⑭ 女神に恋こがれる本能
イナンナが会話を経て、素の笑顔を見せてくれた。
(これはもう、あと一押しじゃない? うーん、でも、ちょっと待って?)
アリアンロッドは侍女たちの、とある閑話を思い出す。
どういう流れでか覚えはないが、侍女の一人が言ったには、人との関係は「押してダメなら引いてみろ」。
アリアンロッドが割り込んで解説を求めたら、まず積極的に頼みごとをして、次に「やっぱりもういいです」と引き下がると案外聞いてもらえる、ということを、もっともらしく話されたのだ。
アリアンロッドの“心の世渡り手帳”に記されている文言のひとつである。
「あなたに川へ落とされた時……」
「急になによ、恨み言?」
「それを言いたいのもやまやまだけど。うっすらと聴こえたの、両親のことが嫌いだと」
アリアンロッドは「押して引く」を実践するため、いったん話題を変え、イナンナの話を聞くことにした。
もう少し彼女の真意を引き出したいとも思ってのことだ。
「それは王陛下が、実の娘なのに過酷な任務を課して国外に出すことを許したから? 母君が幼いあなたに修行を強要したから?」
「母には出生時から愛してもらえてなかったの。人が生まれて最初に受け取るはずの愛情をもらえなくて、愛がいったいなんなのか、どういうものなのか……知らないのよ」
彼女の母は由緒ある侯爵家の出で、社交界では類まれなる美貌を誉めそやされていた。気位の高い令嬢ではあったが幼少から今の王に恋心を抱き、そのいちばんの寵姫になることを夢みていた。
大勢の夫人候補はみな大所帯の離宮で過ごすが、鳴り物入りで現王に嫁いだ彼女は端から個別の邸宅を与えられる。
しかし、もうひとり同じように自邸を与えられた女性がいた。その姫が王太子を生み、第一夫人となった。
「母は第一夫人よりも愛されたくて仕方なかった。だから男児を生みたくて、でも叶わなくて、私をせめて使えるスパイに育て上げようと躍起になったの。そんな母親、慕えると思って?」
「それは……」
「王も嫉妬深い妻には愛想を尽かし、そのうち彼女を顧みなくなって……」
「でもあなたという存在が、両親の愛の証でしょう?」
「愛なんてなくても子は生まれるわ。だいたい宮廷には、“男王と聖女の抗えない運命”という、視えざる呪いの力が存在するのだから、それ以前の話よ」
イナンナは諦めたような、遠い目をする。
「運命? 呪い?」
「そうよ」
ここで彼女は何やら含んだ薄笑みを見せた。
「歴代の王はどうしても手に入れることのできない聖女を狂おしく欲してしまうの。抗えない血、骨、肉。女神と一体化したい本能というもの」
「ええ……?」
その語りにアリアンロッドは訝しむ。
「そんな……ディオ様にそのような願望なんて……」
あったらいいのにと、希うけれど。
「だから離宮の女の位が1だの2だの言っても詮ないことよ。聖女を抱けない王にとって他の女はただの代用品。そんなこと、時の最高権力者、王の前では些細なことだわ。でもその娘として、あんな母親でも……やっぱり母だから、そういう父を心が拒むのはどうしようもない」
彼女の遺恨は思った以上に根が深かった。
「じゃあ私が嫌いなのはやっぱり、妹みたいなつもりになって、あなたのお兄様と過ごしているから?」
「まぁ甘やかされて、何も知らずにぬくぬく過ごしてるってことは想像つくしね。でも兄に対してこれといった情はないわ」
「私だって、鍛錬で毎日吐いてた時期もあったけど!」
なんて言ってるあたりが甘いのだ、というイナンナの顔。こちらはわりと単純な話だった。
「どちらかというと、あなたよりアンヴァルに対して複雑な思いがあるわ」
「ヴァル?」
