貞操逆転に気づかず恋人のフリの相談を軽々しく受けまくっていたら、想像以上の修羅場がやってきた。どうにか穏便に偽装カップルを解消したいが、誰一人解放してくれない・・・。
貞操観念逆転。
女性が性行為に積極的になり、逆に男性は奥手になる「もしも」の世界のことである。
本番までの工程が短いため、紳士諸君らから根強い人気を誇っている。
――でも、「据え膳食わぬは女の恥」だとか「浮気は女の甲斐性」なんて世界なんでしょう?
心配ご無用!
なぜか、この手の世界では男性の人口が女性より極端に少ないなどの理由で、浮気や寝取られはございません!
どうです? 安心安全の設計でしょう?
だけじゃないんです!
なんと女性は元の世界より美貌レベルが高く、そのうえ未通女ばかり!
そんな素晴らしいパラレルワールドへの移住券が、今ならなんと!
お値段そのまま19,800円! 19,800円!
どうです? お得でしょ⁉
「うさんくせぇ」
大学からバイトに向かう道中のことだった。
路地をひとり歩いていた俺に向かって、背後からいかにも詐欺師然とした好々爺が迫ってきた。
振り返った先にいた背中の曲がった老人は一枚のチケットをひらひらさせて、貞操逆転の素晴らしさを力説している。
バーカバーカ!
19,800円でそんな童貞の妄想を絵にかいたような都合のいい世界に変わるわけねえだろ。
こんなあからさまな詐欺にかかるやつなんてよっぽどのアホか間抜けだぜ。
「払っちまった」
俺はアホか間抜けのどちらかだった。
一人暮らしはじめたての大学生にとって貴重な19,800円を、あんな見え透いた詐欺師に貢ぎやがって……‼
くそ! くそっ! くッそぉ‼
何が「先着一名様限り」だ。
こんな罠に引っかかる間抜け、俺以外にいるわけないだろッ!
俺の馬鹿野郎ぉぉぉ!
駅近くの高架下で、うっぷんを晴らすように拳の小指側をガンガンとたたきつけた。指が痛い。
「はぁ……いや、まだワンチャン残ってるんじゃないか?」
実は詐欺ではなく、本当に19,800円で貞操観念逆転世界に転移した可能性……!
後悔を取り消すにはこれに賭けるしかない!
でも、どうやって確かめれば。
まさか見ず知らずの女性に「ヤらせてください!」なんて頼むわけにもいかない。
世界が何も変わってなかった場合、俺の人生がお先真っ暗になるからな。
……そうだ!
あの老人の話だと貞操逆転世界は男女比がおかしいって話だった。
人通りの多い場所に行って、本当に男女比が変わっているかを確認すればいいのでは?
俺って天才!
結論から言おう。
「変わってなかった」
変わってなかった。男女比ほぼ1:1。
騙されたのだ! まんまと!
駅近くの高架下で頭をガンガンたたきつける。
悔しい……俺、悔しいよ……!
「わわっ、真々田くん⁉ 何してるのっ⁉」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこに女性が立っていた。
花守咲桜。
大学の同じ学科に通う、クリーム色の髪をふたつ結びにした眼鏡っ娘だ。
天使のようにかわいらしい声が特徴的だったのでよく覚えている。
「おでこから血が出てるよ! ほら、見せて」
ポーチから消毒液スプレーと使い捨てコットンを取り出すと、俺の額にできた傷口を拭ってくれた。
ちょっと背伸びをしているのが非常にぐっとくるポイントだ。
「はい! これで大丈夫だよ!」
最後に絆創膏をピッと貼ってもらったのだが、そのあとの笑顔が強烈すぎた。
心臓がすごくドキドキしてる!
やばい、泣きそう。
「わわっ⁉ ご、ごめんね? 急に気持ち悪かった、よね? これまであんまり話せなかったし……」
「違うんだ、違うんだよ……俺、嬉しくて」
「う、うれしい?」
全力の肯定を示した。
だってそうだろ?
かわいいなと思いながらも声をかける機会がなかった女性に名前を覚えてもらっていて、そのうえ優しくしてもらったんだ。
あなたが天使かと崇めたくなっても仕方がない。
「そ、そっか。えへへ、そう言ってもらえると、わたしもうれしいな」
おうふ!
照れ笑いがかわいすぎる……!
ついさっき詐欺にあったことですさんでいた心が癒されていく。
「で、でも……真々田くんってカッコいいし、その、彼女さんとかの方がうれしかったんじゃ……」
やめて……!
その言葉は彼女いない歴イコール年齢の俺の心に刺さる!
でも、きっと花守さんのことだから純粋に優しさから心配してくれたんだろうな。
カッコいいってのも皮肉っぽさが全くなかったもんな。
だったら恋人になってよぉぉぉ!
独りぼっちは嫌だよぉぉぉ!
なんて、言ったらドン引きされるんだろうな。
どこまでだ?
どこまでなら踏み込んでも許される?
彼女いないですよー、フリーですよーってアピールするくらいまでなら許されるか?
キモがられないギリギリのラインはどこだ?
「ははっ、そうだね。彼女がいてくれたらよかったんだけどね」
ぴくぴく。
花守さんの耳が小動物のようにビートを刻む。
少し開いた口は閉じられず、目は大きく見開かれている。
やばい⁉
踏み込みすぎた⁉
「ごめ――」
「あ、あの――!」
俺が謝罪の言葉を告げようとするのと、花守さんが口を開くのはほとんど同時だった。
「えっと、真々田くんは?」
やらかした。先手を打たれた。
そんな愛くるしいしぐさと消え入りそうな声で言われたら「お先にどうぞ」と言わざるをえないでしょうが!
「俺は、あとでいいよ。花守さんは?」
「う、うん。実は今度の日曜日に、サークルのみんなと遊ぶ約束をしてるの。それで、その、わたし、彼氏いないのに、彼氏がいるって言っちゃって」
「え? 大ピンチじゃん」
「そ、そうなの! だから――」
力強いまなざしが向けられる。
……え? 俺?
と、自分を指をさしたらこくんと頷かれた。
「恋人のフリだけでいいから――! わたしと1日だけ、付き合ってください!」
……スゥ。
フリかぁぁぁぁぁ! フリだけかぁぁぁ!
なんだろうこの気持ち。
嬉しいと悲しいが一緒に来た。
俺はどっちの感情を優先すればいいんだッ⁉
よし、喜ぼう。
始まりは偽りでも、いつか本当になるかもしれないからな。
ポジティブに行こうぜ俺!
「もちろん!」
「えへへっ、うれしいなっ」
花守さんはにへらと顔をほころばせた。
守りたいこの笑顔。
「えっと、もしよかったらなんだけど、連絡先交換しない? 真々田くんとはまたお話ししたいし」
「いいの⁉ こっちからお願いしたいくらいだよ!」
「ほ、ほんとう⁉」
俺の脳内にファンファーレが鳴り響いた。
Linearの9Rコードを開く。
すると花守さんはすっと距離を詰めて横に並んだ。ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
多分、向きをそろえないと9Rコードを読み取れないと思っているんだろう。
実際にはどの向きでも読み取れる仕組みなんだけど、体が触れ合うこの距離は捨てがたい……ッ!
よし、俺も知らなかったことにしよっと。
「やばっ! ごめん花守さん俺もう行かないと!」
「何か用事があるの?」
「うん。バイトなんだ、これから」
友達登録を済ませたスマホを片手に、もう一方の腕で手を振って、慌てて駅のホームへ駈け込もうと走り出した、その刹那。
――逃がさないからね?
身の毛がよだつ。皮膚細胞が開く。
背筋に流れるのは、気のせいでは済まない量の冷や汗。
「どうかしたの? 真々田くん」
思わず立ち止まり、振り返った。
だが、不吉を感じた方面にいるのは、キョトンとした愛くるしい表情を浮かべる花守さんだけ。
ハッ⁉
まさかどこかに不審者が潜んでいる⁉
狙いはもしや花守さんか?
く……っ!
できるならそばにいてあげたい。
だけど、俺の直感なんて曖昧な理由でバイト先に迷惑をかけるわけにもいかない。
「あ、いや。もし怪しい人に声をかけられたら、遠慮なく頼ってね。絶対に……駆け付ける」
「~~ッ⁉ ひゃ、ひゃいっ」
花守さんの手を両手で包み、俺は宣誓した。
とたん彼女の顔が真っ赤に染まる。
「またね! 花守さん!」
俺は再度手を振り、改札を抜けた。
*
道端をひとり歩いていた花守咲桜が、大学の最寄り駅近くの高架下で、その男に声をかけたのは必然だった。
(な、なんてカッコウしてるの⁉)
暦の上では夏となり、夏の兆しがみえる頃。
薄着も珍しくない季節ではあるが、それでも男のコーデは目に毒だった。
(鎖骨が思いっきり見えちゃってるよ⁉)
1:1000。
それがこの世界における、勃つ男と勃たない男の比だった。
そう。
この貞操観念逆転世界における寝取られセーフティは、男女比そのものではなくED率が関係していたのだ。
そんな世界だったので、種の保存のため女性は史実よりある能力が進化している。
その能力とはすなわち――
(ふぁ……っ♡)
思わず口と鼻を手で覆い隠す。
頭がくらくらと揺れる。
(なにこりぇ……フェロモンすっご……っ♡)
――男性の精力を嗅ぎつける副嗅覚系である。
花守咲桜にとって未知との遭遇だった。
ここまで強烈なフェロモンを発する男を咲桜は知らない。
下腹部がじゅっと熱を帯びる。
理性が炉に放り込まれた鉛のようにドロドロと崩れだし、内から抑えがたい衝動が牙をむく。
(だ、ダメダメ! 強制わいせつ罪でつかまっちゃうよ!)
ぶんぶんとかぶりを振って、その場を後にしようとした。
思えばそれが、最後に残った理性の糸だった。
立ち去ろうとする咲桜の目の前で、男が急に頭をコンクリート柱に叩きつけ始めたのだ。
刹那、脳裏ではじき出される完璧な論理。
(怪我してる……から、助けなきゃ……!)
人助け。
異性に声をかける正当性を手に入れた咲桜の理性は、瞬く間に本能を前に敗れた。
そして気づく。
(あ、れ? この人同じ学科の……)
完全にノーマークだった。
どうしてこれまで、こんなにも強いフェロモンを発する異性を見逃していたのだろう。
名前は確か……
「わわっ、真々田くん⁉ 何してるのっ⁉」
男が振り返り、咲桜は胸がときめいた。
この世界の男は性欲が希薄だ。
性腺が刺激されるハードルが史実より高く、結果として中性的な顔立ちになる傾向が強い。
だが、そこにいたのは男だった。
雄と言い換えてもいい。
(す、すごい……! ハリウッド俳優⁉ いったいどんな半生を送ればこんな顔立ちになるの……⁉)
生唾があふれる。
顔が赤くなる。
声をかけるとき、あたかもたった今通り掛かりましたよという体を装ったことは見破られていないだろうか。
自分は挙動不審になっていないだろうか。
様々な思想野望が脳内で渦巻いている。
その中で覇権を握ったのは、チャンスと叫ぶ性欲だった。
「おでこから血が出てるよ! ほら、見せて」
ひょいとつま先を伸ばし、顔に顔を近づける。
(ふぁぁぁぁぁ♡ すごっ♡ 顔が近いよぉぉぉぉ♡♡)
下心を表に出さないように出さないようにと心がけるが、どうしても口元が緩んでしまう。
心臓がドキドキを叫んでいる。
浮かれていた。
だから、彼が瞳に涙を溜めているのに気づくのが遅れた。
「わわっ⁉ ご、ごめんね? 急に気持ち悪かった、よね?」
急速に肝が冷えていく。
(嫌われた嫌われた嫌われた)
振り返ってみてもキモい。
今まで話したこともなかった相手が急に声をかけてきて、怪我を口実に顔に触れる。
踏み込みすぎた。
とにかく、どうにか弁明を――
「違うんだ、違うんだよ……俺、嬉しくて」
そう言って、男は微笑んだ。
(あああぁぁぁ! 好きっ! 好きぃぃ!)
こんな下心満開の相手にまで気遣いできるなんて天使が過ぎるよ⁉
普通の男なら露骨に嫌悪感を示す場面なのに!
えへへぇ。
ダメ、無理。
こんなの笑みを隠せない……っ。
こんな素敵な男性、世の女性が放っておかないよ!
……ん?
そうだよ。
こんな魅力的なのに彼女がいないわけなくない?
「で、でも……真々田くんってカッコいいし、その、彼女さんとかの方がうれしかったんじゃ……」
……嫌だな。
絶対にわたしのほうが好きなのに。
わたしのほうが彼を幸せにできるのに。
あは。
そうだ。
彼女がいるなら、別れさせちゃえばいいんだ。
そうすればわたしが彼の一番になれる――
「ははっ、そうだね。彼女がいてくれたらよかったんだけどね」
――呼吸を忘れた。
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
(え、いない……? フリー? 彼女いないの?)
意味が分からない。
どうして、これだけ強烈なフェロモンを発し、性格も顔も女性を堕とすためだけに生まれたような男を世の女性は放置しているのか。
(よ、よくわからないけど、チャンス……⁉)
よし、自分が彼女のポジションに収まろう。
大丈夫。
真々田くんはわたしだけ見ていればいいから。
わたしが絶対、君を幸せにするから。
「実は今度の日曜日に、サークルのみんなと遊ぶ約束をしてるの。それで、その、わたし、彼氏いないのに、彼氏がいるって言っちゃって」
嘘だ。そんな話していない。
こんな嘘を、だけど真々田くんは真摯に受け止めてくれて、ちょっとだけ罪悪感を覚える。
でも、ちょっとだけ。
他の女に取られるくらいなら、始まりが嘘からだったとしても。
「恋人のフリだけでいいから――! わたしと1日だけ、付き合ってください!」
まずは小さな要求から。
最終目的地はゴールイン。
その布石を、今ここで打つ。
Linearも交換して捕獲準備は完了。
さよならを告げる彼の背中を見つめる。
(――逃がさないからね?)
