民の娘だったから、以前は鼻歌くらいしか歌ったことがなかったわ!!』
大聖女の歌の才能はある意味、文字通り“天性のもの”であった。
『アリアンロッド姫にお断りしなかった、あなたの自業自得だろう?』
『だってあの子に、すっごくウルウルした瞳で、“お母様に習いたい! お母様でなくては嫌!”って言われたから! それに他には何も、私に得意なことなんてないから……』
こんな夢をみている現在のアリアンロッドは、あんぐりと口を開けた。
正直この頃の大聖女は苦手だった。歌の指導は厳しいし、他に彼女と触れ合う機会はあまりなかった。生活のことを見てくれていたのは侍女で、学びを見てくれていたのは全面的にディオニソスだったのだ。
彼女は、まだ幼かったのだから仕方ないが、見えていなかったことが多くあると知った。
そのあたりでアリアンロッドは目を覚まし、朝から妹シーラと家のことをやっていた。
「アイラはどうしてるだろう……」
こんなことをシーラはつぶやいた。
「ん? アイラって?」
シーラの表情は曇る。
「私の妹よ。まだあの家にいるの……」
「えっ?」