「子どもの頃、アンヴァルと私はいつも仕合ってた……。国のために良い仕事ができる大人になろうって。あの頃は互角の勝負で、鍛錬はきついけれど楽しくもあった。でもそのうちに知っていくの。彼は表に立って、日の当たるところで仕事をする人。なのに私は……。実力差があるとも思わない、男と女っていう違いだけ。アンヴァルが妬ましい。だから聖女を守れず、すごすごと国へ帰り処刑されるがいいって思ってた」
そこまで聞いたアリアンロッドは、「あぁ、これはもう宜しくない因縁だらけのところに帰ろうだなんて、説得できる希望が持てない……」と実感し、しょんぼり項垂れた。
そこは閉ざされた空間で、埃くささに少しむせる。アリアンロッドは新鮮な空気を吸おうと窓際に向かった。
そんな彼女にイナンナが背後から尋ねる。
「どうして窓からなんて馬鹿げたことを? 落下の記憶も鮮やかでしょうに」
「ええぇ……?」
率直に馬鹿と言われ、アリアンロッドは苦笑いだ。落下はあなたが実行犯でしょと言ってやりたい。
「だって扉は見張りがいるか、鍵がかかってると思って」
「見張りなんかいないわ」
イナンナは這って扉の前に移動し、少し重い扉を押し出した。
「ほら、誰もいないし鍵もかかっていない」
それにはまったく拍子抜けなアリアンロッドだった。
「私は自力で脱出できないし、外から侵入者が来てもついていかない。ヒルディス様はそれを分かっているから人員を見張りに割く必要もないの」
「じゃあ鍵は?」
「この邸への扉にはふたつ、ここはひとつの錠前が付いているけど、ここのは説明した通り特別なタイプだから。みんな使い慣れなくて使用を控えているわ」
「まぁ大自然に守られた別荘だもんね。侵入者も現れやしないか」
「でも人によるというか、兵や侍女の中には施錠しないと気が済まない、という者もいてね。それでたまに面倒も起こるのよ」
イナンナがアリアンロッドに、扉から向こうを覗き込むよう促した。
「あちらの欄間から、薄明かりが見えるでしょう? ヒルディス様が侍女を集めて楽しんでいるから見張りなんて誰もしない。いつでも堂々と戻れるわ」
言いながらイナンナは書棚にもたれた。
アリアンロッドは、暗に早く出ていけということかと、しゅんとなりつつも、まだまだ粘る心意気だ。
「よく見えないけど、ここにはかなりの本があるのね」
手触りで確認してみる。
「あっ痛っ」
棚を覗きながら横にずれていたので何かにぶつかった。
「脚立にぶつかったの? 端によけておいてくれるかしら」
「はーい」
こき使われるアリアンロッド姫であった。
「……ん?」
ここで隅に脚立を寄せたら、先ほど侵入した窓の横の壁に、うっすら目に飛び込んでくるものが。
アリアンロッドは妙に気にかかり、それに近寄っていく。
「これは……弓?」
「この館に伝わる三つ武器のひとつ、クロスボウとその矢。気になる?」
壁に掲げられているのは木製のクロスボウとクォレルと呼ばれる専用の矢であった。
「私、弓の鍛錬は長く積んできたけれど、この形のものは使ったことがないわ」
アリアンロッドは興味深く眺め、優しくなぞる。
「かつて3人の豪腕な戦士がこの館を同族と共に建てた、と話したわよね」
イナンナの話は、また近隣の者から聞いた逸話だ。この館には3人の屈強な戦士の、いつも共にあったという武器が遺されている。
彼らはこの地に着いてから他者と争うことなく、終わりの時まで静穏に過ごしていたようだ。しかし戦士としての心はどうであったか。また、3人の持つ武器は、更なる戦いを求めていたのではないだろうか。
「戦士の死後、武器に闘魂を求める霊が宿り、それを扱う者の、持ち得るすべての力を引き出してくれると伝えられている……」
「そんな素晴らしい武器なの?」
そのように興味深い話を聞かされたら、戦利品として拝借したくなっても仕方ないが──