唐突に男が振り返る。
内心で焦りが生じる。
ふと脳裏をある言葉がよぎる。
男は視線に敏感。
……もしかして、うなじを見てたのバレた⁉
「どうかしたの? 真々田くん」
邪な考えを見透かされないように、笑顔の仮面をかぶって話しかける。
バレてませんように。
嫌われていませんように。
典型的な処女的思考を巡らせる。
「あ、いや。もし怪しい人に声をかけられたら、遠慮なく頼ってね。絶対に……駆け付ける」
「~~ッ⁉ ひゃ、ひゃいっ」
ちょ……、急にそんな、え⁉
手なんか握っちゃって……
(反則だよぉ……)
胸が、高鳴っている。
*
俺の通っているバイト先は個人経営の喫茶店だ。
温かみのある照明とシックなインテリアが居心地のいい空間を作っていて、俺はそれが気に入った。
ちょうどキッチンの手が足りておらず、俺も一人暮らしを始めて金銭に余裕がない頃だったので、迷わずバイトに応募。
面接も無事に通り、調理のレベルも店長から認めてもらった俺は、即戦力として週3くらいで働いている。
これからの時代、男子も料理できないとって料理を教えてくれた母様ありがとう!
『朱鷺川くん、賄いに行って』
『はい』
お昼のピークを越したあたりで店長の声がして、ホールから一人の女性が厨房裏の狭いスペースにやってきた。
レッドブラウンのウルフカット。
つり目つり眉おちょぼ口。
朱鷺川美羽。
同じ喫茶店でホールを担当している女子大生だ。
「……なによ」
まずっ! 視線送ったの気取られた⁉
や、べつによこしまな心があったわけじゃないけど!
朱鷺川にそう思われるのは嫌だ!
このバイト先で一番かわいいから嫌われたくないんだぁ!
えーと、えーと、何か言い訳を考えなきゃ。
「いや、そういえば朱鷺川さんとは同じ時間帯にバイトに入ることが多いなって」
「んなっ⁉」
いい切り返しを思いついた。
と思ったんだが、朱鷺川さんの顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
*
朱鷺川美羽にとって料理とは、ゲル状のなにかか真っ黒こげのなにかだった。
祖母の代から続くメシマズのDNAが、彼女においしい料理を食べる機会を与えなかったのだ。
食事は苦行。
それが18年生きてきた朱鷺川の認識。
でも、そんなとき出会ったのが真々田優でした!
「おなかすいた……」
4月になり、朱鷺川も大学生になった。
引きこもりで終わらせた義務教育も、通信制で済ませた高校生活も終わりを告げ、学校に通わなければいけなくなってしまった。
食事が嫌で嫌で省エネを突き詰めて来た彼女にとって、外出に伴うエネルギー消費は十分な絶望だった。
「大丈夫ですか?」
朦朧とした頭に声が響く。
見上げればそこに、男が立っている。
思い返してみれば不思議な話だ。
どうしてあの時、めんどくさい手合いに絡まれたと思ったのだろう。
男性に声をかけられることをどうして嫌だと思ったのだろう。
納得できる理由を挙げるとすれば、見栄を張りたかったからだろうか。
弱みを見せたくないというなら、納得できないこともない。
どうにも釈然としない部分はあるが。
とにかく、あの時の朱鷺川は返事さえしたくなかった。
したくなかったのだが……。
ぐぎゅるるぅ。
間の悪いタイミングで腹の虫が鳴く。
恥ずかしさから顔が真っ赤に燃え上がる。
「……なによ」
八つ当たりをするようににらみつけた。
だけど男は、こちらの視線を気にも留めなくて。
「おなかすいてるんですか? でしたら、よかったらどうぞ」
「……これは?」
「玉子焼きですけど?」
「え?」
何を言っているんだ。
玉子焼きと言えば、平べったく、カラメルのような色をした食べ物だろうに。
長く引きこもり生活を続け、外食をする機会もなかった彼女にとって親から出される料理が食に対する知識だった。
朱鷺川は寡聞にして、黄色くふっくらした玉子焼きというものを知らない。
食欲、というものを久々に抱いた。
活動エネルギーを補うための作業としての食欲ではなく、目の前の料理を食らいたいという欲求。
はしたない、なんて羞恥心や、見知らぬ男が渡した料理に対する猜疑心をかなぐり捨ててでも、胃に収めたいという衝動。
男が期待するような目でこちらを見ていたということもあり、朱鷺川はひとついただいた。
「ん~~っ⁉」
未発達の味蕾が覚醒する。
体の内側から何かが破裂する。
(なにこれ、本当に料理⁉)
彼女だってお菓子くらいは食べたことがある。
そしてそれが彼女の知る一番おいしい食べ物だった。
だが、この玉子焼きはそれをはるかに凌駕する!
味覚が最適化される。
胃袋を掴まれる。
「な、なによ!」
忘我の境地からふと帰ってくると、男が満面の笑みを浮かべている。
「いや、おいしそうに食べてくれるのがうれしくって」
羞恥で悶え死にそうだった。
おいしかったもご馳走様でしたも、言葉にならない。
まして、また今度手料理を食べたいと口にするなど不可能に限りなく近い。
「あ、そうだ。俺すぐそこの喫茶店でバイトすることになったんで、もしよかったらまたいらしてくださいね!」
どうにかもう一度ご相伴にあずかる理由を探していた朱鷺川にとって、その提案は降って湧いた幸運だった。
だから彼女は、数度にわたりその店に通った。
だが、真々田とは時間が合わなかった。
時間を合わせるには、シフト表を確認するのが一番手っ取り早い。
内部に潜り込むのが最も明快。
希望は真々田と同じキッチン。
だが、その腕前は絶望的だった。
「不採用!」
ハクリキコ? カタクリコ?
何それどこの国の言葉?
彼女は生粋の料理下手の家系に生まれた。
調理実習も過去全部サボっているので包丁の握り方ひとつわからない。
調理レベルの確認は、材料をそろえる段階で中断された。得点は0点である。
ならばと皿を洗わせてみると豪快に割る。
かろうじて清掃はできるようだが、戦力としては対象外。むしろマイナス。
店長が不採用にするのも当然だ、と朱鷺川は自省する。
そのうえで、あきらめたくなかった。
「お願いします!」
頭ならいくらでも下げた。
「朱鷺川さんは容姿も整ってるし、ホールなら活躍できると思うよ? それでもキッチンがいいの?」
「……はい」
「うーん、困ったなぁ。キッチンはちょうど即戦力が入ってくれたからなぁ。入ってもらうとしたら別の時間帯に……」
「え?」
時間にしておよそ半秒。
朱鷺川が完全に停止する。
キッチンで採用してもらっても、彼とは同じ時間帯にシフトを組んでもらえない?
理解した。どうするべきか。
稼働を再開する。
「ホールでお願いします」
「え? でもキッチンがよかったんじゃ……」
「ホールがいいです。絶対にホールでお願いします」
「わ、わかった。歓迎するよ、はは」
かくして、引きこもり少女は採用試験を乗り越えた。
歴史的大挙だった。
その成果は目覚ましく、念願かなって彼の手料理を食べられるようになった。
しかも、本来ならメニューに載っていない賄い料理を!
それだけで十分幸せだった。
顔が真っ赤に上気してしまうほどに。
*
顔を紅色に染める朱鷺川に対し、俺の顔は真っ青に染まってしまいそうだ。
あ、あれ?
なんか地雷踏んだ?
怒らせるつもりなんてなかったのに。
「べ、別に! あんたの賄いが一番おいしいから時間を合わせてるわけじゃないんだからねっ!」
「どっち⁉」
「この話は終わり! 賄いの時間短いんだから!」
むぅ、煙に巻かれてしまった。
なんか好印象を持たれていた気がしたけど、気のせい?
気のせいなんだろうなぁ。
今日までそんな素振りなかったもんなぁ。
なんて、余計なことを考えながらも両手は調理の手を止めない。さっと賄いを盛り付け、朱鷺川さんに提供する。
「……真々田、いいことでもあったの?」
「え?」
「勘違いしないでよねっ⁉ 普段見ている表情より今日は少しだけうれしそうに見えるとか、細かい表情の違いなんて全然気づいてないんだから! ただなんとなくそう感じただけで――」
「だ、大丈夫です。分かってるので」
「……それはそれでムカつく」
口を尖らせる朱鷺川さん。
かわいいけど、俺にどうしろと⁉
かわいいけどもっ!
「ほ、ほら! 賄いの時間終わっちゃいますよ?」
「質問をはぐらかさないで」
「えぇ……?」
あなたが言うか。
という野暮なツッコミはしない。
というかさせてくれそうな雰囲気じゃない。
俺が正直に答えるまで解放してくれなさそうだ。
仕方ない、素直に答えるか。
「実は学科の女の子に恋人役を頼まれて、彼氏のフリをすることになったんですよ」
「……え?」
カランと。
朱鷺川さんの手から銀の匙が落ちる。
信じられないものでも見たとでも言いたげな、大きく見開かれた目が俺を覗き込んでいる。
「そ、それで、受けたの⁉」
「え? はい」
「んなっ⁉ ちょっと危機感が無さすぎるわよ! いい? 世の中には悪い女がいっぱいいるんだからね⁉」
「はっはっは」
「笑い事じゃないんだけどっ⁉」
面白い冗談だ。
男を引っ掛けようとする女性より、女性を引っ掛けようとする男のほうがよっぽど多いだろうに。
しかも男は股間で物事を考えるからなおさらたちが悪い。
「大丈夫ですよ! 花守さんはとっても優しい人です!」
「絶対騙されてるからね⁉ 女が男に優しくする理由なんて下心ありきなんだからね⁉」
「男が女性に優しくするときも同じようなもんですよ」
「そんな裏事情知りたくなかった‼」
むしろこっちが表では。
いや、それも俺が男からの視点しか持ってないからなのかな?
蓋を開けてみれば性別の違いなんてそんなに無いのかもしれない。
「……なのよね?」
「え?」
「恋人のフリ、なのよね?」
「うっ、はい」
今はまだ、ですけど!
そのうち正式にお付き合いさせていただく所存ですけど!
……どうしよ。
これで舞い上がってるの俺だけだったら。
本気にした? 残念でしたーなんて言われたら。
えー、やだ。悲しくなる。
なんて、思案に暮れていた俺は、次の朱鷺川さんのセリフを聞き逃しかけた。
「だったら! アタシとも恋人のフリをして!」
「……へ?」
だから思わず問い返してしまった。
いや、俺は難聴系主人公じゃないけど。
誰にだって聞き間違えることはある。
それが俺はたまたま今日だった。
そういう可能性もある。
「か、勘違いしないでよねっ。別に、アタシが先に好きだったのにぽっと出の女に盗られそうになって焦ってるとかじゃないんだから!」
「朱鷺川さん、本音漏れてる」
「真々田が騙されやすくて心配だから、気にかけてやってるだけなんだから!」
「もはや本音を隠そうとすらしていない⁉」
この人こんなキャラだったの⁉
キレイな花には棘がある的な、近寄りがたいけどクールビューティーな人かと思ってた!
さてはぽんこつ寄りの人間だな⁉
これがギャップ……!
高嶺の花に見せかけてその実親しみやすいキャラクターとか最強属性か⁉
「それとも……嫌かな……アタシみたいな、素直じゃない女」
「ぐはぁっ!」
「真々田⁉」
ちょ⁉
ここにきて可憐な一面を見せるのは反則!
危ないところだった。
どうにか致命傷で済んだぜ。
「全然嫌じゃないです! むしろすっげえ嬉しいです。嬉しいんですけど……申し訳ないですよ。俺なんかのために、朱鷺川さんの人生の一部をもらうなんて」
「べ、別に真々田のためだけじゃないんだから! これは、その……見たいミュージカルがカップルだと割引になってお得だからよ! アタシのためでもあるんだから!」
おお……!
あたかも打算があっての提案という体を装って俺の申し訳なさを軽減させようとしてくれるなんて、なんていい人なんだ……!
「あはは。そういうことならぜひ」
「い、いいの⁉」
「はい! 俺も1回行ってみたかったんですよ! ミュージカルってやつ!」
――1回で済ませる気はないんだけどねっ。
まただ。またこの感覚だ。
なんだろう。今日はちょくちょく肌寒くなるな。
もしかして俺の体調が悪いのか?
『朱鷺川くん、そろそろ戻れる?』
再び店長の声がかかる。
朱鷺川さんは慌てて賄いをかきこんだ。
そして盛大に喉に詰まらせた!
「朱鷺川さん! 水!」
「ん――っ!」
慌てて水を汲んだコップを置くと、朱鷺川さんがばっとコップをさらった。
その時手が触れて、俺はちょっとだけ脈拍が上がった。
耳とか赤くなってないかな……俺。
「……美羽でいい」
コップを置いた朱鷺川さんが、顔を染め、少し涙ぐんで言う。
「アタシも、これから真々田のこと優って呼ぶから。そんだけ!」
言うだけ言い放つと、朱鷺川さんはホールへと戻っていった。
(名前覚えててくれたんだー)
やっぱりいい人だなぁ、朱鷺川さん。
「いや、美羽って呼ぶのか、これからは」
お互いに下の名前で呼ぶ……。
なんかすっげえ恋人同士っぽいな!
*
「実は学科の女の子に恋人役を頼まれて、彼氏のフリをすることになったんですよ」
採用されてからおよそひと月。
真々田優が打ち明けた衝撃の事実に朱鷺川は目じりが裂けんばかりに目を見開いた。
(なんで? わけがわからない。ねえどうして?)
アタシのほうがずっと前からあなたのことが大好きだったのに。
アタシのこと嫌いになった?
何がダメだったの?
ねえ、アタシ真々田が望むならどんな容姿にだって変わるよ?
髪型も髪色も、あんたのタイプに合わせるよ?
