飛び降りる前に、その缶コーヒーを飲みながら語りませんか?
自殺の名所として有名な山奥の崖に来ていた。
もう自分が嫌だった。高額なお金を叩いても子どもを授かれない私。旦那はもういいよ、って言ってくれてるけど、私は知ってる。
貴方が大の子供好きだということを。
【私のことは早く忘れて、温かな家庭を築いてください】
こう書いた遺書はちゃんと残してきた。
意を決して暗い獣道を進む。寒いし、怖い。
でも、もう覚悟は決まっているの。
ジリリリリ
道の奥の方からけたたましく鳴る電話の音が聞こえる。
何かしら?
急いで音の鳴る方へ向かっていく。
自殺名所の崖の前。そこにポツンとあるピンク色の公衆電話。通称、いのちの電話。それが鳴り響いている音だった。
こんな山奥だけど、誰か監視でもしているのかしら?
電話を無視して崖の方へと足を進める。
ジリリリリ
先ほどよりも大きな音で不協和音を鳴り響かせる電話。
「はい…」
無視して飛び降りることなんて出来なくて、つい電話に出てしまった。
「母さん、良かった。飛び降りるのはまだ待って!」
若い男性の声。新手の詐欺かしら?でも生憎私は子どもをなかなか授かることの出来ない欠品女。
「そこに缶コーヒーを置いたんだけど場所、分かる?」
崖から電話へと視線を戻す。確かに男の言う通り電話の上に見たことのない銘柄の缶コーヒーが置いてあった。
「飛び降りる前に、その缶コーヒーを飲みながら語りませんか?」
この男は何がしたいのだろう?
でも死ぬ前にこの茶番に付き合ってみるのも面白いかも…。
私はその缶コーヒーを手に取る。あら?温かい…。
一体いつからあったのか?まさか、近くに誰かいるの?
辺りをキョロキョロ見渡す。でも人の気配なんてしない。
その缶コーヒーを開けて一口だけ口に含むことにした。
あ、私このコーヒーの香りも味も知ってる。だってこれは毎朝飲んでる…
「それ、今朝父さんが作った特製ブレンドコーヒー。ほら、帰ろう?俺も待ってるからさ、母さん」
自殺の名所の崖。
ここにはこんな噂があった。
【崖の前のいのちの電話は未来と繋がっている】
私は泣き崩れた。
あぁ、ちゃんと母親になれるんだ…。
温かな缶コーヒーが冷え切った私の心を少しずつ溶かしていってくれていた。