⑤ 今夜一晩、彼女を買って
人々が農作業を進める田園を抜けたふたりが、目の当たりにしたのは、活気のある市民の街の風景だった。
老若男女が慌ただしく行きかい、立ち並ぶテントでは商売人と買い物客が商品を手に、親し気に言葉を交わしている。
アリアンロッドの感覚では、城下と比べてやはり田舎町だ。しかし先代王は見るものすべてが懐かしいといったふうで、目を細め眺めている。
しばらく歩いていったら、ずいぶん大きな人だかりができているのに、ふたりは気が付いた。
どうやらこの青空の下、ステージで歌劇が始まったところのようだ。集まる人々をかき分け前に行くと、木の舞台の上で華やかな衣装に身を包んだ娘たちが歌い、踊っている。
その中心にいて、ひときわ目立つ綺麗な乙女をアリアンロッドはじっと見つめた。あの子、見たことがあるような……、と。
「あっ!」
「どうしたんだね?」
先代王も周りの人々もアリアンロッドに注目した。
「いえ、なんでもないです。すみません……」
アリアンロッドはあの真ん中の特別に華やかな娘は、先日紹介された歌姫だと認識した。しかし、先日より若干雰囲気が初々しく、もしかしたら彼女の数年前の姿かもしれない、と感じた。
その娘の歌う詞は、家族の愛を綴ったものであった。
「すてき。彼女の家は愛であふれているのね……」
アリアンロッドが胸をじわり温かくしたその時、隣で嗚咽が聞こえ、ふと見上げると、先代王がはばからず大粒の涙をこぼしている。
「お、王様?」
「あ、ああ、すまない……」
彼は涙を拭いながら、
「なんて美しい歌声なのだろう。心が洗われるようだ」
こう言葉を続けた。
「あの少女に花を贈りたい。できるだけ大きな花束を」
「えっと、近くに花売りはいるかしら」
「いや、私は手持ちがない。野花を摘んでくるとしよう。悪いがここで待っていただきたい」
「え?」
アリアンロッドは彼の言動に即座に反応できなかった。その間に彼は情熱を機動力にして、不自由な足を引きずり行ってしまった。
「大丈夫かしら……。まぁ足が不自由とはいえ、いい大人だものね」
自分は少し辺りで聞き込みをするべく、場を離れた。
先代王は近所で野花を摘んで束を作り、歌姫たちが控えている場に向かった。
舞台から少し離れた小屋の陰にて目当ての歌姫を見つけ、話しかけようとしたが、彼女は他の娘たちの噂話を立ち聞きしている様子だった。
彼は、無関係の自分が聞き耳を立てるのは……とためらったが、聴力は失った視力の代わりにかなりのもので図らずも聞こえてきてしまい──
「ローズは今夜また、クラール男爵のところに呼ばれるんだってね?」
「あの男爵は羽振りがいいのよねぇ。どうやって取り入ったのかしら」
ここでひとりの娘が悪意を滲ませ、せせら笑う。
「あら、どんなに報酬をいただけたとしても、あの方のイカれた“癖”には付き合いきれないわ」
「そうよね。あの子、実は同じ嗜癖があって悦んでたりしてね」
そこで、噂の本人である彼女は遠慮するそぶりなく登場した。
「なぁに? 負け惜しみ?」
投げつけられた強気な声音に、会話に黒い花を咲かせていた娘たちは、一斉に彼女を睨む。
「財力のある男に求められた女の勝ちよ。悔しかったらあなたたちも努力なさい」
そう言い捨て、彼女は立ち去った。
先代王は誰にも見つからない様に、足を引きずりながらも彼女の後を追う。
その先で、彼女が声を殺して泣いているのを見つけたのだった。
その後、先代王は元居たところに戻り、アリアンロッドを見つける。彼女は聞き込みで疲れ、道端にぼんやりと座っていた。
「あ、王様!」
アリアンロッドの目に映った彼は、花の束を手にしている。渡せなかったのかな、と思った。
「金貨が欲しい」
「え?」
彼は深刻な様子だ。
「残念だが、彼女を喜ばせるものは、花でなく金貨のようだ」
「え、えっと……金貨なら少しはあるけど……」
そう言ってアリアンロッドは、懐から貨幣の入った袋を取り出した。
いつもは持ち歩いてなどいないものだが、この度は夕方からディオニソスと出かける予定だったので、朝から小遣いを張り切って忍ばせていたのだ。
「! 頼む! 必ず後日返すから、貸してくれないか!」
「え、ま、まぁ、いいですけど……」
一応、今晩必要な寝床と食料は確保済みだった。
歌劇団目当てでやってくる観光客用の貸家を、アリアンロッドの着けていた髪飾りを賃料にしてしばらく借りることにしていた。
髪飾りの価値の高さゆえに当面滞在費には困らないので、硬貨の袋をそのまま彼に手渡して、こう尋ねる。
「何に使うんですか?」
「少女を一晩買う」
「えっ、ええ──!?」
またもや先代王は、あんぐりと口を開けているアリアンロッドを放って、すごい勢いで行ってしまった。
先代王は今、歌劇団の応接間に来ている。団長と副団長は彼の身なりを見て、供の者は連れていないが、相当の地位を有する人物だと見立てた。
これであの歌姫を今夜買いたいと、金貨の袋を差し出した彼に、副団長は。
「今夜の彼女には先客がいるのですよ」
その額を見て、もっと取れるのではないかと考えたが、団長はそれで了承した。
お客を案内係に任せた後、副長は団長に小声で文句を言った。それでは実際、先方の出す額のが多い、と。それに対して、
「まぁまぁ。多いといっても少しだけだし、新しくいらしたあちらのお方が固定客になってくださったら、これからにとっていいのではないかな」
こう団長はなだめた。副長は「確かに」としぶしぶ従い、先方の説得に行った。
その晩、先代王は歌姫ローズの寝室に通された。
彼は驚く。彼が座り込むなり早速、歌姫は衣装を脱ごうとしたからだ。
「あ、いや。決して私はそんなつもりでは……」
はだけた彼女の肩の布地を、肌を隠すように上げた。
「?」
「今夜はよく休むといい」
「私、まだ眠るつもりはありませんが?」
歌姫はどうも不機嫌のようだ。初客に対する態度が硬い。そんな彼女に向かい先代王は、
「なら、夜語りに付き合ってくれるかい?」
この言葉に次いで慈悲深い微笑みを見せた。
彼女は、何を言っているんだろうこの人は、と冷ややかな視線を返した。
「ああ。もしかして、あまりお身体の具合がよろしくないのでしょうか?」
なにせ相手は見るからに老体であり、歌姫は申し訳なさそうに尋ねた。
「それでしたら、私にすべてお任せくださいませ」
と、彼の胸元に手を差し伸べ、手際よく脱がし始める。しかしそれも即座に止められた。
「なんなのです……?」
彼女は困惑した。このように焦らしてくる客に会ったことがなく、どうせ後で豹変するのだろうと、余計に不信感を募らせている。
「私も自分自身がふしぎなのだが……君のことを知りたくなったんだ。差し支えなければ、君の話を聞かせてくれるかな」
「私の話? 不幸な身の上話が聞きたいと?」
「いいや、君の幸せな話がいい。そうだ、初めての恋の思い出なんかどうだろう?」
「あなた、変なお客様ね。ご満足いただけなくても、返金いたしませんわよ?」
口の端がかすかにほころんでいる。ローズはほんの少し心の扉を開いたようだ。