アタシが一番誰より真々田に尽くせる。
誰より一番近くで支えていける。
だから、そんなどこの馬の骨かもわからない女にたぶらかされないでよ。
「だったら! アタシとも恋人のフリをして!」
胸が苦しくて、切なくて。
限界だった。
思いを抑えきれなかった。
付き合って、なんてずっと言えなかった。
現状が壊れるのが怖くて、維持に逃げていた。
だけど、他の女に取られるくらいなら、私が。
ねえ、いいでしょ?
「それとも……嫌かな……アタシみたいな、素直じゃない女」
怖くて声が震えている。
答えを知りたくなくて、でも受け入れてほしくて。
「全然嫌じゃないです! むしろすっげえ嬉しいです」
だから、そう言ってくれたのが、本当に嬉しくて。
顔を見ていられなくなって。
「……美羽でいい。アタシも、これから真々田のこと優って呼ぶから。そんだけ!」
捨て台詞を吐く悪役みたいに、足早にホールへ向かう。
(次から美羽って呼んでくれたら嬉しいな……♡)
上気した頬が、なかなか収まってくれなかった。
*
バイトを終えて外に出ると、ちょうど向かいの学習塾が明かりを落とすころだった。
すっかり暗くなってしまった夜道を、街灯を頼りに歩き出す。
大学生になって一人暮らしを始めて早1ヵ月。
立ち並ぶ建物の列にも顔なじみのような感覚を覚え始めていたのだが、今日は少し、いつもと違う気がした。
はて、何が違うんだろうか?
疑問の答えはすぐに分かった。
市役所横にある、少し広めの公園。
夜になっても街灯が明るく照らしているバスケットコート。
そこに、女の子がいた。
年のころは中学生くらいだろうか。
ダムダムとドリブルするボールハンドリングは見事なもの。フリースローラインまで移動すると、両手打ちで放たれたシュートがネットを静かに揺らす。
少女は肩で息を吐くと、シャツで汗を拭った。
まくられた衣服。おへそがチラリズム。
(こんな夜遅くに女の子がなんて無防備な格好をしてるんですかぁぁぁ⁉)
明るい茶髪のポニーテールを揺らし、少女は練習を再開する。
どうやらまだ帰るつもりはないらしい。
世の中には怖い男がいっぱいいるのに!
危機感がなさすぎる!
「誰?」
どうしたものかと考えていると、こちらの気配に気づいたのか、少女が問いを投げかける。
俺が答えずにいると、少女はシュートを放ち、こちらに振り向いた。
シュートはネットを揺らし、ゴールポストの下でバウンドを繰り返す。
ぱっちりとした大きな目。
まだあどけなさの残る顔立ちが、こちらを覗き込んでいる。
「もう夜も遅いよ。お母さんも心配するだろうし、家に帰った方がいいんじゃないかな?」
「余計なお世話」
少女はつま先を俺からゴールポストに向けなおすと、ゆったりと歩き出した。
地面に止まったボールを器用に叩く。
手のひらに吸いつくようにボールが起き上がり、少女がダムダムとボールを突く。
「……ウチには、バスケに一番大事な身長がないから」
がしゃん。
ボールはリングに嫌われて、あらぬ方向へとはじかれた。
その先にいるのは俺だった。
身長がないから。
その言葉に続くのは、人よりいっぱい練習しないといけない、だろうか。
「オーケー。無理に帰れと言うのはやめるよ」
彼女に練習をやめる気が無いのは分かった。
だけどこんな夜遅くに、女子中学生が一人出歩くのを看過できるほど俺は腐っちゃいない。
地面に転がったボールを掴み上げる。
外用の、グリップの利かないボールをワンハンドで。
これは挑発。
「ただし、俺が負けたらだ」
「え?」
「1対1だ。まあ、負けるのが恥ずかしいっていうなら、強制はしないけどな」
「――ッ! 言ってくれますね」
獰猛な笑みを浮かべる少女を前に、考える。
負けられない戦いになってしまった。
さて、どう攻めたものか、と。
身長は俺のほうが高い。
シュート時もジャンプの溜めに要する時間が短い分、俺のほうが有利だろう。
少女もそのことを意識しているのか、少し間合いが近い。
だからドライブで勝負する。
レッグスルーのタイミングで少し体を浮かし、抜きにかかる拍子を一拍ズラす。
刹那の駆け引き。
少女が垂らされた釣り糸を前に我慢を見せる。
瞬間、母指球を使い最高速度で置き去りにした。
「え⁉」
フリー状態で放たれたレイアップは、ボードにぶつかりネットに吸い込まれる。
少女が驚いたようにこちらを見ている。
「なめてかかると痛い目見るぜ?」
「……あはっ! 面白いじゃん!」
少女にボールを渡す。
舌なめずりする様子にちょっと見とれた。
「あ」
「ふふん、お返し」
俺が見とれた虚を突くように、ヘジからのクロスオーバー。鮮やかに抜かれてしまった。
レイアップを決めた少女がボールをこちらに渡す。
こんにゃろう!
先のドライブを警戒してか、少女は1度目より少し距離を取っている。
だから俺は、3ポイントラインからさらに一歩後ろに下がった。
同時にゴールに視線を飛ばす。
「くっ、させな――っ⁉」
シュートフェイク。
慌てて飛び出した少女がしまったと後悔を表情に出す。
焦りで乱れた思考が落ち着く前に、俺はパスのフォームで少女の背中側に腕を伸ばす。
「パス――っ⁉」
「こっちだ」
回転を掛けてコートに落とされたボールが、跳ね返る時に方向を転換する。
俺から見て右、パスルートに体を向けようとする少女に対し、ボールと俺の体は左方向へと流れる。
よし、これでもう一本。
レイアップを決めて、ボールを回収。
少女にパスしようとして、気づいた。
俺が抜き去ったときの位置から一歩も動いていないのだ。
「どうかしたか?」
「ななな! なんでもありません! そ、それより早く! ボールをください!」
「……? おう」
ボールを受け取ると、ダムダムとドリブルが行われる。右か左か。少女がどちらに切り込むのかを判断するべく、少女の顔を覗き込む。
「~~ッ⁉」
あれ? 顔赤くね?
「熱でもあるのか?」
「ち、ちがいま、ひゃ――っ!」
少女の指からボールがすっぽ抜ける。
ふむ。
さっきまであれだけ精細なボールさばきをしていたのに、こんな凡ミスとは。
まあうまく見えても中学生だもんな。
ちょっとした精神の乱れで大失敗もするよな。
「んじゃ、1対1は俺の勝ちだな。約束通り――」
「ん‼」
少女は怒声を上げて指を3本立てた。
「さ、3本勝負?」
こくこくと頷くたびに、ポニテが揺れる。
ここまで俺が2本決めて、少女は1本。
次に俺が決めればそれで終わり。
俺が外して彼女が決めれば同点。
その時はデュースかな?
「いいぜ。相手になって――」
ここで決めればそれで終わりだ。
そう思って、勝負に乗ろうとした時だった。
「キミ達! 今何時だと思ってるんだ!」
(やっべぇ! お巡りさんだ!)
夜の公園。男子大学生と女子中学生。
この状況ってすごくまずいんじゃ……。
違うんです!
俺は彼女が家に帰れるようにと――
「そっちの男子。キミは彼氏さん?」
なんでだよ。
女子中学生相手に交際しているって発想がなんで出てくるんだよ。
違うし、仮にそうだったとしてお巡りさん相手に肯定するわけがないだろう。
「違いま――」
「そうだけど、何か文句あるの?」
「おい」
このJCは何言ってくれちゃってるんですかねぇ⁉
やめてお巡りさん!
俺何も悪いことしてないんです!
やらしい気持ちがあって近づいたわけでは決して――
「はあ。親御さんも心配してるだろうし、そろそろ帰りなさい」
「はぁい」
「彼氏さんも、節度を持ってお付き合いするように」
「え? え? え?」
え、そんな緩い感じでいいの?
大丈夫かよこのお巡りさん。
俺がロリコンだったらとか考えないの?
釈然としないまま、俺たちは公園を出た。
少女の歩行速度に合わせて隣を歩く。
「なんで彼氏なんて嘘ついたんだよ」
「まだ勝負はついてないから。逃亡は許さない」
「そ、そんだけのために……?」
少女はこくんと頷いた。
ポニテが揺れる。
「風越詩」
「ん?」
「教えてよ、お兄さんの名前も」
「おお、真々田優。3月末にこのあたりに越してきた大学1年だ」
「ふ、ふぅん」
このあたりに越してきたと言った瞬間、少女がぴくんと反応した気がした。
ふぅんという声は生返事を装っていたが、なんとなく弾んでいるようにも聞こえる。
「じゃ、じゃあ、また、会える?」
ふいにぴたりと足を止めた少女が、指をもじもじさせながら口に出す。
その上目遣いは犯罪だろ!
何かに目覚めそうな気がする……!
「夜遅くまで練習するおてんばさんを、放っておくわけにもいかないだろ」
「……っ! 約束、破ったら承知しないから!」
おずおずと言った様子で、俺の手に指を絡める詩。
……恋人って、あくまで名目だよな?
あんま考えないようにしよっと……。
*
翌日。県内の中学校。
スキール音が鳴り響く体育館。
バスケットコート横に設置されたタイマーが、刻一刻と時間を刻んでいる。
22秒03。
それが風越詩に残されたわずかな時間だった。
10分間のミニゲーム。
点差は1点ビハインド。
1ゴールでひっくり返る点数。
だが問題は、攻撃権を相手が握っているという事実だった。
(くっ、時間をフルで使われたら負ける!)
24秒ルール。
バスケットにはオフェンスの際、24秒以内にシュートを打たなければいけないというルールがある。
だがしかし、言い換えれば24秒間はボールをキープする権利があることを意味している。
詩が逆転する最低条件は、約20秒の間に相手チームからボールを奪い、相手コートに切り込み、シュートを決めること。
そのうえ、時間を残してゴールを決めてしまった場合は点差を守り切らなければならない。
(勝つ、絶対に――!)
詩の眼光がギラつくのと、体が動き出すのはほとんど同時だった。
にらみ合いの状態からの、急激な加速。
ドリブラーの手からボールが離れた一瞬の隙を突き、詩がボールを奪う。
「しま――っ!」
ボールを取られたバスケ部員が振り返るがもう遅い。
詩は既にドリブラーのリーチを抜け、相手コートに踏みこもうとしている。
ドリブルが詩のすべてだった。
足りない身長を補うために、誰よりもドリブルの練習をしてきた。
(でも、足りなかった――!)
思い返すのは昨日の夜。
公園で出会った男子大学生のことだ。
(学ぶことは多かった。その動きが、今も脳裏に焼き付いて離れない……)
身長差があった。
だけどその大学生はあえて平面で勝負を仕掛け、詩はそれを止められなかった。
「このっ! 調子に乗んな」
ディフェンスのひとりが詩に追いつく。
ゴールへ切り込む道が分断される。
(拍子をずらすのは、ほんの一瞬だけ!)
攻撃を仕掛けるタイミングがわずかにずらされる。
ただそれだけのことで、ディフェンスは重心移動が後手に回る。
そのコンマ数秒の時間があれば、ドライブで切り込める!
(抜けた……!)
フリーになったゴールに詩がボールを届ける。
リングを転がったボールは吸い込まれるようにネットを揺らした。
*
「詩今日絶好調だったじゃーん!」
「……うん、そうかも」
部活終わりの帰り道。
友達と自転車で並走しながら、詩が考えていたのは今日の練習のことだった。
(今日はいつも以上に体が動いてくれた)
いいお手本を得たからだろうか。
たった数回の攻防だったけど、ドライブのタイミングや駆け引き、足の運び方。
ハイレベルのプレイスキルを目の前で体感できたのは、詩にとって大きな成長だった。
それに、あの胸板も――
「詩?」
「ひゃぁっ⁉ な、なに?」
「信号青だよ?」
「うっ……ボーっとしてたかも」
「おやおや? あの詩が上の空なんて珍しい! 男でもできたかー? ほれほれ」
「ちょ、違うって……まだそんなんじゃないし」
「まだ?」
あ。
「待って、今のナシ!」
「にゃはは。やっぱ詩も女だったんですなぁ?」
「だから違うって!」
「恥ずかしがらなくてもいいじゃん! だれだれ? この恋愛マスターが相談に乗ってあげるよ? 2組の池尾?」
「いや、無いわ。あれは無い。ガキじゃん」
「おお……辛辣だね。ってことは上級生?」
「上級生っていうか……うん、まあ」
中学生どころか、大学生なんだけどね……。
なんて、言うわけにもいかない。
「にゃはぁ! あの詩がそこまで入れ込むとはいったいどんな男性なのだ⁉」
「……それ、言わなきゃダメ?」
「言わなくてもいいけど、翌日にはバスケ部全員からの詰問が待っているであろう!」
「ちょ、わかった。言うから! それはやめて?」
下手を打った。
なんて思いながら振り返る。
どんな男性だったか。
一番印象が強いのはバスケがうまいことだけど、それを言ったら「男バスの先輩だ」と邪推される。
もっと曖昧に、けれどごまかしが気づかれない程度に表現するなら……。
「ちょ⁉ 詩⁉ 鼻血出てる‼」
「……⁉」
1対1の2本目。
いまだに何が起こったか分かっていない、パスを出したようにしか見えなかった1回。
詩の目と鼻の先にあったのは、ぶつかるすれすれの、男子大学生の胸板だった。
(あんなエッチなの、反則でしょ……!)
あの瞬間、詩の集中が切れた。
迸るフェロモンに性欲が刺激され、途端にムラムラが止まらなくなった。
下腹部がこれまでにないほどきゅんきゅんして、みるみるうちに欲情していくのが自分でもわかった。
「……ねえ詩。詩がそこまで惚れこむ相手、すっごく興味あるんだけど」
「だ、だだだ、ダメだよ⁉」
「えー、いいじゃん? 紹介してよー!」
「ダメ! とにかく絶対ダメ!」
現状詩と男の接点はバスケのみ。
バスケをしてる間はバスケット選手として仲良くなる機会がある。
だけど、女としては?
