③ 亡き母への思いを抱いて
アリアンロッドは麻布で快適な手当にありつけた。
「ありがとう、助かったわ! 旅の途中で用意もないのにあれがきて困ってたの」
「いえ、これくらいならいくらでも……。それにしても、女性がおひとりで旅、ですか?」
娘は落ち着いて眠った子どもを撫でながら、アリアンロッドの話相手になる。
「え、ええ、まぁ。それでこの町にしばらく滞在したいのだけど、泊まれるところはないかしら」
「この家の離れが、小さいけどありますから、良ければ……」
「いいの!? 嬉しい」
実際、彼らと出くわした瞬間には夜逃げでもする男女かと思ったが、ここは十分な家構えで、彼女の身なりも悪くない。なのになぜ、こうも人に対して怯えたような態度なのか。
「その子はあなたの家族? 暗いうちに川辺で何をしていたの?」
「……妹です。川でこの子の身体を洗ったりしてました……」
「あんな時間の、冷たい川の水で!?」
娘はびくっとする。アリアンロッドは驚いただけで、責めているわけではないのだが、ただ確かに、それは病にもなるわ、とは思った。
「あ、自分の名前を言ってなかったわ。私は“アリー”。これから少しの間、お世話になるわね。私が世話になる方なんだから、もっと気楽に話して」
「……私はエルヴィラ、妹はシーラ。一緒にいたのは夫でシカダよ」
エルヴィラは妹の頬を撫でながら、ふんわりした笑顔を見せた。
それから三日三晩、アリアンロッドは妹のシーラに朝夜で薬を飲ませた。初見の時には不憫なほどやつれた印象であったが、数日も経つと表情がやや明るくなったせいか、彼女は健全な雰囲気を取り戻した。エルヴィラは胸を撫でおろす。
そして妹を献身的に介抱してくれるだけでなく、家事を積極的にこなすアリアンロッドを見て、最初は薬をくれる人だからという思いで接していた面もあったのだが、信頼できる人なのではという期待が勝ってきた。しかも肉体労働まで請け負ってくれて、女性一人で旅をしているだけあり逞しい、と羨ましさも抱くのだった。
アリアンロッドはアリアンロッドで、彼女が妹のことを大切に思い、夫婦仲も良く温かい家族だと感じるのだが、ある違和感が拭えない。なので気を張りながら切り出してみた。
「ねぇ。どうしてシーラを外に出そうとしないの? 病人だからっていうのもあるだろうけど、シーラのことをひた隠しにしているようにも見えるわ。違う?」
「……いえ」
「それに、この町の人たちとの交流が、異様に少ないよね?」
アリアンロッドは時空の旅をし人々と接した経験から、平民は協力して生活を成り立たせるのが自然のなりゆきだと理解している。エルヴィラは衣料品をこしらえる仕事をしているが、彼女の夫による最低限の商業活動により、日々の食料などを得ているようだ。
「あなたが地域の人々の目を避けて暮らしている理由……聞いてはいけないかしら?」
エルヴィラは首を横に振った。
「私の父はこの地域の役人なの。1年前に上役が変わり失脚させられるというところを、地域に暮らす人々を裏切ることで自分の立場を守り通した。だから家族である私たちも目の敵にされている……」
アリアンロッドには、上役が変わったことで失脚する、という点が引っ掛かった。個人の実力を鑑みて人事がなされていないことに反発するのは、綺麗ごとだろうか。
「それと同時に、父は上役から新しい妻をあてがわれた。私たちの母は3年前に亡くなっているので、実質、新しい母になる人だと思ったのだけど、その人は最初から私たちを奴隷のように扱ったのよ」
「でもあなたは今、夫婦で暮らしているのでしょ」
「私はその後、夫をもらい、彼と共に追い出されたの。正直ほっとしたわ。いちばん私に対するあたりがひどかったから。妹たちをおいていくのは不安だったけれど……。今度は町の人との関係で窮屈な思いをしている。それでもあそこにいるよりはマシ……」
継母はそんなに酷い人なのか。特殊な環境で育ったアリアンロッドにはそのような光景がリアルに浮かんでこなかった。
「でも私だけ逃げて罰が当たったのね。先日、前に良くしてくれていた下男が、シーラがいなくなったと報告に来て、3人で探して、見つかった場所は……廃棄場だった」
「え?」
「生活ごみの山に埋もれていたの」
「なんでそんなことに……」
「分からない……」
そして夜が明ける前に妹の身体を洗うため、川に来ていた。妹の居場所が露見したら連れ戻されるかもしれないので、今は隠しているということだった。
「これからどう暮らしていけばいいのか分からない。父には何も期待できない。家屋と衣服は持っていても、ただそれだけ……」
エルヴィラは暗然とする。
「この頃は殊更に母を思い出すわ。母上に会いたい……どうして私たちをおいて、死んでしまったの……」
「母君は、ご病気で?」
「そう。長く患っていたので、突然失うよりは覚悟ができていたけれど、あの経験だけはきっと生涯でいちばん、苦しく哀しい出来事のひとつだと……」
「私も実母を亡くしているの。私が7つ……くらいの時」
エルヴィラはアリアンロッドを見つめて、言葉を口にしなかった。
「母は、お仕事があると声をかけられて、離ればなれになってしまって」
それはアリアンロッドの胸に聖痕が現れ、母と共に王宮へ召された時のことだった。
「そのうちに、周囲の大人たちに突然、母はもういないって聞かされて……。覚悟も何も……」
「ああ、ごめんなさい。私、無神経なことを」
「ううん。逝ってしまうのを目の当たりにしたほうが苦しいのかもしれない。でも別れ方がどうであれ、恋しくて仕方ないわよね」
「ええ。いくつになっても母は恋しいの。私の母なんて今わの際まで、母様、母様、と呼びかけていた。子を生んで自分が母親になっても、最後に求めるのは母なのね」
エルヴィラは眠る妹の頬を優しく撫でながら、そう話した。