間章 〜 ウバとメアリー
時を少し遡り、
──夕暮れのポットタウン。
夜の訪れの前に、店々は品をしまい、家々の軒先の洗濯物が取り込まれる。
石と木の町並みに、今日の業を終え足早に家へ帰る人々の影が流れていく。
遠くから風の音。
揺れる植え込みの音に通行人が立ち止まり、隣にあった木が大きく揺れて。
次の瞬間──
町の中を砂埃をたて、強い風が吹き抜けていった。
この時期には珍しく、プカーティ商工会の窓を揺らすほどの風が吹いた。
冬場なら山から吹き下ろす風がツッカー平原を越えて街へ届くことは珍しくない。
だが、初夏を目前にした今の季節には不釣り合いだ。
ならそれは、別の理由と考えるのが妥当だろう。
例えば、規模の大きな魔法の余波。
ウバは机に積み上げられた書類の山から視線を外し、窓の外へ目を向ける。
沈みゆく太陽の赤が、山影と森の輪郭を鈍く染めていた。
マルヘラの森。
いま、愛娘ルフナが“冒険者の現実”と向き合っている場所だ。
問題なければ明日、遅くとも明後日には帰ってくるはずだった。
窓の向こう。
山の稜線が夕闇に飲まれきる直前、
森の奥で白い光が、一瞬だけ瞬いた。
気のせいなら、それでいい。
しかし、それは気のせいでは無かった。
自然に起きる事の無い連続した風が窓を揺らし、完全に山陰に入っているはずの、白い光が瞬いた場所からは、不規則な光の明滅が起きている。
元冒険者の勘というものは、こういう時に限って外れない。
リズなら…どういうだろうな。
亡き妻の名を胸の奥でそっと呼んだ、その時─。
控えめなノックが響いた。
「代表……入ってもよろしいでしょうか…?」
メアリーの声だ。
いつもより、わずかに張りつめている。
「…あぁ。構わんよ」
扉が開き、狼の耳を揺らしながらメアリーが入ってきた。
その視線はウバの表情よりも真っ先に──窓の外の森へ向かった。
「…やっぱり。光ってましたよね」
ウバはゆっくり息を吐く。
「メアリーにも見えていたか…。見間違いだと思いたかったんだがな…」
「ルフナちゃんたちが向かった場所…あっちの方角ですよね」
「…あぁ。そうだ」
「他の冒険者からも、何か起きているとの報告が…」
「うぅむ…この時間の森の奥へ冒険者を行かせる訳にはいかない」
代表として冷徹に言うものの、胸の奥では二つの気持ちが軋んでいた。
父親としての不安と、冒険者としての記憶。
あの光が戦闘の余波なら。
あの風が魔力の衝突で生じた乱れなら─
あの場所で、戦闘が起きている。
決して小さくない規模で。
メアリーは胸元へ手を寄せ、そっと目を伏せた。
その横顔が、ふとリズに重なった。
似ているわけでも、重ねて見ようとしているわけでもない。
それなのに娘を案じる姿だけは、あまりにもよく似ていた。
「…リズと、約束したんです」
静かに、彼女は続ける。
「…もしもの時は、わたしがルフナちゃんの傍にいる…って。
お母さんの代わりにはなれなくても……
あの子が女の子として迷う時は、必ず支えるって…」
「…知っているさ」
その返事は、自分でも驚くほど優しい声だった。
「娘に対して男親1人では限界がある。…本当に助かっているよメアリー」
メアリーの指先が、かすかに震えた。
その震えを悟られまいとするように、彼女は夜空へ視線を戻す。
「…無事に帰ってきます。ルフナちゃんは、強い子ですから」
祈るような声だった。
カーテンを揺らす風が冷たく、狼の耳がその風にかすかに震えている。
ウバも同じ方角を見つめた。
森の奥で、娘は現実と向き合っている。
不安も誇りも、同じ重さで胸を満たした。
「…今は待つしかない…か。」
それは自分に向けた言葉だった。
メアリーは深く頷き、部屋を出ようとして──ふと立ち止まる。
「代表…きっと、大丈夫です。
だって、…あなたと、リズの娘なのですから」
その一言が、風の音よりも強く胸に届いた。
扉が閉じ、執務室には静けさが戻る。
元冒険者の勘は、不吉な未来ばかりを示しているが、しかし父親としての願いはひとつ。
明日、笑って帰ってきてくれ。
しかし、森の方角から吹く風と瞬く光は、その後もしばらく続いたのだった。
ウバの執務室を後にしたメアリーは、廊下の角まで来てからそっと足を止めた。
胸の奥でざわつくものを落ち着かせようと、深く息を吸う。
そして、制服のエプロンのポケットに手を差し入れ、
小さなぬいぐるみを取り出す。
それは色とりどりの布の端切れを縫い合わせた、パッチワークの兎角のぬいぐるみ。
まだ幼かったルフナが、一番大事にしていたもの。
眠る時も、泣く時も、そばに置いていた小さな相棒。
あの子が冒険者として旅に出てからは、わたしが預かるようになった。
“女の子として迷う時は助けてあげてほしい”
というリズの言葉と一緒に、このぬいぐるみも託されたのだ。
だからメアリーは、彼女が不安に呑まれそうになるたび、そっとこれを取り出して祈っていた。
どうか…。
……どうか…無事でありますように─。
耳が下がるほど、尻尾が下がるほど、その願いは静かで切実だった。
ふと、ぬいぐるみの顔に目をやる。
あれ?
頬の縫い合わせが、ひとつだけ解れていた。
いつの間に?
メアリーは軽く息を呑んで、指先でその糸の緩みを確かめた。
あまりにも小さな傷だけれど、不安を抱えた夜ほど、こうした欠けは胸に刺さる。
きっと、わたしがずっと持ち歩いて、何度も取り出して祈って…。
そのせいで糸が緩んでしまったのだろう。
「…ちゃんと治してあげないとね。」
そっと呟く声は、まるでルフナに話しかけているように柔らかかった。
心の中で膨れ上がる不安を押し込めるように、メアリーはぬいぐるみを胸元へ抱き寄せる。
たとえ祈ることしかできなくても。
母の代わりにはなれなくても。
それでも、ちゃんと帰って来た時に笑顔で迎えられるように。
一抹の不安を押し込めるようにそう強く思い直し、裁縫道具を取りにメアリーは自室へ静かに歩き出した。