鼻血を抑えた状態のまま、自らの胸に問いかける。
自分はちっぽけな存在なんだと、海より雄弁に語り返してくる。
異性を欲情させられるかどうか……。
その点隣の友達はどうだ。
既にCに到達し、いまなお成長は目覚ましい。
勝てる気がしない。
(……バスケの邪魔にしかならないって思ってたけど、そうも言ってられないかも)
バストアップマッサージも習慣化していこう。
小さな獣はひとり闘志を燃やすのだった。
*
怒涛の1日を終えた翌日の大学。
俺は、毎週この曜日になると思うことがある。
大学の1コマに開講される必修科目を許すな。
まず、早起きしなければいけない。
そして空きコマができやすい。
これが本当に迷惑千万極まりない。
それで空き時間を持て余した俺は、たまたまこの時間に集会しているサークルに入っている。
「今日はお早いんですね、真々田さん」
国際交流センター、2F。
サークルの集会場として使われるその広場の一角に女性が腰かけている。
オフショルダーのブラウスにプリーツスカート。
長身によく合う黒髪のロング。
ふっくらした唇と泣き黒子が色気を爆発させるお姉さんが、俺の学科の先輩。
写真サークルの、月姫こよみ先輩だ。
「こよみ先輩に早く会いたくて」
「あらあら、あまり年上をからかってはいけませんよ?」
口元を手で覆い、しかし目元で分かるようにくすくすと笑みを浮かべる先輩。
これだけでもこのサークルに入った甲斐がある。
というか、俺と、大学に入ってできた男友達が写真サークルに入った動機はこよみ先輩が理由だった。
そして思いつく。
今日の1コマは学部単位の横割り講義。
俺のクラスは早く終わったが、他のメンバーが合流するまでは少し時間がある。
それはつまり、先輩と仲良くなるチャンスということなのではないだろうか?
あるいは神からの月姫こよみと仲良くなれという思し召しなのではないだろうか?
いや、そうに違いない!
そこで俺は考えた。
常人の熟考に値する逡巡。
それを可能にさせたのは大学生という獣が持つ性欲……!
刹那閃く。
「じゃあ年下の俺をからかってください」
年上をからかってはいけない。
裏を返せば、年下はからかうべきということだ。
我ながら完全無欠の理論武装。
先輩だって呆気に取られている。
「まったく、イケない子ねぇ?」
「……へ?」
俺がしたり顔をできたのは一瞬だった。
次の瞬間、腰かけていた椅子から立ち上がった先輩が、ゆっくりと俺に詰め寄ったからだ。
妖艶な雰囲気に気圧される。
じりじりと後退を余儀なくされる。
背後に壁が立ちはだかった。
もう後は無い。
先輩の顔が、目と鼻の先にある。
わずかに残った理性が知覚するのは先輩の吐息。
「ねえ、付き合ってくださる?」
「付き合っ⁉ え⁉」
先輩に手を引かれる。
らせん状の階段を駆け降りる。
ちょっとこよみ先輩⁉
集会はどうするんですか⁉
*
海だ。
こよみ先輩に連れられて、俺は海に来ていた。
「キレイですね。陽に照らされて、きらめく海は」
防波堤に立ち、潮風に髪を揺らすこよみ先輩の横顔に見とれていた。
海よりも先輩のほうがきれいですよ、なんてキザな言葉がとっさに出てこないほどに、芸術的な美しさが目の前にあった。
「ねえ、真々田さん。後ろからぎゅってしてくださる?」
「それは、バックハグ的な?」
先輩は照れくさそうに頷いた。
え、いいんですか?
むしろ俺からお願いしたいくらいですが?
と、悩んでいる間に体は動いていた。
躊躇してる間に発言を撤回されれば俺は生涯後悔を抱えて生きていただろうからナイス判断だ。
――カシャ。
「ん?」
なんだ今の音。
カメラのシャッター音っぽかったけど……。
「あの、先輩」
「なんでしょう?」
「その手に握っていらっしゃるのは?」
先輩が首から上をひねる。
顔がすぐそこにある。
「一眼レフです! コツコツ溜めたバイト代で新調いたしましたの!」
……あ。
「もしかして、付き合ってって……」
男女交際的な意味じゃなくって、新品のカメラの試写のこと――
「大人をからかっちゃメ、ですよ?」
ぴと。
先輩の柔和な人差し指が俺の唇に押し付けられる。
先ほどまで大人の色気を見せていたこよみ先輩は、イタズラが成功した子供のような笑みを浮かべていた。
(か、からかわれた……ッ⁉)
道理で!
先輩の口から付き合ってなんて言葉が出るのおかしいと思ったんだよな!
ああああああ!
俺、めっちゃ恥ずかしいじゃん!
自意識過剰すぎる!
先輩みたいな美人、引く手あまただぞ!
俺に好意があるんじゃ、なんて思い上がりも甚だしすぎるだろ……!
「昔から夢でしたの。好きな人と一緒に、海を背中に写真を撮ることが」
「え?」
好きな人って言った?
いま好きな人っておっしゃりました⁉
「戯れ言です」
「ぐぎゃあぁぁぁぁぁ⁉」
また騙されたぁぁぁぁ⁉
「というのは戯れ言です」
「どっち⁉」
「もちろん戯れ言です」
もうやめて……!
とっくに俺のライフはゼロよ……!
あ、でもくすくすと顔をほころばせる先輩を見ていたら活力がわいてきた。
生きてるって素晴らしいな!
「ほら、ご覧いただけますか? キレイに撮れていると思いません?」
と、身を寄せた先輩と肩が触れ合う。
俺は耳まで真っ赤になりかけたが、先輩は手元のカメラに夢中みたいだ。
「……本当に、キレイですね」
海も、先輩も。
「それで、その、もしよければ、ですが……」
先輩が俺の胸板に寄り添う。
声色は、わずかに震えている。
「サークルのグルチャに上げてもよろしいですか?」
……え?
このバックハグしているツーショットを?
サークルのグルチャに?
「俺は構いませんけど(食い気味)、先輩はそれでいいんですか? 変な噂とか流れても知りませんよ?」
「問題ありませんね(むしろそっちを期待していますし……)」
「へ?」
「なんでもございません」
数時間後、PC経由でデジタル化された写真がサークルのグループチャットに投稿された。
集会をすっぽかした俺たちは一緒に怒られた。
*
月姫こよみは変態である。
ドがつくレベルの変態である。
先ほどサークルの後輩の真々田優を海に連れ出した時も、実はノーパンで過ごしていた。
海風がプリーツスカートを巻き上げると人生破滅しちゃうなんて状況に自らを置き、背徳感で遊ぶような上級者だった。
「あぁん……ッ、らめぇ♡ あッ♡ あッ♡」
自宅に帰って、写真を現像して。
月姫こよみは布団でシーツを抱き寄せながら声を押し殺していた。
片手には写真が握られていて、豊かな想像力の中では彼と一緒に横になっている。
妄想の中での立場はMだった。
自分一人だけ服を剥がれて、忠誠の口づけを迫られる世界に耽溺していた。
(――ッ、だめっ、いつ妹が帰ってくるかわからないのに……)
月姫こよみは変態である。
ドがつくレベルの変態である。
だがしかし、その事実を知るのはただ一人。
月姫こよみ本人だけである。
両親や妹にさえ、その真実をかけらたりとも掴ませていない。
清楚で品行方正な優等生。
それこそ彼女が20年掛けて作り上げた仮面。
そして、抑圧の象徴でもあった。
「ふっぎゅぅぅぅぅぅ♡」
理想の自分を汚すのは気持ちがいい。
みんなの期待を裏切っているという実感が、月姫こよみの快楽中枢を麻痺させる。
中でもこの日は特別理性が崩れていた。
「真々田くんっ♡ 真々田くんっ♡」
ちょっとからかうだけのつもりだった。
だが思った通りにはいかなかった。
(濃厚雄フェロモンずるいのぉぉ♡ あんなのにあてられたらおかしくなっちゃうっ♡)
優等生としての仮面がなかったらあの場で襲っていた。
相手次第では警察沙汰になっていてもおかしくなかった。
理性が持ったのは幸運であり、不幸でもあった。
手を出してしまっていれば、今こうやって悶々とくすぶり続ける衝動に身を焦がされる必要もなかったのに。
(次の飲み会で送り狼してしまいましょうかっ♡ 確か彼、一人暮らししてるって話ですものっ♡)
恋する乙女の妄想は止まらない。
(酔っぱらって理性を失った彼を肉欲に溺れさせて、私同様に破滅の道を歩ませるっ♡ あはんっ♡ サイテーでサイアクな私っ♡)
高ぶりが最高潮を迎える。
内からほとばしる衝動に身を震わせる。
「はぁ……はぁ」
余韻が心地よい。
天にも昇るようなふわふわした気持ちで、次の一手を考える。
外堀を埋めるという言葉がある。
古い時代、敵の城を攻め落とす際には外周に作られた防衛用の堀を埋めるところから始めたことに起因する。
転じて現代では、目標を達成するために周辺からじわじわと攻略していくことを意味している。
童貞というのは一度も攻め落とされたことがない難攻不落の城だ。
対して処女は一度も攻め込んだことのない兵士。
やはり先に宣言した通り、グルチャにツーショットを投稿するのはマストだろう。
写真サークルメンバー全員を巻き込んで、自分たちが付き合っているという噂を周知の事実にしてしまうのだ。
嘘も100回つけば真実になる。
一人虚を伝うれば万人実を伝う。
入り混じった虚実というのは多数派が真実なのである。事実はしばしば虚構に飲まれる。
告白?
必要ない。
七面倒くさい工程をまるっとすっぽかして、挙式を迎える。
それが月姫こよみの導き出した最適解だ。
「くすくす、一緒に転がり落ちましょう? ゆるりゆるり、と」
パソコン経由で吸い出したツーショット画像をLinearにアップロードする。
すぐさま既読がふたつみっつ、みっつよっつと増えていく。
・ちょっと! 集会すっぽかして何してんの⁉
・かーっ! 公衆の面前で見せつけてくれやがりますね……(怒)
・え、えぇぇ⁉ もしかしてこよみ先輩と真々田付き合って⁉
反応ににやにやが止まらない。
だが、ここではあえて付き合っているとは言わない。
目的は彼女自身が喧伝することではなく、周囲が「あの二人もう付き合ってるだろ」と認識すること。
それまでは虎視眈々と機をうかがい続ける。
『うふふ、そんな関係じゃありませんわ。ただ優さんには被写体として協力を仰いだだけですわ』
・な……名前呼び⁉
・やっぱり付き合ってるじゃねえか!
・ヒューヒュー
・ちょ、違いますからね⁉ こよみ先輩も! あんまり勘違いさせるような言い方しないでください!
最新のリプライは意中の相手からだった。
もう少し誤解を広めたかったのに、残念だ。
残念で残念で仕方ない。
だから、誤解を加速させよう。
『ムキになるところが怪しい』
・なんで先輩がそっち側なんですか⁉
(ああ、もう、本当にかわいいなぁ)
湿った指を下唇にはわせる。
大人の色香、エロスを纏う魔性の女。
月姫こよみは変態である。
*
中央列やや後方通路側。
そこが俺と俺の友達が講義を受けるエリアだった。
大学の講義は座席が自由な場合が多い。
だが、何故かどの講義でも、場所と人は半固定されている。
勉強ガチ勢の最前列。
少し中央により女子の列。
俺たちはそのさらに後方部隊。
ギリ陰キャの外に位置するやつら。
なお、さらに後方になると脱出常習犯のウェイ系がいるのでやはりこの位置が一番みじめなポジション取りかもしれない。
「お、真々田早いな」
俺が持参した弁当をスマホ片手に突きながら、あまり意味のない席取りをしていると、午後の講義25分前くらいに仲のいい男子が一人やってきた。
絶賛お口がもぐもぐタイムだったので片手であいさつを済ませる。
友人はすっと俺の横に座った。
「いやー、毎回助かるよ」
口の中のものを飲み込み聞き返す。
「何が?」
「席取りだよ」
「なんだ急に気持ち悪い」
学科の必修科目なんてほとんど座席固定みたいなもんだろ。
別に俺が取らなくても、多分みんな遠慮する。
そんなことにわざわざ感謝の言葉を使う?
何か頼みづらいことの前振りか?
悪いけど野郎のお願い事は親でも断る主義だぞ?
「ん?」
相手の意図を探ろうと顔を覗き込んだ。
そこに、違和感を覚える。
(こいつってこんなにのっぺりした顔だったっけ?)
のっぺり、という表現は適切じゃないかもしれない。
だが、こいつは小中高と野球をしていて、ガタイも顔つきもいかついやつって印象だったはずだ。
それなのに、なんだろう。
目の前の男からは、運動をあまりしてこなかった人間の雰囲気がにじんでいる。
「お前って、野球部だったよな?」
確認。
最初に仲良くなったやつだから間違いはないはずだけど、なんとなく。
本当に、なんとなくだったんだ。
「は? 違うぞ?」
「……え?」
「いや、興味はあったけど、田舎で人数がそろわなくってな」
「野球の人数すらそろわないってどんな限界集落だよ……」
「いや男子はいたんだけど野球したいってやつは少なくって……俺真々田にこの話したっけ?」
「……聞いたことがないな」
記憶違いだろうか。
野球部だったのはまず間違いなくこいつだったはずなんだが。
でも、今の話に噓の匂いはしなかった。
本当のことを言ってる気がする。
野球したいやつが少ないって、珍しい地域もあるんだな。
俺の地元だとなんだかんだ一番人気の球技だったけど。
「あ、でも女子ソフトボール部は全国常連校だったぞ」
「なんでだよ」
男子野球部がなくって女子ソフトボール部があるってどんな学校だよ。
いや俺が知らないだけで珍しくないのかもしれないけどさ。
なんて、くだらない話をだらだらと続けておよそ20分。
教室の座席も見慣れた顔ぶれがそろったころ。
俺は花守さんがいないことに気づいた。
(どうしよう。Linear送ってみようかな)
昨日連絡先を交換したはいいものの、バイト後は詩を家まで送り届けたせいで帰宅したときには夜が遅く、メッセージを送れていなかった。
連絡を入れる、いいきっかけかもしれない。
『花守さん、今日休み?』
連絡を入れる。入れた。瞬間、既読がついた。
え、はや。
・心配かけちゃった?
