⑧ 聖女が落ちてきた
夕暮れ時、屋敷西側の狭い川辺で、アンヴァルは“裸で”立ちすくんでいた。
こんなところを誰かに見られでもしたら、と考えると非常に寒い。
「いったい何が起こっているんだ……」
素肌に沁みる風の冷たさに耐えながら、先ほどのアリアンロッドとの掛け合いを回顧する。────
────アンヴァルを引っ張り、屋敷の玄関から死角となる西側の川岸に連れてきたアリアンロッドは言った、「話を聞いて」と。
『すぐ行くって、どこへ……どうして? イナンナが何かしたんだな?』
『彼女はまだ何もしてない』
『まだ?』
アンヴァルの眉根がピクリと揺れる。
『でも、神が示しているの。彼女は嘘をついてるって。だから今から彼女を試す』
『は? 神??』
急に何を言い出すんだ、と彼は耳を疑った。
しかしどうも危ないことをしようとしている。それは止めなくてはならない。
『待ち合わせの崖上に戻ったら、イナンナは私を川に突き落とす。……って神のお告げがあったの』
『まさかお前が神と交信したっていうのか? だいたい、嘘をついてて試すと突き落とすってなんだよ! そんなの聞いて行かせるわけにはっ』
アンヴァルがこれを言い終える前に、アリアンロッドはアンヴァルの両腕をわし掴み、声を張り上げた。
『彼女が私を消すためにあそこで集合を言いつけたなら!』
この彼女の真っ直ぐな眼差しに絡め取られ、アンヴァルは身動きを封じられたような錯覚をおぼえる。
『その思惑に乗っからないと尻尾は出さない!』
『アリア……?』
このアリアンロッドが“知らない存在”のように見える。
『だからヴァル、全部脱いで』
『……はい?』
脈絡のないことを言いだし即、アリアンロッドはアンヴァルの衣服を剥がそうとした。
『え? あ、待て。脱がっ……』
手も足も出ず尻もちをついた彼の上に、思い切りまたがり彼女は、彼の服を脱がしだす。
『私、泳げないから! 私が落ちてきたら助けて!』
彼女の表情は真剣そのもので、
『お願い……』
服を掴む手も震えている。
自身に乗っかるアリアンロッドの鬼気迫る様子に、アンヴァルは言葉を失った。
『通用口の隣室が衣類置き場になってる。私を助けたらそこで介抱して』
彼女はそう指図しながら立ち上がり、更に、
『全面的に信じてるから』
と、迷いのない澄んだ声音で会話にケリを付けた。
そして彼に1本の燻製肉を押し付け、また走っていった。
『え……。ええぇ??』
アンヴァルにとっては「不覚にも」止めることができず、話を聞くことすらできず、彼女を行かせてしまったのだ。
『まったく俺はっ……』
自身の不甲斐なさに地団駄を踏んだ。
そういったわけでアンヴァルは自分の失態を恥じながら、軽い罰を受けるような気持ちで下を脱いだのだった。────
実際イナンナのことは、幼い頃共に励んだ戦友のようなもので、それこそ「全面的に」信頼している。
が、彼の知るは12歳までの彼女だ。そこから先の彼女の人生は想像だにしない。
現に、牢でのアリアンロッドに対するあの度の超えた悪戯は、あんなことを思いつくような奴だったかと、疑念が湧く部分もある。
……などと、また考えを巡らせていた時だった。
「アリア!」と彼女を呼ぶ声がどこからか、微かすかに聞こえたのは。
「!? 今の声は……俺?」
驚き辺りを見回した。少し霧がかかっていて遠くは見えない。上方からだったように思う。
この瞬間、思いきり殴られたような感覚に襲われる。
「思った通りだ。近くに、1年後の自分がいる」
(それはどう動いてる? 何を目的としている? 未来の自分と言っても所詮1年後だ、考え方は今と何ら変わらないだろう。)
そこまで思考の糸を繋いだ時、さきほどの違和感を思い出した。
アリアンロッドと話した時。
訳も分からず連れて来られ動転していたので、牢の中で考えていたことを失念してしまった。あれは紛れもなくアリアンロッドだったから。
そのうえ危地にあえて飛び込むような話を聞かされ、冷静になるのも無理だった。
「ついでに突然脱がされたしな……」
しかし、確かに感じた。説明できない違和感を。
────もしかしたら、あれは、1年後のアリ──
まさしくその時。背後でドォンと水しぶきの打ち上がる音が響いた。
「!!?」
バッと振り向いたら小さなしぶきが、霧の中で細かな光を放ちハラハラ舞っている。
ビリっと身体中を、彼女の言葉が駆け巡る。
“助けて”
“お願い”
“信じてる”
「…………っ」
────アリア────!!
