⑥ 恋妻の正体判明!?
アリアンロッドはしばらく、食堂の席にて待たされていた。
イナンナが調理場から食事を運んできたら、それをつまみながら彼女のことを尋ねた。
「私は幼少期から、密偵として生きるための教育を施されました」
王家血筋に生まれついた女子は、おおかた国内外の有力貴族に嫁がされ、子を生む役目を持つ。
だが中でも将来性を見込まれた娘は政治的に暗躍するよう育てられるのだという。
「そうなの……。ものすごく重要なお役目ね」
感心したアリアンロッドを横目にイナンナの表情は一瞬冷ややかなものになったが、食事に気が向いているアリアンロッドはそこに無頓着であった。
「物心ついた時にはアンヴァルと共に、武芸の訓練で日々を過ごしておりました」
「あなたもヴァルと幼馴染だったの? ちっとも知らなかった。私も彼に護身術の指導を受けてたけど……」
「私は彼に指導されていたわけではありません。彼と対等に仕合うことで鍛錬を積んでおりました」
彼女の語気は意外に強く、アリアンロッドは少したじろいだ。
「あなたは政略結婚で、諸侯の妻として密偵の働きをする方向には行かなかったのね」
「私は、半端な仕事はしたくなかったので、より深く政治中枢に切り込む機会を、と……」
イナンナは齢12の時、密偵の男女二人組と、この隣国の端に送られた。浮浪の家族を装い、貴族の屋敷に下働きとして入り込むことに成功する。
14の時、周辺の諸侯が一堂に会し、家来の武術を競わせる競技会が開かれた。猛々しい武人らの戦闘を、彼女は隅で眺めていた。
「他をなぎ倒し立ち続けた男が勝者として名乗り上げた時、私は槍を手に、大勢の見守る壇上にのし上がり、男に試合を申し込みました」
「ええっ?」
競技会の観客席は沸いた。荒くれ男に細い少女が臆面もなく挑んでいったのだから。
「その勝敗は……」
「私は勝ちました。しかし対戦相手も観客も、それを認めなかったのです。相手はわざと負けてやったと言い、周囲もそれで納得しました。そこでただひとり、ある物好きな貴族が私を面白がり、正式に召し抱えると言いました」
「それが、あの主ね? ……あなたの力を見出したのなら有能な人よね。まぁ、スパイを引き入れちゃってるけど」
「有能?」
イナンナは人を嘲る時のような表情で笑った。
「とんでもないですわ。血統で当主の座に就いただけの、なんの信条もない放蕩男でした」
更に誹り続ける。領民からは搾取するのみで、ただ淫蕩に耽る暮らしぶりの無能領主だと。
「その贅沢な暮らしのために、地位には執着するところがまた厄介で。とはいえ、それが私には都合が良かった。怠惰ゆえに、私に業務を全て任せてきたので、私は宮廷の政治機関に紛れ込み、国の王に拝謁することも叶いました」
「へぇ、あなたって本当に有能なのね」
「しかしすぐに国は侵略戦争に敗れ、新しい統率者に変わってしまったのですけど」
彼女はまた新しい政権下で暗躍できるよう基盤づくりに専心した。
「新しい王とは対面を?」
「いえ、まだです。ただ今回の和議を、国からの要請で取りなしたのは私」
「これがうまくいったら、あなたは国の政治史に名を刻むかも」
「私の名はともかく。現状、兄は国宝の指輪を差し出してでも、協定を結んだ方がいいと判断したのでしょう? この和議はどうなってしまうのでしょうね。遠くのユング王とすぐには連絡が取れませんので、私がなんとかしなくては……」
イナンナは、ユング王が東の王都にて、和議についての報告を待っている、と説明を続けるのだが、アリアンロッドの意識はそこになく──
「ねえ。“ディオ様”の判断……?」
「? 王陛下が政に指揮を取るこの頃ではないし、私が“個人的にやり取り”をしているのは兄ですから」
憂う彼女の隣でアリアンロッドは、ふっと何かを思い出した。