・ごめんね?
・ちょっと遅れるかも
ほ、病気とかじゃなかったのか。
よかったよかった。
これで一安心。
・席まだ空いてる?
・もしよかったら取っておいてくれると嬉しいなー
・なんて図々しいかな?
ご用意させていただきますお嬢様。
と、入力して送信前に思いとどまる。
俺の座席は中央後方。
後ろ側の入り口から入っても、少し遠い。
入口付近に場所をとったほうがいいか。
最後方の席は空いてるかと確認。
ウェイ系が集まっているが、ちょうどひとつだけ空いてる長机がある。
うれしくって涙がちょちょぎれるね。
「わり、俺後ろの席行くわ」
「真々田⁉」
めちゃくちゃ驚いた顔をされた。
なんで? と思ったがすぐにわかった。
ははーん。
さては嫉妬だな?
俺は慰めるようにやつの肩を叩いた。
「お前にもいつかいい人ができるよ」
「何の話だ⁉」
……あれ?
俺こいつに花守さんの話したっけ。
僻むも何も無い気が。
まいっか。
『教室後ろ側の出入り口付近で場所取りしてるね!』
花守さんと一緒に受講できることと比べれば些細な問題である。
*
講義が始まって5分ほど経って。
「(ごめん! ありがとー!)」
教師が黒板を向いたタイミングで扉がすっと開いた。
それから癒される、天使の声がする。
花守さんが来た!
「(全然大丈夫! 出席も代筆しといた……よ)」
うきうきしながら、横に腰掛けた女性のほうを向く。
向いて、思わず息をのんだ。
クリーム色の二つ結びの髪に、眼鏡をかけた文学少女。
それが昨日までの花守さんの印象だった。
だけど、今はどうだろう。
胸ほどまであった髪を肩口くらいに短くし、眼鏡を外してコンタクトレンズにしている。
ファッションも大人しめのものから、少し大人びたものに変わっている。
垢抜けた。
一言で表現するなら、そんな言葉が適切だった。
「(う、変、かな……やっぱり)」
顔を赤らめながらも、視線はきっちり俺に向けられる。
「(そんなことない! めちゃくちゃ似合ってるよ! タイプ過ぎて心臓止まるかと思った!)」
「(タ、タイプだなんてそんな……えへへ)」
可愛すぎんだろぉがよぉぉぉ!
あー、周りの奴らに自慢してえ!
俺、彼女の恋人なんだぜ? って!
今はまだフリの上予約だけどな!
言ってて悲しくなってきたぞ?
「(あれ? もしかして今日遅れたのって)」
「(うぅ……、その、やっぱり恥ずかしくって)」
はいかわいいー。最強。
俺が守らねば。
「(そ、それで! よかったらなんだけど!)」
ずい、と。
花守さんが席を詰める。
「(今日の講義って真々田くんもこれが最後だよね?)」
「(うん? うん)」
「(だ、だよね! だから、その……)」
揺れる瞳に覚悟が灯る。
「(一緒にカラオケとか、どうかな……?)」
ただでさえヒソヒソ声量を落としていた声を、さらに消え入りそうに。
花守さんは口にした。
*
ぎんもぢいいぃぃぃぃ!
遅刻の理由を真々田くんにはおめかししていたからと言ったけれど、あれは半分嘘。
本当の狙いはLinearを送る口実と、彼の隣で講義を受ける大義名分を作ること。
それがまさか彼のほうから気を使って連絡を入れてくれるなんて!
えへへ、もしかして思ってる以上に脈ありなのかな?
真々田くんの隣で講義を受けている間、私の優越感は天井知らずだった。
周りの女子たちが牽制しあっている間に抜け駆けするのは気持ちがいい。
みんなも今日になって彼の魅力に気付いたようだけど一手遅い。
嫉妬と羨望の眼差しが突き刺さる。
グッジョブ昨日駅前にいた私!
そして――
「フリータイムで」
――勇気を出してカラオケに誘った私!
「えと、真々田くんはドリンク何にする?」
「んー、オレンジジュースかな」
「わっ、本当? 私も好きなの!」
大体のジュースは好きだけど。
オレンジジュースが好きというのも嘘じゃない。
おそろいの飲料を手に、個室へ向かう。
個室へ向かう……!
「(な、なんで真々田くんは平気なの⁉)」
液晶が照らす薄暗い部屋に男女がふたり。
過ちが起こってもおかしくない。
乙女でお茶目な花守咲桜は終始心臓が破れる一歩手前だよ。
それなのに、意中の相手からは襲われるという危機感がまるで感じられない。
世界有数の精力と男らしさあふれる顔立ちを有しているのに、だ。
――もしかして、女慣れしてるの?
許さない。
彼を愛していいのは私だけだ。
過去も未来も。
ただの一度でも彼にちょっかいをかけた女がいるなら――
「でも、本当に嬉しいな。俺、女の子とふたりきりで出かけたことなんてなかったから」
「……え?」
「今日は誘ってくれてありがとう。花守はどんな歌が好き?」
「え、えっと、えと……っ⁉」
いないの⁉
逆になんで⁉ なんで逆に⁉
っていうか私が初めて。
初めてが私。
……にへへぇ。
ダメ、にやけ顔抑えられないっ!
お、落ち着いていこう?
当初の目的を思い出していこう。
私は思いを言葉にするのが苦手だけど、歌声でならラブソングを届けられる。
彼にめいっぱいのアピールができる。
「えと、じゃあ『人を恋せば』にしよっかな」
「それめっちゃ好き! ラスサビ前の儚い感じから一転駆け抜けてくのめっちゃいいよね!」
「そ、そうなの! それに、全体を通して共感できる歌詞ばっかりで――」
好きな曲が似通ってる。
ただそれだけなのに、胸が痛いほど高鳴っている。
緊張で声が上ずりそうになる。
でも、一度やるって決めたんだ。
全力の思いを乗せるんだ、この歌に。
届け、私のドキドキ……!
「凄い! 花守さんの歌声めちゃくちゃかわいい!」
「か、かわ……っ」
「もっと聞きたい!」
「~~っ♡」
ダ、ダメだよ……!
そんな風に求められたら、私……っ♡
「つ、次は真々田くんの歌を聞かせて!」
「んー、じゃあその次はまた花守さんの番ね?」
下腹部が放つ熱量に、私の自制心はギリギリだった。
口を開けば何を言い出すかわからなかったので、どうにか首を振って提案を受ける意を示した。
隣で彼がタッチパネルを操作してしばらく。
音響機器からメロディが流れる。
「あ、この曲」
知ってる曲だった。
というより、好きな曲だった。
アイドルユニットが歌うラブソングだ。
この曲のセンターを掴んだアイドルは『人を恋せば』のボーカルの熱狂的なファンであることを公言していて、ネット上ではアンサーソングなんて言われていて……
(あっ♡ あっ♡ ダメ……っ♡)
孕む。耳が孕む。
猛毒だ。その選曲はズルい。
それに歌声がプロボーカル顔負けにかっこいい。
ここまで心地いい低音で歌える男性はそうそういない。
音域は広く、高音域も自由自在。
そして何より――
「――ッ!」
力強い。
一節一節に感情が込められている。
そしてこの曲はラブソングであり、どんな感情が籠っているかと問えば「愛してる」なわけで。
(~~っ♡♡)
理性を崩壊させるには、いささか過剰戦力だった。
薬物にでも手を染めているのかというほど脳はキマってしまう。
唯一の幸運は、男はフェロモンをかぎ取る副嗅覚系が発達していないこと。
もし隣の雄が自分同様にそれを持っていたなら、発情したメスのフェロモンをぷんぷん放っていることを悟られていただろう。
そしてそうなれば、カラダが目当てで近づいたはしたない女だと思われていても仕方がない。
「ど、どうだったかな……?」
「ふぁ……」
気が付けば一曲が終わっていた。
もっと聞いていたかった。
小休止に入ってくれて助かった。
混ざり合う相反するふたつの思い。
「すごかった……私、感動しちゃった」
勝ったのはやはり、もっと聞いていたいだった。
同時に思う。
彼もまた自分に対してそう感じてくれていたなら、同じ気持ちを共有できていたのなら、これ以上幸せなことはない。
そう思っていてほしいな、なんて、私は欲深い。
「そ、そっか。よかったぁ」
彼はほっと胸をなでおろす。
男らしく、たくましく、かっこいい彼が見せたわずかな不安が晴れていく。
(ああぁあっぁぁぁっ! その顔好きぃぃぃ! 永久保存したいぃぃぃ!)
脳内カメラでシャッターを切る。
もちろんイメージは連射モード。
この顔だけで今日も明日も明後日も生きていける。
「真々田くん! この曲歌える⁉」
「あー! それめっちゃ好き!」
「この曲は?」
「受験勉強の時いっつも聞いてた!」
彼に歌ってほしい曲――愛の言葉を盛り込められた曲をピックアップしては注文する。
「あれ? 代わり番こって話は?」
「えへへ」
私は頷いたけど、言葉で約束はしていない。
なんて屁理屈だってわかってるけれど。
今は一曲でも多く、愛の言葉を送ってもらいたい。
一節でも多く愛の言葉を贈りたい。
だから。
「デュエットしたら、ダメかな……?」
「……っ! よろこんで……!」
ああ、もう、好き。
食べちゃいたいくらい。
*
脈ありなんじゃね?
花守さんとカラオケを終えた後、家に帰り運動靴に履き替え、公園に向かいながら考える。
曲の好みもすごく合うし、話していて楽しい。
しかも、そのうえ、ご飯に誘われてしまった。
彼氏のフリから恋人に昇格の夢が現実になる日も遠くない。かもしれない……!
まあ、ご飯の方は断ったんだけど。
「はぁ……はぁ。来ましたね、お兄さん」
町を飲み込む闇を切り裂く照明。
照らされたバスケットコート。
そのスポットライトの中心に彼女はいた。
風越詩。
昨日バイト帰りに出会った女子中学生のバスケット選手だ。
俺が来るまでにかなりの時間自主練をしていたようで、衣服は汗で肌に吸い付き、少女のスレンダーなボディラインを浮かび上がらせている。
だから、年頃の女の子がそんな無防備な格好で夜の公園にいるんじゃありません!
悪い大人がぐへへしにきたらどうするんですか!
「約束だからな。今日は親御さんが心配する前に帰ってもらうぞ?」
「だから、余計なお世話」
手足の運動を軽く済ませ、コートに立ち入る。
詩がパスしたボールをキャッチし、軽くドリブルをしてボールの感触を確かめる。
そして、知覚が広がった気がした。
コートの外から眺めているだけじゃわからない。
内側にいる人間だけが感じ取れる情報が、神経網を伝って脳へと運ばれる。
思わず笑みがこぼれる。
ああ、今日はすごく調子がいい。
「……え?」
スリーポイントラインの、さらに一歩外。
俺はゴールを確認するとシュートフォームに移行した。
ぐっと膝に溜めた力を解放し、体を上に引っ張り上げる。
最高到達点から放たれたシュートは、放物線を描いて飛び立った。自由な翼をもつ鳥のようにゴール目掛けて渡っていく。
リングに触れることなくネットだけを揺らした。
手首のスナップでバックスピンのかかったボールはバウンドを繰り返し、俺のもとへと帰ってくる。
しゅるしゅると巻き上げるようにボールを拾う。
よし、やろうかと詩の方を見ると、少女は口を開けて呆けていた。
こらこら、虫が口に入っても知らんぞ?
「怖気づいたか?」
「な! まだ! 勝負は始まってすらいないです!」
勝負は昨日の続きから。
つまり、2-1からの3本勝負。
俺が勝てばそれで終わり。
詩に勝ちの目は無くなる。
だから、本気で抜きにかかる。
ヘビーステップで速度に緩急を作る。
高速で仕掛けると見せかけ一瞬だけ速度を0にし、再び最高速度で切り込む。
「そう何度も、同じ手を……!」
「……っ」
半身をひねりボールを守る。
対応してきたのだ。詩が。
こちらのリズムを覚え始めているのかもしれない。
ゴールに背を向ける俺に、詩はプレッシャーをかけてくる。
もう肌がくっつくくらいに。
呼吸は激しく乱れていて、彼女の真剣さが伝わってくる。
「ふぅ」
だったら、こっちも小細工なしの全力勝負だ。
トップスピードのドライブ。
フェイクを入れずに抜きにかかる。
詩は、まるで俺の動きを読んでいるように同じタイミングで移動した。
俺のトップスピードに食らいついてくる。
だが。
「あっ⁉」
ストップ&ジャンプ。
の、クイック気味のリリース。
ディフェンスの一手先を行くことだけを考えたジャンピングシュート。
トップスピードのドライブの勢いが殺し切れていない俺の体は、慣性に従って空中で水平方向へ流れている。
こんな体勢で放たれたシュートの精度なんて大きく落ちる。
だからこそ、詩の想定の外から攻められる。
「……嘘」
ボールはリングにこそぶつかったが、そのあとは吸い込まれるようにネットを潜った。
振り返った詩が、覇気のない声を零す。
「あ……っ、うっ、あああぁぁぁ」
ぎょっとした。
ゴールを見たまま動かなかった少女が、唐突に咽び声を上げ始めたからだ。
まっずいって!
こんなところ人に見られてみろ!
事案ですよ、事案!
終わっちゃう! 俺の人生終わっちゃう!
