⑧ 信じるよ
やがて馬車は城に着いた。
医師がすぐにアンヴァルを診察をし、3日後に手術をすると宣言した。
手術前夜、宮殿を漫歩するディオニソスの目に、聖堂にて祈りを捧げるアリアンロッドが飛び込んでくる。
夜の祭壇前は天窓から月光が降り注ぎ、光の空間を漂う粒子に包まれるアリアンロッドの姿は、彼の瞳になおさら美しくきらめいていた。
「帰ってから一度も、アンヴァルと顔を合わせていないと聞いたよ」
「ディオ様! ……それは、また面会謝絶なんて言われたら、いくら私でも傷付くから」
「それだけか?」
「…………」
昨晩、アリアンロッドは医師から告げられた。
医師はそこに患者がいれば治療を施さないわけにはいかない。しかし医術は確実ではなく、高難易度の手術を受けるか否かは、本人の選択であると。
「私はヴァルが歩けるようになると知ってる。ヴァルだって知ってる。でも今、彼には手術を受けるか受けないか、ふたつの選択肢がある。手術が失敗する可能性。何もしない方が案外良い結果になる可能性。それらがないわけではない上で、ヴァル自身が選択する」
ひたむきな眼差しで不死鳥の彫像を見つめていたアリアンロッドが、彼を振り向き穏やかな微笑みを見せた。
「だから私はそれまで、顔も口も出さない方がいいかなって」
ディオニソスは、彼はきっと手術を受けるだろう、と思ったが口にはしなかった。
ふたりはその場でしばらく祈りを捧げるのだった。
翌朝準備が整い、医師はアンヴァルの前に立ち、宣告する。
「私は私の腕にそれなりの自信がある。しかしこれまでにも話したが、必ず成功する手術などない。私の予測では、この手術を100人が受けたら1人は死ぬ。そして9人は治らず変わらず。つまり10人に1人は失敗に終わるということだ」
寝床から離れられず、ここずっと憔悴して過ごしていたアンヴァルは、静かにそれを聞いていた。
「成功を信じて、激痛に耐えるか? それとも引き返すか。これが最後の確認だ」
しばらくの沈黙の後、彼は医師の目をまっすぐに見て言い放つ。
「師、あんたはアリアンロッドが信頼して連れてきた、国随一の医師なんだろ?」
「いかにも」
「お願いします。どんな痛みにも耐えるし、たとえ死んでも化けて出たりはしないよ」
その夕方、医師は王宮の広い庭で散歩をしていた。さすが贅の限りを尽くした権力者の城だと、彼女は感心し、また複雑な思いを抱いている。
そこに、彼女を探して走り回っていたアリアンロッドが全力で跳び込んできた。
「今、聞いて、きました。手術が、うまく、いったって」
息を切らし、なんとか話す。伝えたい気持ちが溢れて止まらないらしい。
「これでヴァルはまた歩けるのね。歩くだけじゃなくて、走り回って、跳び回って、今までどおり仕事ができるのね!」
今にも泣き出しそうな彼女に医師は釘を刺さんとする。
「いや、まだこれからだ。しばらく私の指示を漏らすことなく聞き、回復に努めてこそだ。本人のこれからの努力にかかっている」
アリアンロッドは膝をついて、頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に、本当に、ありがとうございます!!」
「…………」
ここで医師も同じく膝をつき、そんな腰の低い彼女の両肩を持ち上げる。
「頭をお上げください、アリアンロッド様」
アリアンロッドの目には大粒の涙が浮かび、紫の瞳がいつもより輝いていた。
「あなたはこの国の姫君だったのですね。知らなかったとはいえ、数々の無礼を……。どうかお許しいただきたい」
深々と頭を下げる医師。
しかしアリアンロッドには謝罪の言葉よりも、彼女からは、もっと欲しいものがある。
「そんなふうに改めないで。それでは私の中の師じゃないわ。そして私が頭を下げるのは、もうひとつ理由があります」
「?」
アリアンロッドは固唾を呑んだ。
「お願いがあるんです。あなたの医術を、この国の者に教示してください」
馬車の中でずっと考えていた、と彼女は前置きし言葉を続ける。その真摯な眼差しに圧倒され、医師は静かに彼女の言葉を聞く。
「医学に高い志の持てる者を探し、用意します。それをあなたの弟子として受け入れてください。あなたの知識を、技術を、この国の民のために分け与えてください」
医師は今の生活を気に入っている。それを変えるのが大きな負担になることはアリアンロッドでも想像がつく。
しかし、命令されたという理由ではなく、心からこの要求を受け入れて欲しいのだ。それはアリアンロッドの、最上級の我が儘。
その思いを直球で投げつけられた医師は、まず長い溜め息をついたが、ついにはこう答えた。
「仕方ないな。私ももうこの国に長く住まわせてもらっている。このような容姿でも既にこの国の民のひとりだ。姫君の申し出が断れるわけないだろう」
「じゃあ!」
「私はあと7日で自宅に戻る。それまでに将来有望な人材を用意されよ」
「はい!」
アリアンロッドの返事は軽やかに庭園に響いた。
「時に、患者とは面会されたのか?」
「まだよ。術後はずっと寝てるって聞いたし、明日にでもお見舞いに行くわ」
「まだしばらく寝床からは離れられない。気分が塞ぎこみやすい時期だ、励ましてあげるといい。……姫君御自ら下の世話でもしてやったらいかがか?」
医師は急ににやりとする。
「ええ、ヴァルが望むのなら、下のお世話だってなんだって!」
「あぁ、うん……」
“しまった、あまりに働かせすぎて姫君ともあろうお方が介護も厭わなくなってしまった……”と医師は心の中で反省した。
翌日、アリアンロッドは極めて明るく努め、彼の寝室の扉をくぐった。
「ヴァル、お見舞いに来たわ!」
「あ、ああ……」
宮廷の特別救護室で手厚く保護されている彼のベッド脇に座り、アリアンロッドはしばらく無言になる。それからカクカク動きながらグラスに水を注いだり、焼き菓子を差し出したり、妙な挙動を見せていた。
「……なんだ?」
アリアンロッドも久しぶりに彼に会えて緊張している、という事実はアンヴァルには見当つかないようだ。
「いやもう本当に久しぶりね」
「あの日から1週間しかたってないが」
「あの日から一月たってます……」
「ああ。らしいな」
今後のことを殿下を交えて相談しよう、という話にはなったが、やはりそれももう少し彼が回復してからということで、今は置いておいて。となると話題に詰まり、若干たどたどしい空気が流れた。
「あ、あのさ」
そこを仕切り直そうとしたのはアンヴァルだった。
「お前さ、なんか欲しいものないか?」
「欲しいもの?」
彼はなんとなく目が泳いでいる。
「お前が医師を連れてくるのに、3週間そこで下働きしたって聞いたから……その返礼というか……貸しを作ったままじゃ、俺としては……」
「ああ、全然。気にしないで。あの労働の対価は……ディオ様にもらっちゃったしっ」
妙なはりつき笑顔でモゾモゾ身体を揺するアリアンロッドに、アンヴァルの心はサーッと枯れ野原に飛ばされ、その夕焼け空にはカラス鳴く。
「おい……お前、殿下に何したんだよ」
「それ男と女が逆! ディオ様のほうからくれたんだから!」
「何を?」
「ふふん。それは秘密」
へらへらとにやけるアリアンロッドに、もやもやが止まらないアンヴァルだった。
「まぁでも、なんでもいいから考えておいてくれ……」
「……。うん、考えておくね」