① この秘密をあなたに授けましょう
ある晴れの夜、軍事訓練を終えたアンヴァルは、身も心もよほどクタクタだったのか、自室に戻るや否や、窓際に寄せたベッドに倒れ込むようにして入眠した。
彼が寝返りを打つと、窓から差し込む錫色の月光が、頬を優しく撫でて労り、彼を安らかな夢の世界へと誘う。
────『グローア様、本日もごきげん、うるわしく……』
小さなアンヴァルが貴婦人の前で片膝をつき、敬礼している。
これは彼が齢8つの頃の、懐かしい思い出の夢だ。ディオニソスに連れられて、現王の第一夫人・グローアに対面するのは3度目といった頃。
『アンヴァル、気楽にしていいんだよ』
『そうよ。もっと近くにいらっしゃい、アンヴァル』
ディオニソスは時折、実母に顔を見せに王宮の外の邸宅を訪ねるのだが、夫人は小姓のアンヴァルを気に入って、両親を持たない彼に、我が子のように接したいといった心持ちでいた。
夫人の慈愛あふれる眼差しやふれあいに、生まれついた境遇によってやさぐれていたアンヴァルは、その心を軟化させ、徐々に微かな憧憬を覚えるようになった。
夫人を取り巻く侍女らが詩を読み、楽器を奏でる、女性のみのまろやかな空間にアンヴァルの気分も華やぐ。
そこで彼は夫人の顔色をちらりとのぞき見た。
『グローア様、何か良いことがおありでしたか?』
この無邪気な問いかけに夫人は目を丸くしたので、侍女らが代わっておしゃべりに花を咲かせる。
『あら、坊やは鋭いのね』
『昨夜は王陛下のお渡りがございましたのよ』
『それで本日のお母様は上機嫌でいらっしゃるのですね』
『いいえ、ディオニソス。私はこれでも困ってるのよ。あなたのお父様ってば……』
それでも彼女は笑顔で、アンヴァルにはたいそう幸せそうに見えた。
『話してはいけない秘密を、私にまで抱えさせるのだから』
8歳のアンヴァルにはよく分からない事情があるようだが、お仕えする美しい女性が困っているというので何か手を差し伸べないと、と考えた。
『では、抱えてるものはすべて俺がお持ちします!』
小さな従者が張り切って物を申す様子に、侍女らは和やかに微笑んだ。
グローアは再び、大きな目を見開いたが。
『そう? じゃあヴァル、王宮では絶対、秘密よ? ……あのね』
耳打ちしてくる夫人の柔らかな声に、アンヴァルは照れくささで身を縮こませた。
『聖女さまがね、相も変わらずのお転婆姫で……気を抜くといつも王宮から愛馬で抜け出されてしまうのですって』
そのうちに目が覚めた。ぽりぽりと無意識に頬を掻く。花香の漂う女性の園の夢をみて、そろそろ19にもなるという現在のアンヴァルは、少々居たたまれない心地での目覚めとなった。
「おはよう! ヴァル!」
アンヴァルが射場にて、朝の鍛錬として弓を引いていると、そこに上機嫌のアリアンロッドがやってきた。
「今日の矢さばきも光ってるわね。なにかご機嫌なことがあったのかしら? といっても朝だから、分かった。ディオ様が夢に出てきて褒められたとか!」
一方的に喋り続ける彼女に、アンヴァルは苦虫を嚙み潰したような顔つきだ。
「あ、その顔は図星ね。どうして分かったか教えてあげる! 実は昨晩、私の夢にもディオ様が出てきたから、素敵な夢仲間のシンパシーというものよ」
アンヴァルはそそくさと帰り支度を始める。
「私のはどんな夢だったか聞きたい? 聞きたい??」
「そんな猥談、朝っぱらから聞きたくない」
「わいだん……? って、なによそれ!」
わいだんって、なによ、なんなのよ……! と独り言ち、アリアンロッドはそこを出て行こうとする彼を追いかけた。
「ねぇ、そろそろ薬師マクリールのところに遊び……買い物に行きたいわ」
「まだ外出禁止が解かれていないだろう?」
「夢の中のディオ様がどこへでも遊びに行っていいって言ったから、行きましょう!」