「ご、ごめん! 大人げなかった! そうだ……ナシ! 今のはナシ! ノーカン! 仕切り直しにしよう! だから、な? 泣きやんでくれ……!」
もう必死だった。
人生でもトップレベルの真剣だった。
俺は今、中体連やインターハイの時と同じくらいの集中力を発揮している。
「違っ、違うのぉ……っ! そんなの真剣勝負じゃない……!」
詩は叫ぶ。
身を裂く思いを嘆くように、張り裂けんばかりの悲鳴を上げる。
「ウチは全力だった……全力で挑んで負けたんだ。負けちゃダメだったのに、勝たなきゃいけなかったのに……アぁ……アァアぁぁぁぁ!」
胸が締め付けられる思いだった。
最後の大会で敗れたとき、俺も同じように泣いた。
悔しかった。
自分の全力が届かなかったことが。
真剣で挑んだからこそ苦しくて悔しかった。
勝利への渇望。
それは情けで癒されるものじゃない。
そのことを、俺は知っている。
「詩ッ!」
コートに静寂が満ちた。
詩が泣くのをやめたのだ。
理由は簡単。
俺が後ろから、彼女を抱きしめたから。
「あば、あわ、お、お兄さん……何を」
「大丈夫。詩はこんなところで終わる選手じゃない。俺よりずっとうまくなる。俺が保証する」
しゃくりを上げる少女に、優しく語り掛ける。
彼女が落ち着くまでならいつまでも。
「悔しかったんだよな。苦しかったんだよな。全力で挑んだから、負けて感情が溢れちゃったんだよな」
「……うん、うんっ」
「大丈夫。その悔しさが、詩の財産になる。その壁をぶち破れれば、詩はもっと成長できる」
「は……ぅ」
詩は俺の腕の中で大人しくなった。
慟哭を上げるのをやめ、人形のようにじっとしている。
「落ち着いたか?」
「む、無理……」
「そうか?」
だいぶ落ち着いたように見えるけど。
いや、でも確かに後ろから見る耳は赤い。
まだ興奮が収まっていないのかもしれないな。
「今は、ちょっとだけ、このまま……ダメ、かな?」
真っ赤に染めた顔を上げ、詩が俺に言う。
は、破壊力つええぇぇ……。
「オーケー。俺はここにいるから、安心しろ」
「……うん」
あー。
なんていうか、もう。
ロリコンでもいいや。
*
どどどど、どうしてこうなったの⁉
お兄さんにバックハグをされ、沸騰寸前の脳みそで必死に考える。
練習が終わり家に帰り、軽食を済ませたらすぐに公園に向かった。
慌てた様子で自主練に向かうウチを母は不思議がっていたけど、理由は明かさない。
大学生のお兄さんとの1対1が楽しみなんて、言えるわけがない。
もしかしたら、もうコートにいるかも。
そんな期待を胸に足を運んだけれど、お兄さんはいなかった。
ま、しょうがないよね。
そもそも、今日も来てくれるなんて約束してない。
ただ、来てくれたら嬉しいなってだけで。
うん。やっぱり、今日は調子がいい。
練習の時からそうだった。
放ったシュートが指先から離れる瞬間にはゴールする確信が持てる。
お兄さん、来てくれないかな。
今日はベストパフォーマンスの日なのに。
もしもウチが勝てたら、なんて浅はかだった。
お兄さんのドライブは鋭く、静動変幻自在にフィールドを駆り、天を舞った。
無茶だ。
そう思ったシュートはしかし、振り返ればゴールに突き刺さっている。
負けた。
負けたんだ、ウチは。
ゆっくりとその事実が圧し掛かり、理解すると同時に感情の蓋がはじけ飛ぶ。
声を上げて泣き叫んだ。
終わる。終わってしまう。
いや終わってしまったんだ。
負ければ、暗くなる前に家へ帰る。
勝負の前に取り決めた約束。
もう二度と、お兄さんとは戦えない。
負けちゃダメだったのに。
勝たなきゃいけなかったのに。
この夢のような時間は、直に覚めてしまう。
嫌だ。
もっとずっと一緒にいたい。
教わりたいことも、知ってほしいこともいっぱいあるのに。
あぁ、本当に、どうして……
「詩ッ!」
名前で呼ばれてドキリとした。
次の瞬間にはどうでもよくなっていた。
(は……え……ちょ⁉ ちょっとお兄さん⁉ いきなりそんな大胆な、え⁉)
思考がバーストする。
悲しみとか苦しみとか青い感情がすべて押し流されて、桃色の欲望一色に染め上げられる。
(む、胸板硬ぁ……っ、腕、カチカチ……、これ……っ、ダメっ! 壊れるっ、理性ハジけ飛ぶっ)
下腹部がキュウと締め付けられる。
膝が急に頼りなくなり、地面を掴んでいる感覚が消えていく。
天にも昇るような夢心地と相反するように崩れていく体を支えようと、ギュッとお兄さんにしがみつく。
その分だけお兄さんは強く抱き返してくれる。
(あっ、あ……っ! しゅごっ、こりぇしゅごぉ)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
箸を突っ込んでかき回されたように思考がまとまらない。
ただただ快楽の波に襲われる。
「落ち着いたか?」
「む、無理……」
「そうか?」
こんな、こんな風に抱きしめられたら、ダメになっちゃうっ。
自分の中の性欲が、理性で抑え込めなくなるっ!
「今は、ちょっとだけ、このまま……ダメ、かな?」
息も絶え絶え。
自分の口から出た言葉に、羞恥で顔が真っ赤に染まる。
(お、おっわ、おわわっ⁉ ウチおねだりした⁉)
バカ、バカ、バカ!
自分に女としての魅力が無いことなんて気づいてるのに!
だからバスケで気を引こうって決めたのに!
どうして大事な場面でメスを出す⁉
今からでも遅くない。
どうにか体裁を取り繕って――
「オーケー。俺はここにいるから、安心しろ」
ふっぎゅぅぅぅぅぅぅ⁉
ちょ、耳元で、そんな……反則……っ!
*
「お騒がせしました。もう大丈夫です」
「え、でもまだ顔赤……」
「大丈夫ですッ!」
「あ、はい」
照れてなんていません!
ウチはもともとこういう顔色なんです!
「お兄さん……約束の方、なんですけど」
息をのむ。緊張が全身を襲う。
言えるのか? ウチは本当に言えるのか?
こんな図々しいお願いを。
(ううん。言わずにこの関係が終わるくらいなら、言って続く可能性を追いかけるんだ!)
覚悟は決まった。
ギュッと拳に力を込めて、お兄さんの目を見て話す。
「時間が許す限りでいいんです。お兄さんが、ウチと一緒に練習してくれませんか?」
「……俺?」
こくこく、と首を振る。
「ウチが夜遅くまで一人で練習するのを心配してくれてるのは分かったんです。でもやっぱり、ウチはもっとバスケがうまくなりたい……!」
お兄さんのように。
ううん、お兄さんの隣に立つために。
「お兄さんと一緒なら、心配は無いですよね?」
「えぇ……いや、それはどうだろう」
お兄さんのリアクションは渋かった。
(まあ、そうだよね……)
あと5年早く生まれていたら、悩殺ボディでお兄さんを誘惑できていたかな。
難しいかもなぁ。
だって自分は、こんなにもちっぽけだ。
あーあ、儚い、恋、だったなぁ……っ。
「……詩っ」
「へ? あっ」
ふと顔を上げると目の前にボールが迫っていた。
慌てて手を出して受け止める。
「俺はもう中体連もインハイも出られねえけどさ、夢を託すことはできる」
「……え?」
それって、もしかして、つまり。
「俺の特訓は辛く厳しい。それでも付いてこれるか?」
お兄さんの瞳が、こちらを覗いている。
穏やかに、優しく、だけど力強く。
「……ッ! はいッ!」
「いい返事だ。じゃあ俺のとっておき、レッグジャブから教えてやるよ」
それからだ。
お兄さんとの秘密の特訓が始まったのは。
「そうそう。最初のレッグの重心移動は相手にフェイクだってわかるくらいでいい」
やばい……これ、やばい。
ウチ、今めちゃくちゃカッコいいお兄さんとマンツーマンでレッスンしてもらってる。
こんなエロ漫画みたいな現実あっていいの?
「バスケは表現力だ。意図を悟らせるのも隠すのも両方扱えれば、戦術は活殺自在だ」
違う違う。
そんな煩悩にとらわれてる場合じゃない。
一刻も早く実力をつけるんだ。
鍛えがいのあるやつだ。
そう思わせて、ずっと面倒見てもらうんだ。
「おっ」
風を掴んだ。
お兄さんの動きを読み切った体が、フリーになったゴールへ駆け抜ける。
……ああ、気持ちいい。
「たはは、もう物にされちゃったか。やっぱりセンスあるよ、詩は」
参ったなと笑みを浮かべるお兄さん。
その表情に、ついドキッと胸が高鳴る。
……決めた。
「お兄さん!」
「ん?」
「ウチはもっともっと強くなります。お兄さんの技で、必ず全国に進みます。だから、その時は」
ぽん、と。
頭に手をのせられる。
びくっと身を縮めたけれど、すぐに安心感に包まれる。
緊張が体から抜け落ちていく。
「分かった。バイト代溜めて、必ず応援に行くよ」
「……約束!」
「ははっ、約束するよ」
闘志が燃える。
成長した自分を見てもらうんだ、全国の舞台で。
でも、もし叶うなら。
(この時間が、永遠に続けばいいのにな)
*
バイトにいそしむ土曜日のお昼過ぎ。
ラッシュタイムをさばき切り一段落付くと、憩いの時間がやってくる。
何も作業が楽になるから天国と言ってるわけではない。
俺がこの瞬間を楽しみにしている理由は、もっと単純。
(本当においしそうに食べてくれるよなぁ、朱鷺川さん)
鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌の彼女を見ているとこっちまで嬉しくなってくる。
体の線同様に食は細いみたいだけど、だからこそ一口一口を味わってくれてるのがすげー嬉しいんだよな。
なんだったら毎日手料理を振舞いたいとすら思っちゃうもんね!
それは踏み込みすぎか。
と、孫の水遊びを見守るおばあちゃんみたいに穏やかな気持ちで食事風景を眺めていると、ばっちり目が合った。
あれ? デジャヴ。
「……なによ」
既視感だけじゃなく既聴感までやってきた。
いや実際に前のシフトで体験した状況とそっくり一致してるからデジャブには当たらないんだけど。
ただ、俺は前回と同じ回答は許されない。
二回も「バイトのシフトよく一緒になりますね」なんて言ったら若年性アルツハイマーを疑われてしまう。
俺、朱鷺川さんに白い目で見られたくない。
「いや、朱鷺川さんはおいしそうに食べてくれるから嬉しいなって思って」
と、純粋な気持ちを述べてみた。
すると彼女はちょっと複雑そうな顔をして、それからぼそりと呟いた。
「美羽」
耳まで火照った顔を冷ますように、賄いの隣に用意してあったお冷を煽った。
(いや、忘れてたわけじゃないんだけどね?)
女性の名前で呼ぶの、緊張する。
こういうところ永遠に童貞だよな。
童貞は童貞臭いから永遠に童貞を卒業できない。
教えてください神様。
童貞はどうすれば救われるんですか……!
「美羽」
煮え切らない俺を催促するように彼女は繰り返す。
待てよ?
よく考えればこよみ先輩も名前で呼んでるし、詩のことも名前で呼んでる。
意識しなければ何もハードルなんて高くないのでは?
うは、俺天才。
「み」
「み?」
出ねえよ! 声!
やめて、俺を期待の目で見ないで……!
滲みだす童貞臭がその期待を腐らせていく様子を見たくないんだ。
……覚悟決めろ。
いくぞ!
「美羽、さん!」
言った! 言ったぞ! 俺!
やればできるじゃねえか!
見直したぞ!
「美羽」
「……え」
「さん付け、いらないから」
「でも」
「はやく」
「あい」
そんな、そんなのってあんまりだよ。
せっかく勇気を振り絞ったのに、さらに一歩踏み出させようとするなんて……!
いや、逆に考えよう。
朱鷺川さんは俺のポテンシャルを引き出そうと力を貸してくれてるんだ。
だったら、日和ってる場合じゃねえだろ……ッ!
呼吸をひとつ。
呼気を吐き出すとともに腹に力を籠める。
「美羽」
口にすると朱鷺川さんは真っ赤に染め上げた顔を突っ伏して、机をバンバンと叩き始めた。
別に辛いものなんて入れてないはずなんだけどな。
「ゆ……」
「ゆ?」
お湯?
このタイミングで?
まあ必要というならお出しさせていただきますが――
「優」
――⁉
まずい、クラっと来た……。
だから反則なんだって。
(その普段のクールキャラ壊してしおらしい感じで攻めてくるのはジュネーブ条約に違反します!)
あれか⁉ あれなのか⁉
俺が勇気を出して名前呼びしたから、相応の誠意を見せなきゃとか思ってくれたのか⁉
普段とのギャップがかわいすぎるんだよ!
脳細胞が死滅するぅ。
「べ、べつに! ただ呼んでみたわけじゃないんだからね⁉ ただ……そう! ゆ、優が次のシフト出してないみたいだったから教えてあげようと思っただけなんだから!」
かわいい。
「な、なによその目」
「ううん。いつもありがとう、美羽」
「……っ、うん」
1回名前で呼べちゃうと2回目からのハードルは下がるんだな……これからは普通に美羽って呼べそう。
「それで、どうなのよ。いつも通りなの?」
「あー」
この喫茶店のシフトスケジュールは2週間単位で組まれる。
明日からの1週間分は既に確定している。
つまり提出するのは8日先から21日先までの分。
とはいえ、大学生の1週間サイクルなんて大きく変わらない。
基本的にシフトも変化しない。
という意味での問いかけだと思うんだけど……。
「いや。俺日曜のシフトやめるかな」
「な、なんで……⁉」
この世の終わりみたいな形相だった。
ちょっと威圧される。
「そういえば明日のシフトも店長に取り消してもらってたよね?」
「うっ、それは、はい」
だって花守さんとデートだもん。
いや二人きりじゃなくて、花守さんのサークル仲間へのお披露目だけだけど。
俺の気分的にはデートなの!
