⑩ ふたりのシークレットナンバー
それはアリアンロッドの衣服の隙間から、ヨモギの花が散らばってからまもなくの異変だった。
「ふんっ……ぐうぅ……」
男の嗚咽は徐々に激しさを増していった。
アリアンロッドを掴む手をバッと離して、なりふり構わず両眼を擦する。
「ぶわぁっ……くしょん!! っうっ……うっ」
涙がとめどなく溢れ、くしゃみが止まらなくなったようだ。
「…………?」
それをアリアンロッドは呆然と見ている。
敵はただ藻掻くだけで、もうその眼中にまったく自分は映らない。
好機かもしれないが唖然としてしまい、わずかにも動けずにいた。
その時、おもむろに右の部屋の扉が開いた。
「ヒルディス様!?」
連続する大きなくしゃみの音を聞き、何事かと部屋から出てきたイナンナが、主の様態に焦り駆け寄る。
「大丈夫ですか!? いったい何が……うっ!」
「……え?」
アリアンロッドは目を疑った。うずくまっていたイナンナの主が、彼女が手元に来たとなったら、その首をわし掴み、立ち上がった。
「あぁっ……」
「イナンナ!?」
右手で首を抱えられ、左から鎌の刃で閉じ込められた彼女がえずいた。そのさまを目にして、アリアンロッドは肝を潰す。
そうした頃、今度はアリアンロッドの背後で、正面扉が開き────
「アリア!」
「ヴァルっ」
アンヴァルの到着だ。彼は朝、目覚めたら腕の中のアリアンロッドが消えていたことで、慌てて屋敷内を走った。
荒い息づかいと共に飛び込んできたアンヴァルの目に、男に捕らえられているイナンナと、上半身の衣服がはだけているアリアンロッドが映る。
「ッこの……」
アンヴァルは当然のように逆上し、イナンナを抱えている男に向かって駆け出した。
「だめ! ヴァル!」
アリアンロッドの叫びで彼はぴたりと止まる。仕方なく、振り返りアリアンロッドに寄り来た。
「今、手を出したら……」
「これは、どういうことだ?」
「イナンナが……なぜか、捕まって……嫌な予感が」
アリアンロッドは焦り混じりの小声で彼を牽制した。
どうやら男はアンヴァルが入室した隙に、一度は手放した大鎌を拾っていた。いまだ目はまともに開かず、くしゃみも続けているが、無抵抗のイナンナは抱えたままだ。
アンヴァルはまず、アリアンロッドのはだけた衣服を上に寄せ、素肌を隠す。そんな頃。
「あああああ!」
悲痛な叫び声が天井に響きわたる。
男が鎌の刃をイナンナの脚に当て引いたのだった。
「イナンナ!!」
彼女の衣服の裾が赤く染まり、流れ出る血がアリアンロッドの瞳に映る。
「これでこやつは逃げられない……それ以上、私に近付いたらどうなるか、分かるな」
などと脅し、男はまたくしゃみをする。
「頭イカれてるのか? 第一の戦力を不能にするとか」
アンヴァルは指を鳴らし、イナンナもお構いなしに殴り掛かる準備を始めている。
もちろん憤怒がそこにあるのは、アリアンロッドにも分かる。
「ヴァル……引こう」
「…………」
アンヴァルにしたら、ここはふたりまとめて捕らえるいい機会なのだが、彼女がそう言うのなら仕方ない。まずはなによりもアリアンロッドの気を落ち着かせたいのもあり、彼女の手を引き扉口に走った。
アリアンロッドは出口を抜けるまで、イナンナを心配の思いで見つめていた。
ふたりはひとまず誰にも見つからないところ、ということで、昨日入っていた牢の前まで走ってきた。
一度侍女と鉢合わせしそうになったが、隠れて事なきを得た。もちろん侍女が騒いだところで主人らの指令系統は機能不全だ。
「屋敷外に控えている兵が出張ってきたとしたら面倒だな」
「っ……あああ──!!」
「?」
そこに到着するなりアリアンロッドは叫び散らした。
「どうした?」
「悔しいっ……悔しい!!」
伏して歯を食いしばる彼女を前に、何が起きたのかは想像でしかないが、男に歯が立たない現実に直面したのだろうとアンヴァルは想像した。
彼は今朝、目覚めたらアリアンロッドが腕の中から消えていた事実を顧みて、1年後の自分らが介入していることは多分に実感したが、川に落ちたアリアンロッドはどちらだったのか確信が持てずにいた。
しかし実際こう隣にいると妙に納得するのだ。このアリアンロッドが川に落ちた、かつ今の彼女だということを。
1年後のアリアンロッドに多少担がれた事実にも苦笑いする。
今も屋敷のどこかにいる1年後の彼女を捕まえたいところだが、こちらの動向をすべて知っているのだから向こうがノーなら端から無理だ。
「どこも怪我してないな? ならここを出て、国から来ているはずの護衛兵にまず働きかけよう。知った顔があるかもしれない。口が堅く真面目なのを見繕って……」
アンヴァルは、これ以上この屋敷にいても仕方なしと考えているようだ。
しかしそれをアリアンロッドは、承服しかねるといった表情で目を逸らす。
「……ねぇ。このふしぎな錠前、国でも作れないかな?」
「普通に作れるんじゃ?」
「ヴァルなら左から何番目を正解にする?」
「うーん……」
その時、彼の眼にぼんやりと浮かび上がる。
「お前のそれ……」
破れた衣服の胸の部分がはだけ、紅い不死鳥が姿を現した。
普段は聖女の装束の下で眠る、すべての国のにとって平伏して拝むべき、非常に有難い紋章である。
「不死鳥の頭の部分、数字の5に見えないか?」
「え? そう?」
アリアンロッドも顎を引いて自分の胸元を確認する。
「……はっ」
そこで、気持ちが落ち着いてきたせいか、ワンテンポ遅れて意識づいて、
「胸、見た……?」
と顔を赤らめて、手で隠すのだった。
「えっ」
深く考えず発言してしまったアンヴァルは、こちらも遅ればせながら「しまった」と狼狽る。
「み、見てない。胸は見てない。聖痕を見ただけだ」
「それ、胸を見たって言うの!」
「見てない見てない!」
彼は首を横に大きく振って否定して、そのオタオタついでに、「でも昨夜はそれどころか……。聖痕の存在なんてすっかり忘れてたぐらいらい必死だったけどな!」と心の中で早口な独り言をつぶやいていた。
そんな彼の背後にまわり、衣服を引っ張って剥がそうとする現在のアリアンロッド。
「何するんっ……」
「噂に聞いてたんだけど、あなたってディオ様に召し抱えられる前にいた組織で、身体に団員ナンバーを彫られたんだよね?」
「ああ……右肩の後ろっ。ほら」
無駄に脱がされるのもシャクなので、すぐに白状して見せた。
「うーん、77かぁ。じゃあ、錠前ひとつなら私は5、アンヴァルは7。錠前ふたつは5・7、みっつは5・7・5!」
「どこで使うんだよそれ」
彼女にいつもの調子が戻ったことでアンヴァルは安堵し、他所へ移動することを提案した。
「ここは密室だから長居は良くない。それにお前……」
そのはだけた衣服をどうにかしないと落ち着かない。とは口にできず。
「よし、まず衣類庫だ」
アリアンロッドは唐突に立ち上がったアンヴァルを見上げたが、彼の焦りは何ひとつ彼女に伝わっていなかったようだ。