「もしかして、ディオ様に“恋文”を送ったのは……あなた?」
「恋文? 兄を相手にそんなもの送ったことはありませんけど……“密書”は送っております。だって私、スパイですもの」
アリアンロッドは口を開けたまま静止した。しかしすぐ彼女の肩を掴み、食い下がる。
「ヨモギがどうとかっていうのは……」
「ヨモギ? そういえば、だいぶ前にそんなことを書いたかしら」
イナンナは、万が一のことを考え密書には暗号を使用すると話す。または重要な言葉を隠すために、とりとめのない文も混ぜるのだとか。
「うわぁ、私の勘違いだったの!?」
アリアンロッドはガックリと項垂れた。
「ディオ様が恋文をニヤニヤして読んでいたから、てっきり恋妻ができたのだと……」
「ニヤニヤ? 妻がいるかどうかなんて私は知りませんが、彼は私の手跡が気に入りなのですよ」
「へ?」
「女性より芸術品に興味のある男でしょう、彼は」
アリアンロッドの目が点になる。そして脱力し、机に突っ伏した。
「そうでしたねぇ……。無事に帰れたら私もカリグラフィーを嗜むわ……その前に誤解して責めたことを謝らないと!」
「無事に帰れたら、ですね……」
このときイナンナの声色はかなり冷たいものであったが、アリアンロッドは自己嫌悪の波に飲まれていて、察することもなかった。
「ヨモギの話は多分、我が主、ヒルディス様の弱点を伝えたのですわ」
「弱点?」
「女狂いで過ぎた嗜癖のある人ですが、奥様には弱い方なのです」
妻からヨモギが手紙と共に届けられた時、彼はすべての侍従を下げようとした。イナンナは何事かと退室間際に彼を盗み見たら、顔を覆う手の下でこぼれる涙を見つけた。
「ヨモギの花言葉は“夫婦愛”だものね」
「とはいえ、あの人の弱点なんてわざわざ知らせるほどのこともなかったですわ。ユング王のそれを突き止められればいいのですけど。獅子王の異名で恐れられているあの英傑ですら、やはり弱みは女性なのでしょうかね」
イナンナが立ち上がりながらアリアンロッドに手を差し伸べた。
「さぁ、退屈のしないところへご案内いたしましょう」
「うん?」
◇
ふたりは屋敷の階段を上る間にもおしゃべりに興じた。今まで同年代の女性と親しくふれあう機会のなかったアリアンロッドには、楽しい時間であった。
「ん。離れへ向かうの? あなたの主がいるんでしょ?」
「ですからちゃんとヘッドスカーフで顔をお隠しになって」
「ねえ、あなたとヴァルはどういう関係?」
「同年の武術仲間でした。それ以上でも以下でも」
興味津々のアリアンロッドに、イナンナはあっけらかんと答える。
「でも、あなたは王陛下の娘、つまり姫君で、彼は王家の一臣下よ」
「ご存じない? 国では王家の女に人権などないのですよ」
「え?」
「さぁ、外に出ますわ。お気をつけくださいませ」
4階の出口を抜け、別邸へとつなぐ橋に来ていた。
この場は非常に壮観で、橋を渡りきったら別邸の前庭から、下方の川の流れを覗いてみたくなった。
「あまりそちらには行かないで」
「川に囲まれた区画にぎりぎりの屋敷を立てるなんて、斬新ね」
谷を埋めるように流れる河水を眺めていたここで、アリアンロッドは小さく身震いした。
「あ、あ―……イナンナ、ちょっとレストルームに行きたいのだけど……。1階にいる時、行っておけばよかったわ」
「でしたらお供いたします」
「ううん、それぐらいひとりで大丈夫。順路も分かったし、ヘッドスカーフをしっかり被っておくから」
「でしたら、1階までは共に。そこから私も少し用を済ませてまいります。この場で待ち合わせいたしましょう。必ずこちらにお戻りくださいね。万が一なにか起こり、アンヴァルにバレたら私が面倒です」
イナンナの本音が最後の一言に濃縮している。
階段を降り再び階下に戻ったら、ふたりは別行動に入った。