「なんで? アタシと同じ時間帯嫌になった? めんどくさかった? アタシ何か気に障ることしちゃった?」
「違うんです! 違うんですよ⁉ 特に予定があるわけでもないんですけど、なんとなくっていうか、とりあえずです」
例えばね? 明日遊びに行って、楽しかったねってなって、また遊ぼうよって話になって、次いつ予定空いてる? ってなって、来週の日曜日遊ぼうって話になるかもしれないじゃん!
来週が無理でも再来週って可能性あるじゃん!
いいじゃんかよ! ちょっとくらい夢見ても!
っていうのは黙っておこう。
なんとなく嫌な予感がする。
「例の……花守って女?」
なぜバレた⁉
「なぜバレたって顔してるわね」
ホントになんでバレるの⁉
「顔に出てるのよ」
「マジっすか⁉」
俺そんなに隠し事へたっぴなの?
えー、ショック。
「……まだ、予定があるわけじゃないのよね?」
「まあ、その、はい」
残念ながら。
「だ、だったら!」
椅子から勢いよく立ち上がり、前のめりに彼女は口を開いた。
「ア、アタシに頂戴……優の一日!」
「へ?」
「嫌かな……? アタシと一緒にいるより、花守って子と一緒の方が、楽しい?」
「え、え、え?」
ちょっと待って、情報が追い付かない。
美羽に俺の一日を捧げるってことはつまり俺の一日を美羽に捧げるってことでしょ?
それってつまり、美羽の一日を俺がもらうってことなのでは?
もしかしなくても――
「――デート、ですか?」
息をのむように、美羽はおもむろに首を縦に振った。表情は緊張で強張っている。
対照的に、俺の顔は一気に華やいでいく……!
「ぜひ、ぜひぜひ! よろしくお願いします! どこに行きますか⁉」
まじかー!
花守さんに続いて美羽ともいい感じだぞ?
来てもよいころだろ来いよモテ期。
逆から読んでもモテ期は来ないと思っていたが、全然そんなことは無かったぜ!
……逆?
なにか忘れてるような……。
「あ、あのさ……もう賄いの時間少ないし、今日の夜、Linearで相談してもいい、よね?」
「はい!」
まあいっか!
思い出せないってことは大したことないだろ!
今この瞬間を謳歌しようぜ!
イエーーーーイ!
*
溶ける、時間が。
朱鷺川美羽は布団の中、スマホを片手に悩んでいた。
メッセージ入力欄には短い文章が撃ち込まれている。
悩みとはこの文字列を送信するべきか、それとも胸の内に秘めておくべきかについてだ。
――ビデオ通話してもいい?
そんな内容をしたためたまま、すでにバカにならない時間が経過している。
唸ったり、姿勢を動かしたりしながら永遠に葛藤を続けている。
別に、どこに行くかを決めるだけならチャットで事足りる。
むしろログに残る分、通話より適している可能性もある。
ましてビデオ通話にする理由はと聞かれると……
(声が聴きたいよ、顔が見たいよ)
朱鷺川美羽はさみしがり屋だ。
人のぬくもりに飢えている。
人を突き放してしまう言動を、無意識に発してしまう性格だからこそその傾向は人一倍強い。
難儀な生き方をしている。
自分でもわかっている。
どうすべきかも。
送信するべきなのだ。
勇気を振り絞れば、真々田優は答えてくれる。
今日だってそうだった。
だから、連絡を――
「あ」
仰向けになってスマホを掲げていると、不意に手の内からすっぽ抜けかけた。
取りこぼしきる前に、慌てて掴みなおす。
……掴みどころが最悪だった。
握った手の親指の先。
スマホの右端。
そこに、ちょうど送信ボタンが配置されている。
(ちょ、待って待って待って⁉ 嘘でしょ⁉ まだ覚悟なんて決まってないのに……既読が付く前にメッセージを取り消せば――)
時間にして寸秒。
思考がまとまる前に、Linearに既読がついてしまう。
(見られた見られた見られた。もう取り消せない取り消せないどうしようどうすれば)
重い女だと思われたらどうしよう。
論理的にビデオ通話の必要あるか聞かれたらどうしよう。
もっとバッサリ断られたらどうしよう。
(何、なんなのこの間――! 断るならさっさと断りなさいよ!)
困らせたのだ、自分は彼を。
何度何回論証してもこの結論にたどり着く。
だったら自分から引かなければいけないだろう。
これ以上、彼を困らせる前に。
そう、青い感情に支配されるままに指先を電子の板上で滑らせて――
・ちょっと待ってください!
ぽんと送られてきた返信に、思考と指先がフリーズする。
待ってください。
それはつまり、時間をおけばOKということで――
(いいの⁉ 優のプライベートを覗いてもいいの⁉)
時計を見る。時刻は既に22時を回っていた。
翌日は偽装カレシとして外出すると言っていたから、今は自宅にいてもおかしくない。
朱鷺川美羽は元引き籠りだ。
男子の部屋など創作の世界でしか見たことが無い。
まだ見ぬ景色を前に、息をのむ。
ポップなメロディが鳴り響いた。
通話の誘いだった。
緊張でぷるぷる震える手で、どうにかスマホを操作する。
「と、朱鷺川です。聞こえる?」
『どうも真々田です。聞こえてますよー』
どもってしまった。
羞恥で顔が火照った。
なんて、自分のことに意識が向いていたのは短い間のこと。
(濡髪エッッッッ‼)
思わず鼻から口を手で覆った。
小さな画面に映し出された男が、髪を乾かす前だったからだ。
普段とは違う色気がムンムンしている。
「……アンタ、花守って子にもそうやって無防備晒してるんじゃないでしょうね?」
『無防備……? や、そもそも花守さんとは通話したことないですけど』
「だったら……まあ、いいけど。あんまり風呂上りを女に晒しちゃダメだから」
とりあえずスクショ取った。
せっかくだから録画もしてしまおう。
やましい気持ちや下心からではない。
いつか癌に効く薬になるかもしれないからだ。
というか多分現在進行形で効いてる。
『無防備っていうなら、その、美羽も……』
スマホをベッドに立てかける。
画面の先では男が視線のやり場に困っている。
(……アタシのカラダで興奮してる?)
理解すると下腹部がじゅっと熱を帯びた。
言葉以上に態度が、自分の容姿に好意的感情を持ってくれていると示してくれていた。
1:1000。
男のほとんどは性欲が枯れていて、どれだけ自分磨きしたところで返ってくる反応は希薄。
そんな中、意中の相手が自分の見た目を肯定してくれる。
これほど恵まれたことは無い。
「ねえ、もっと見たい……?」
口をついて、そんな言葉が出た。
話が脱線していっている気がしたけれど、ビデオ通話した理由は彼の顔が見たいから。
なにひとつ間違ってなどいない。
「いいよ? 優なら。アタシの全部見せてあげる……だから、ね?」
胸元に指をかける。
電子の海を隔てた向こうで、男の鼻が膨らんだ。
かわいい。
自分だけのものにしたい。
『あの……美羽さ、酔ってる?』
……そっか。
まだ、そういう関係に踏み込みたくないか。
しん、と。寂寥が積もる景色が脳裏に浮かぶ。
だから彼女は、無理に笑った。
(優がそう言うなら、待つよ。アタシ。
それがアタシを大切に思ってくれてるからだって、アタシは知ってるから)
でも、いつかその気にさせてみせるよ。
そう胸に刻みこむ。
「うん。ちょっと、あてられちゃったかな。水飲んでくるね」
ビデオ通話のカメラだけを切り、ミュートにして息を整える。
(大丈夫。この反応は童貞。まだ他の女に手を付けられていない。守らなきゃ、アタシが。優の純真さを守れるのはアタシだけなんだから)
だから、今はこの性欲を忘れよう。
大丈夫。相手は電子情報だ。
想起されるフェロモンは記憶が生み出したまやかしだ。
鋼の意志を持てば、性欲になんて負けない。
「おまたせ。それで、アタシとのデートの時のコースなんだけど――」
あっ、ダメ。
真剣に話を聞いてくれてる様子だけでカラダの心から疼いてしまう……っ!
(やっぱ、ダメ、かも)
バターのようにとろける理性と時間。
朱鷺川美羽は拷問のような、しかし幸福の時間を過ごす羽目になった。
*
どっちが似合うと思う?
なんて言葉が一番の地獄だと思っていた。
彼女いない歴イコール年齢の俺には無縁だったけど、フェルマーの最終定理を証明するよりよっぽど難しい質問だと思っていた。
その考えを改めたのは、つい今しがたのこと。
「わかった! じゃあ、試着してくるねっ!」
「はいはーい! じゃあじゃあ、その次はあたしのもお願い!」
「いいね。3人分一緒に考えてもらおうよ」
ショッピングモール。
その一角にたたずむ、俺を悩ませる店舗。
その正体は――
魅惑のランジェリーショップだった。
(え⁉ 無理無理無理! 童貞にそれはハードルが高いって! 本気で言ってる⁉)
日曜日。
初めての偽装デートのことだった。
花守さんとそのサークル友達さんと一緒に出かけたのはショッピングモールだった。
集合時間は11時30分。
少し早めにランチを済ませ、買い物をするのが今日の流れだった。
そこまではいい。
何も問題は無い。
途中、ワックで女子高生が「彼氏がインポだった」「マジで別れたほうがいいよ」とか言っててむせたけど、それ以外特に何も問題は無かったんだ。
むしろ、とっさの機転で花守さんのことを咲桜と名前呼びするなどファインプレーが光っていた、はずだ。
「えへへー、ねえねえ真々田くん」
「どうした……の?」
「こっちの下着と、こっちの下着、どっちが好き?」
彼女が、そんなことを言い出すまでは。
(ハッ⁉ ここはいったい⁉)
げに恐ろしきかな。
女子3人と楽しくお話ししながらショッピングモールを散策していたら、いつの間にかランジェリーショップの前にいた。
そしていつのまにか両手に下着を抱えた花守さんが、爛々と目を輝かせて俺を覗き込んでいる。
詰んだ。
わっかんねえよ、これの答え。
とはいえ、明確な不正解はひとつ分かっている。
沈黙だ。
この状況で沈黙だけは選んじゃいけない。
だからとっさに、
「実際に身に着けてるところを見ないと何も言えないかな……」
なんて、口走った。
口走ってしまった。
それが地獄への片道切符だとも知らずに。
「わかった! じゃあ、試着してくるねっ!」
「え」
え、ちょ、は⁉
なんでそれがまかり通るの⁉
花守さん、実はちょっとヤバイ人?
恋人でも無い相手にそんなはれんちな姿見せるとかネジ緩んでるのでは?
友達がいるから俺が襲うはずないってたかをくくってる?
ちょっと俺を買いかぶりすぎだぞ?
ほら、お友達のお二人さんも、なんか言ってやってくださいよ!
「はいはーい! じゃあじゃあ、その次はあたしのもお願い!」
「いいね。3人分一緒に考えてもらおうよ」
「え」
どうしてこうなった……?
それとも、俺が女友達すらいなかった童貞だから知らないだけで、仲良し男女なら当たり前なのか?
だったら気にせず――
――ぞくぞくぞくっ!
不意に視線を背後から感じた。
舐めるような、ねっとりとした、鳥肌が立つような視線だ。
後先考えず、反射的に振り返った。
しかしそこには誰もいない。
(やっぱりまずいよな⁉ だから「うわ変態がいる」って通行客に思われたってことだよな⁉)
どうにか早くここから抜け出さないと……
「えへへ、どう、かな? 変じゃない、かな?」
「ふぉぉぉぉぉ⁉」
シャっと試着室のカーテンが開き、恥じらう様子の花守さんが出てきた。
触れれば折れてしまいそうな宝石のような肌を晒し、大事な部分だけをランジェリーで覆っている。
(いや! おかしくなんてないな! うん! この状況を満喫したいとかそういうゲスな考えじゃなく、パートナーの相談には乗るのが人道ってもんだからな!)
自己正当化完了。
「すごい……蠱惑的! 咲桜の魅力が引き立ってる! プリティキュート! 国宝級! 写真にとって家宝にしたいくらい!」
「そ、そう、かな? なんだかちょっと照れくさいね……。つ、次のやつも試してみるね!」
シャっとカーテンがシャットアウト。
花守さんの姿が更衣室の向こうに雲隠れしてしまう。
(今この瞬間、ランジェリーを付け替えてるんだよな……)
ごくりと生唾をのむ。
いや生唾飲んでる場合じゃないだろ。
あんまり変なことばっかり考えてるとポケットのモンスターが巨大化してしまう。
女性3人とショッピングに来ている中それはどうしようもなく恥ずかしい。
ここにあまねく煩悩よー立ち去れー。
「ど、どう、かな?」
「ぐはぁぁぁっ⁉」
岩戸開……!
閉ざされた仕切りの向こうから神が降臨なさった!
眼福!
「イイ。すごく」
脳がショートを起こしかけて、言葉が出てこない。
仕方がないので俺は親指を立てた。
天にも昇る心地だ。
わが生涯に一片の悔い無し。
「えへへ……じゃあ、どっちも買っちゃおっかな」
「っ! 出すよ俺が! いや、俺に払わせてください!」
「え、だ、だめだよっ! わたしが使うものだし、真々田くんに負担を掛けたくないよ?」
それくらいしないと俺の気が済まないんです!
こんな役得ポジションに抜擢してくれてありがとう!
これは感謝の気持ちだから!
「負担じゃないよ。俺がプレゼントしたいんだ。咲桜が喜んでくれたら俺もうれしいし、みんなハッピーになれる。そうだろ?」
「う、うぅ……その言い方は、ズルいよぉ」
いやぁ、なんかここ最近で一番有意義にお金を使えた気がするな。
「……?」
なんだろう。
いまだに誰かの視線を感じているような?
気のせい、かな?
