⑦ はじめての??
通常、至極、冷静沈着なディオニソスが声を張り上げ、感情をあらわにしたその時、扉が開く音が彼の言葉尻をかき消した。
「どうしたの? ディオ様? 大きな声が聞こえたのだけど……」
「アリア……」
ディオニソスは慌てて彼女に駆け寄った。
まず彼女の手を取り、どこも異常はないか確認する。彼の手が指が、少し震えていることにアリアンロッドは気付いた。
「何度か滑ったり転んだりして、少し怪我してしまったのだけど、全然平気」
顔も衣服も、泥まみれの彼女は、まず医師に歩み寄り、報告を始めた。
「あの、ごめんなさい……。ヨモギは取って来られなかった。見つけられなくて」
医師はまだ黙ったままでいる。
「ちゃんと言われた通り、北に7千歩行ったの。信じて? でもそこに生い茂っていたのは、ヨモギみたいな……ヨモギではない草」
「ほう?」
「そっくりだったけど、なんだか違って。ヨモギのあの独特な匂いもなかったし、なにより異様なオーラを感じて、近付くのも怖くて……。よく見たら毒々しい色の花も付いてたわ、とてもきれいだったけれど。ヨモギの花はもっと、小さくて目立たないものね」
「“トリカブト”にはまったく触れていないのだな?」
ディオニソスがいまだ焦りを顔に浮かべたまま、確認した。
「あれは“トリカブト”っていうの? うん。たくさん茂っていたからそこから先へは進めなかった。もしかしたらヨモギはその先にあったのかもしれないけど……、今回のお遣いは、失敗……」
アリアンロッドは、お遣いもできないのかと自分に落胆するが、次のチャンスを願うしかない。
「これ、道中で拾ったの。どうぞ」
そう本来ヨモギが入るはずだった籠を渡した。
「……栗?」
「たくさん落ちてたから。栗の花の言葉は“贅沢”なのよ! あ、知ってる? 国の乙女たちがね、それぞれの花にいくつかの言葉を当てはめて、それを──」
侍女が教えてくれた花言葉を覚えていたので、他の花ではなく栗を選んだのだ。なぜなら人は“贅沢”が好きだから、というアリアンロッドのちょっとしたシャレであった。
「この花の言葉は、“合格”、だ」
「え?」
「今、私が考えた! 私も流行りの先端を行く乙女だからな」
医師は大きな口を横に開いて白い歯を見せた。
「さぁ、王都へ出向く準備をしようか。翌朝早くに出発だ」
「……でも、私、お遣いをちゃんと果たせてないけど……」
「ヨモギを取ってくることが、遣いをしかと果たすことだとは、私は一言も言ってないぞ」
「へ??」
「これは山道を1万4千歩散歩して土産を持って帰ってくる、という遣いだ」
アリアンロッドはきょとんとする。
「行かないのか? 永遠にここで下働きをしていても構わないが」
「! 行きます!!」
アリアンロッドは喜色満面で、ディオニソスに抱きついた。
すると彼は、医師が明後日の方を見ているうちに、ほんの瞬く間。
その唇でアリアンロッドの唇をついばんだ。
「……?」
(何が起こった、の……?)
そうは言ってもちゃんと分かっている。先日のタツノオトシゴとは感触が天と地の差だ。今回はこのぷっくり唇に、隕石衝突ほどの衝撃だ。
「びゃ゛っ…ゃぁあ゛あ゛あ?」
数十秒遅れで人間離れした声を上げた。
「?」
医師はアリアンロッドの叫びに気付いて振り向いたが、ふたりの雰囲気が生温くなっていただけだった。
「私からの“合格”祝いだ。この3週間、よく頑張ったな」
と温かな声音で囁いたら、ディオニソスは自身の唇に付いた砂を払い落す。
「さぁ、帰る支度をするとしよう。その前に、君は顔も身体も洗ってこないとな」
「は、はいっ……」
耳たぶまで真っ赤にしたアリアンロッドは指先で唇をちょんと押さえながら、井戸に慌てて駆けていった。
しかしそこで、唇の砂を落とすことができず、夕ご飯は少し砂の味がしたらしい。
翌朝、3人は山を下り、そこからはディオニソスの采配で馬車とその順路を用意した。
4日間の車中旅が始まる────アリアンロッドは車内でディオニソスの隣に並んで、例のあれを思い出しまだモゾモゾしていた。
「アリア」
「ひゃっ。な、なんでしょ?」
手が触れただけで彼女は赤面して後ずさる。ディオニソスもこの態度には困ってしまう。
「何か会話をしようか。君が黙っていては退屈だよ」
「あ、じゃあ。師、あなたの出身は? どうしてこの国にやってきたの?」
「それはな……、では子どもの時代から話そうか」
彼女は東方の国に生まれついた。
一族はみな医療従事者で、彼女の祖父はその頭領であった。彼女も物心ついた頃から家族を手伝い、そしていっぱしの医療者として従事するようになる。
一族の名はよく知れ渡り、その地域の民に重宝されていたのである。
あるとき、評判を聞いた王族が彼女の一族、とりわけ祖父や父に、とある命令を下した。それは下々の民の、命や尊厳を無下に扱うことと同意のものであった。
もちろん彼らは反抗し、ついには捕らえられてしまう。一族の女性たちはその地から逃れることを余儀なくされた。
「家族は近隣国に根付いたが、私は旅も案外悪くないと更に足を伸ばし、この国に流れ着いた」
「大変だったのね……」
「その過去から、どうしても身分の高い者を疎んでしまう。すべてが私の父や祖父を捕らえた、非道な者と同じであるわけないのに。悪かったな」
彼女はその医術に重きを置いてないというようなことを言ってはいたが、町を周って診療しているのは、それが幼少の頃家族といた、自然な風景なのだろうとアリアンロッドは想像した。
その車内で彼女はもっと、医師の故郷の話を聞きたがった。
1日目に宿泊した王家のマナーハウスで、寝床に就く前、ディオニソスは、“ふたりして2泊の忍び旅行に出掛けた”という旨の書簡を秘書に送ったことを、アリアンロッドに話した。
「ちょうど私たちがいなくて騒ぎになりだす頃に連絡が着くのね。私たちの過ごした3週間は、みんなには存在しない時間……ふしぎ! でも良かった。ヴァルの不安な時が、少しでも短くあって欲しかったから」
「そうだな。しかし師の医術をもってしても完治するかは、まだ……」
「それは信じる! 師を信じるわ。……あ!」
アリアンロッドは大きな声を上げた。
「そうだ。ヴァルは、1年後のヴァルは、ちゃんと歩いてた。兵士として……というのは見ていないけど、きっと大丈夫!」
「それは君の予言かい?」
「そう。これは確実。信じていいわよ。あぁもう私ってば、未来を視てきたじゃないの。慌ててて完全に抜け落ちてたっ」
ガクリと脱力する。そんな彼女をディオニソスは目を細めて見つめている。
「ヴァルも知ってるから大丈夫かな。でも動けなくて焦りはあるだろうし、すごく不自由だし……。一刻も早く師を届けたい──……」
アリアンロッドの心の目で見るその夜の月は、慈愛に満ちた、穏やかな輝きを放っていた。