アンヴァルは屋敷を囲む柵に突進し、打ち破った。
その心は彼女のそれが共鳴するように、その名を何度も夢中で叫び、川へ飛び込んだのだった。
◇◆
彼女の声が聞こえる。何度か名を呼ばれた。
それを頼りに、水を掻き分け、深い水底に沈んでいく彼女を見つけた。
地底に吸い込まれていきそうな彼女を全身で捕まえて、片腕でひたすら水圧を凌ぎ、地上という空へのし上がる。
顔が水の外に出たら即、彼女の頭を自分の肩に乗せた。すると彼女は一瞬だけ意識づき、水を吐き出した。
無我夢中で岸に乗り上げる。
そして意識を失ったままの彼女を抱き上げ、言われたとおりに衣類庫へ走るのだった。
◇
衣類庫に入室後、入り口から死角となる奥に彼女を寝かせ、脈が正常であるかを確かめた。
「ああ……。ふぅ……」
ひとまず命は取りとめた。が、
「アリア……アリア!」
何度名前を呼んでも返事はなく、いつ意識が戻るか分からない。このびしょ濡れの衣服を着せ替えないと体温が下がってしまう。
「…………。……っ?」
アンヴァルは息を吞んだ。
「…………」
少しのあいだ彼の時の流れは停止していた。
「いや、動け、俺」
ベシッと一発、自身の頬を叩く。迷っている場合ではない、と──
まず棚に積まれている布を何枚も用意し、
「なんでこんなに着てるんだよっ……」
なぜかやたらと着こんでいる彼女を全て脱がしたら、布を当てることで水気を払う。
脇目も振らず脱衣をこなす中でも、神に刻まれた胸の聖痕には決して触れないよう全神経を集中させていた。
「乾いた布っ……どこだっ」
そして大きな布で裸体の彼女をぐるぐる巻きにして、
「ふぅ──……」
なんとか役目を果たしたアンヴァルであった。アリアンロッドがどこかの国の木乃伊のようになっているが、ここで彼を責めるのは酷だ。
気付けばアンヴァルも裸のまま。彼も急いで棚から男性用の衣服を見繕って着こんだら、寝かせておいた彼女を軽く抱き上げ、そのまま腰をおろす。
「寒っむ……」
そのあと彼女を思い切り抱きしめたのは、その体温を下げないようにと思ってのことだが、実際は自分も彼女の熱を必要としていた。
「ああ、柔らかいな……」
彼女から伝わる温もりに安心したのか、そのまま彼も寝入るのだった。
◇◆◇
「ん……。んんん?」
窓から差す朝の光にあてられて、アリアンロッドは目を覚ました。
身体の重さをひどく感じながら起き上がると、そこは狭くホコリくさく、道具倉庫だろうか、縄やら棒やら器やらが煩雑に置かれている。
「……? ここは?」
ただひとり、自分しかいない。
「あ、痛っ……」
立ち上がろうとすると、頭がずきずきと痛んだ。
(どういうこと? 何があったの? ヴァルはどこに……)
混乱の中、アリアンロッドは記憶の糸を手繰ってみた。彼女の記憶にある最後の感覚は“痛み”だった。
(何の痛み、だったっけ……)
痛みの直前には、女の恐ろしい表情、必死にしがみついていた苦しみ、更には、通して感じていた死への恐怖。
アリアンロッドはハッとして顔を上げた。
「そうだ……私、裏切られて……」
絶望の情景を思い出したら身震いが止まらない。
「確かに川に落ちたのに……」
しかし今、こうして生きている。
「まさか神のご加護が……? きっと神が助けてくれたんだ!」
(それならば……)
窓から差す光の中で、外界に向き、手を合わせ神に謝意を表した。そのうえで、こう願う。
「どうか、ヴァルを必ず無事に、私の元へ……」