そんな都合のいい夢を見られるのか……とアンヴァルは青色の溜め息をこぼした。
一方的な雑談に興じるアリアンロッドが、黙りこくるアンヴァルに付いていくと、そこは上級騎士用の馬舎だった。10頭ほどの馬がそこにいる。
「わぁ!」
アリアンロッドはその毛並みの良い馬たちに、興奮気味に飛び込んでいく。
「ねぇ、次の遠出は馬で行きたい。王宮内での乗馬は遊びだから、遠乗りに挑戦したいわ」
「お前は外に出させてもらえるだけでも異例の事態だぞ?」
「馬車と違って退屈しなくて済むでしょ。ヴァルの馬はどの子?」
きょろきょろと馬舎内を見渡すアリアンロッドに、そばの馬を撫でながらアンヴァルは答えた。
「俺は調子を見てどいつも使うけど、この馬はディオ様専用だ。しかしあの方こそ、なかなか外へ出掛けられないからあまり使われない」
「そうなの? ディオ様に乗ってもらえないの? 仲間だね……」
「おい……」
「ん?」
アリアンロッドは“彼につれなくされる仲間だ”と言ったつもりのようだが、アンヴァルにはどう聞こえたのだろう。
「じゃあこの子を借りていこう。それにしても、自分の馬っていいな。特別に仲良くなれば、もっとうまく乗りこなせそうよね」
「……馬……?」
「どうしたの、ヴァル? ねぇ、乗っていきたいよ」
「あ、ああ。自分でディオ様から許可取ってこい」
アンヴァルはアリアンロッドが欲しがるものを、ずっと知りたかった。アリアンロッドを見送ってから、彼はまた思案に暮れる。
その足でアリアンロッドはディオニソスの元へ行き、
「お出掛け……もとい、視察に行きたいわ!」
と駄々をこねた。
しかし彼女はこの国にとって、何よりも大切な宝というべき存在であり、王太子としては安易にその要求を聞き入れることはできない。
「ディオ様、あなたは国がどうとか、もっともらしいことを言うけれど……」
「アリア?」
アリアンロッドがいつになく悪い顔になっている。彼を相手に、舌戦でアドバンテージを取る意欲に満ちている。
「私が外出先でヴァルと何かやましいことしてたって、あなたが勘違いして外出禁止を言い渡してから、もう半年よね?」
「なっ、勘違い……?」
「勘違いよ!」
ディオニソスがたじろぐ。アリアンロッドはここぞと見計らい、溜め込んでいたモヤモヤを噴き出すのだった。
「もしかしてディオ様って、意外とヤキモチ焼きなのかしらぁ―。私を受け入れる気はないくせに、他の男の人とくっついてたら目くじら立てちゃう、狭量な王子様だったりするのぉ──? ……んっ? あっ、にゃんっ」
アリアンロッドは首根っこを掴まれて、ぺいっと外に放り出された。猫のように。
「ちょ、ちょっと、ディオ様、今の物言いはちょっと魔が差しました! 絶対あなたも国も裏切るようなことしませんから! 今回の外出も国の未来のためを思ってのことですから!!」
足早に戻ってきたアリアンロッドに、彼は話題転換して問う。
「アリア、例の和議交渉でこちらの求めた港譲渡が、隣国の王、ユングの認可を得られたようだ。これで良かったのだな?」
「ああ、うん……」
アリアンロッドがディオニソスに追放されて、不覚のうちに他国の土地に吹き飛ばされた、初めての神隠しから、1年の時が過ぎ去ろうとしている。
その和議の場で、なぜかこちらの要求は、国宝を献上する代わりに隣国の貿易の要のひとつ、北方の港を頂くということになっていた。
(なんであの場で要求するものが港なんだろう。まだ釈然としないわ……)
「国内情勢が落ち着き、積極外交に舵を切るようになれば、港ももちろん重要だ。ただ現状では、近隣の土地資源の方が、と思うが……、君の決定がすべてだからな」
「それでいい。そもそも和議は行われないんだから、手に入るかどうかも分からないものだし……」
和議交渉も最後の詰めといった頃合いだ。ディオニソスは最後の書状を送ると言った。