*
それで、その次の日曜日は約束通り美羽とデートに向かった。
(うーん、なんか悪寒が……)
家を出る前はなんともなかったのに。
美羽と出会って少ししたあたりから、背筋に嫌な汗が張り付いている。
風邪だろうか?
いや、どちらかというと、誰かに見られているような……。
振り返る。
誰かがいるわけでもないけれど。
結局、視線の正体に気づけないまま。
俺たちは目的地へ足を運んだ。
向かった先は映画館。
総額1000万円を奪い合うデスゲームに巻き込まれた主人公が、ヒロインと一緒に勝ち進み、最後は主催者を倒してハッピーエンドという内容だった。
ざっくりと言えば。
だけど、それより俺が気になったのは――
(なんか、女優さんみんなえっちくない?)
俺はドラマや映画に詳しいわけじゃないけど、なんかみんなめちゃくちゃ美人。
国を傾けることなど造作もないレベルの美女が勢ぞろいしている。
女優だけじゃない。
エキストラだってそうだ。
右からべっぴんさんべっぴんさんべっぴんさん、ひとり飛ばして、べっぴんさん。
ちなみに飛ばしたひとりは特徴のないのっぺりした顔の男性。
(なんていうか、男性が中性的になって、その分女性がより美しくなったっていうか……)
うまく言葉にできない。もどかしい。
もやもやがずっと頭に残っている。
あとムラムラ。
そんな肌を露出させたら世の男どもが発情しちゃうって。
「映画館って初めてだったけど、音響設備すごいのね」
「あはは、最初びっくりして俺の袖引っ張ってたもんね」
「んな……っ、驚いてないわよ! 袖だって、別に、ちょっとだけしか引っ張ってないし……」
映画が終わった後は近くのカフェで感想戦を行った。
俳優の容姿が話題に上がるのはいつかないつかなとワクワクしてた。
だけど、美羽は一向にそのことについて話さない。
(あ、あれ? 俺の思い過ごし? 今の俳優さんってあんな感じがデフォルトなの?)
そんなはずないと思うんだけどな。
うん、やっぱり何かおかしい。
(そういえば、最近どこかで女性の美貌レベルがうんぬんって話を聞いたような気が……)
あれはどこだったか。
どういう話からそんな言葉を聞いたんだったか。
何か大事な話を忘れているような――
「……優? 優?」
「え?」
「どうかした? 怖い顔してたけど……つまんなかった、かな? アタシと一緒にいるの」
「そんなことないよ‼」
しくった。
変なこと考えてる場合じゃなかった。
「えと、そうだ! 最後のシーン! まさか冒頭のコメディシーンが実はシリアスな話だとは思わなかったよな」
「優……、うん。そうね! それに、主催者を追いつめる外連味たっぷりなセリフも――」
難しい話はあとだ。
今はこの瞬間を大事にしよう。
*
市民大会で行われるバスケットの大会に参加してほしいと詩に頼まれたのは、もはや日課となった市役所横のバスケットコートでの夜練の休憩中のことだった。
なんでも予定していたメンバーが骨折して、参加できなくなってしまったらしい。
そこで白羽の矢が立ったのが俺ってわけらしい。
なるほどね。
市民大会って一般の部とジュニアの部でわかれてなかった?
俺、詩のチームに入れないと思うよ?
と聞けばどうやら詩が一般の部で参加するらしい。
中学生ならジュニアの部でもいいのに。
本当にバスケットが好きなんだな。
彼女にもっと経験を積ませてあげたい。
そんな思いから俺はふたつ返事でうなずいた。
(なんか、女子率高くね?)
詩とチームを組むと聞いた時から男女混合のチームってのは予想していたけれど、参加メンバーの大多数が女子だった。
俺のチームに限らず、他のチームも。
え、これ俺が参加しても本当に大丈夫なやつ?
(……パス回しメインでゲームを進めるか)
今日俺がここに来た目的は、未だ学校の部活でスタメンに選ばれていない詩に実戦経験を積ませるためだ。
いかにして彼女を生かすか。
そこに焦点をおいてゲームを展開しよう。
「詩ッ!」
ゴール下でロールをしたら、ちょうどゴールの正面に詩がいた。
低い弾道で回されたパスは、詩が受け取ると自然に膝をためた形になる魔法の一球。
ボールを持ち直す、力をためるという動作をカットする俺の必殺技。
「打て!」
両手打ちで放たれたシュート。
ディフェンスがひとりもついていない完全フリー上体からの一球。
それを詩が外すわけもなく。
「ナイッシュ」
「ん、とーぜん」
さあ、次はディフェンスだ。
勝つぞ、絶対――
――ぞくぞくぞくっ!
うっ、まただ。またこの感覚だ。
なんなんだ、いったい。
「お兄さん!」
「ちっ、抜かせるかよ!」
意識の間隙を縫われ、抜かれかけた相手に片手でバックチップ。
振り返ることなく伸ばされた腕はボールだけに触れる。
そして、グリップの利かない外用のボールですらつかめる俺なら確実にボールを奪い取れる。
「1本、決めるぞ」
かわいい弟子の前だ。
醜態晒してる場合じゃない。
*
月姫こよみは興奮していた。
発情と表現しても差し支えないほどに。
(大スクープ、大スクープですわ‼)
理由は簡単。
後輩の真々田優が、堂々と3股かけているシーンの目撃者になったからだ。
いや実際に目撃したのは花守咲桜とそのサークルの友達2人と一緒にいる後輩の姿。
断じて3股などかけていないし、そもそも表面上恋人を装っている花守相手でさえ偽装カップルだ。
付き合っていないのである、誰とも……っ!
だが、通りがかっただけの月姫こよみにその内情を知る由などない。
月姫こよみは興奮していた。
否、性的に興奮していた……っ!
(あはぁんっ! そんな……背徳的な……っ! さすが優さん、そこにシビれてしまいます……っ)
黙っていれば芍薬の彼女も頭の中はエピメディウムの花畑。
常軌を逸したプレイに快感を覚えるド変態。
女性3人を侍らせる真々田優は彼女にとって刺激が強すぎた。
だから盗撮した。
肌身離さず持ち歩いている一眼レフのシャッターを切り、状況証拠を写真に収めた。
(性欲発散アイテムゲットですわ!)
今日はなんて素敵な日なんだろう。
なんてことを思いながら月姫こよみのストーキング行為は続いた。
4人が解散するころにはパンパンになったカメラのデータに彼女はホクホク顔である。
(理想を言えばホテルにでも向かってもらえればベストでしたが……仕方ありませんね)
女性3人に男ひとり。
いかがわしいホテル。
そんなシチュエーションが現実に起ころうものなら月姫こよみは死んでいた。
死因は鼻血だ。
危ないところだった。
彼女の威厳は(かろうじて)保たれた。
さて、彼女は確信した。
たとえ真々田優がどれだけ変態でも、自身の仮面が外されることは無い。
完全無欠の優等生を演じきれる、と。
その翌週の日曜日が来るまでは。
(キャー⁉ 4人目! 4人目の彼女さんですわー!)
この日も街を歩いていた月姫こよみは、真々田優と朱鷺川美羽のデート現場を目撃した。
もはや運命の神のイタズラどころではない。
神の思し召しといわんばかりのめぐりあわせ。
(神様! ありがとうございます!)
月姫こよみは神道改宗を考慮した。
(しかもしかも、今度は1対1……本命ですわ! 3人の女性をたぶらかせておきながら全員お遊びですの⁉ はぁ……はぁ……そんなっ、冒涜的な……っ)
さすがのド変態もびっくりだ。
なお、実際のところはこのカップルも偽装なのだが、やはり月姫こよみがそれを知る由は無い。
どころか、朱鷺川美羽が目に見えてメスの顔をしているので本命だと確信さえしている。
はっきり言おう。
月姫こよみは真々田優に惹かれていた。
始まりの――貞操観念逆転が起こったその日から。
そしてその思いは、日ごとに強くなっていく。
理由は簡単。
彼が、理想的な悪い男だからである。
(優さん……っ! なんて罪な殿方……!)
優等生を強制され続けた彼女は常日頃から火遊びに興味があった。
抑圧から解放されたいという願いと欲求の境界があいまいになってしまっていたのだ。
そんなところに現れた、悪人。
ドストライクだった。
ハートを射抜かれてしまっていた。
好感度メーターはとっくに限界まで振り切れていた。
これ以上溺れようがないくらい、月姫こよみは真々田優の虜になっていた。
だがそこに追い打ちを掛けるのがこの男!
3度目の偶然もやはり日曜日。
市民体育館でバスケット大会が開かれる日のことだった。
彼女の妹が一般の部に出場するからと、親からお金をもらってカメラマンとして現地に赴いていた。
そこで、出会ったのだ。
明らかに発育途中の女児をたぶらかしている、後輩に‼
(ちゅ、中学生すらカバー範囲ですの――ッ⁉)
広い、範囲が広すぎる……!
この世界、男は性欲が刺激されにくい。
だから女性は史実と比べて、より魅力的な遺伝子が後世に多く伝わるようになっていた。
適者生存の理である。
つまり、風越詩のような発育途中の女児相手に魅力を感じる男などいないのである。
男のロリコンとは空想上の生き物のことなのである‼
(私は今――伝説のロリコンを目撃しておりますわ⁉)
3倍役満だ。
妹のカメラマンに来ていたはずだが、そっちは三脚に固定して定点で放置した。
代わりに隣のコートでJCとスキンシップを取っている後輩の姿を激写‼
(学科の後輩が変態ですわ――!)
月姫こよみ自身、変態の自覚はあるが彼には劣る。
認めたのだ、真性ド変態が、敗北を。
この日真々田優は超越真性ド変態の称号を戴冠した。
実に不名誉極まりない。
(はぁ……はぁ……最低で最高ですわ、優さん。ですが、優さんにはさらに先を目指すスペックが備わっていると思いますの)
人差し指で下唇を端から端まで撫ぜ、月姫こよみは淫靡に笑う。
(例えば、そう――私たち全員から同時に迫られる修羅場に陥ったら?)
ああ、愉しいな。
楽しみで愉しくて、仕方がない。
くすくすと笑みがこぼれる。
抑えるつもりなど毛頭ない。
暗い市民体育館の2階観客席。
照明されるバスケットコートに立つ人影に熱視線を送る。
「ふふっ、優さん。すぐにあなたに並ぶ変態になってみせますわ。楽しみにしていてくださいね?」
なお、ここまで全員の思惑がすれ違っているのだが、彼女が知る由などどこにもない。
*
最近、まわりの女性の様子がおかしい。
「えへへ、ねえ真々田くん。位置情報共有アプリって知ってる? GPSを使ってお互いが居場所を把握できるの。わたしたちも使ってみない?」
「え」
すごいことを言い始めたのは同じ学科の花守咲桜さん。
クリーム色の髪を二つ結びにした小動物みたいに可愛らしい女性だ。
いや言ってることは何もかわいくないんだけどね?
(GPS? なんでGPS?)
俺たちの関係って偽装カップルだよね?
付き合ってない状態なんだよね?
それなのに位置だけは筒抜けになるの?
ちょっと、それは……。
「や、いやーほら。さすがに花守さんのプライベートを覗き見るのは俺の倫理観に反するっていうか……」
「大丈夫! わたし、真々田くんになら24時間監視されてもいいよ?」
え、えぇ……?
これじゃかわいいじゃなくてこわいだよ。
もしかするとヤバイ人かもしれない、花守さん。
うすうす勘づいてはいたことだけど。
「や、でも……ほら」
「なにかな?」
「えっと、その」
「なんで? 嫌なの?」
笑顔が怖い。
何故だろう、背筋が冷えてたまらない。
「わたしに居場所がばれると困るようなところに行ってるの? 隠しておかないといけないような秘密があるの? わたしが怒るようなこと? 違うよね。大丈夫。わたしは知ってるよ? 真々田くんがそんな男じゃないってこと。だから、何も問題ないよね?」
「え、っとそれは……?」
あれ?
これ俺が間違ってんの?
ちらりと男友達に視線を送る。
露骨に目を合わせることを避けられた。
だよな⁉
俺別に間違ってないよな⁉
『では少し早いですが、今日の講義はこれまでです』
ナイスタイミングだぜ教授!
「ごめん花守さん俺この後バイトあるんだ!」
「え⁉ ま、真々田くん⁉」
「ホントごめん! またねー!」
ふー、息が詰まるかと思った。
危うく窒息死するところだったぜ。
「ってことがあったんすよ」
バイト先の喫茶店。
客がひとりもいない時間。
俺はバイト仲間の美羽とだべっていた。
「はぁ⁉ なによそれ‼」
「やっぱおかしいっすよね?」
「当たり前じゃない!」
よしよし。
やっぱり俺がおかしいわけじゃなかったんだ。
はっきりと第三者の口から肯定してもらえると安心感が桁違いだな!
「そ、それで……きちんと断ったのよ、ね?」
「……」
「え? なんでそこで黙るのよ」
「いや、断るに断れない凄味があったっていうか、断ったら殺される気がしたっていうか……アプリは入れてないですよ⁉ ただ、逃げるようにキャンパスを後にしたんで、はっきり断れてないっていうか、いい感じの言い訳を美羽にも相談したかったっていうか」
めちゃくちゃ早口にまくし立てた。
言い訳がましく必死に弁明した。
なんか情けなくてみじめに思えてくる。
「ふ、ふぅん。ま、まあ? そういうことなら、全然相談くらい乗るけど……」
「本当? 助かるよ」
だけどこんなカッコ悪い俺を、美羽は笑わずに真摯に相談に乗ってくれる。
「やっぱ持つべきものは友達だな!」
「は?」
「……え?」
急激に気温が下がった。
5度くらい冷え込んだ。
空間がきしむ。
耳鳴りがやまない。
「……ふぅ。なんだか、今日は暑いわね」
「え、いや、どっちかというと、悪寒が――」
「暑いわね」
そっすね。
(って、なに制服のボタン外してんの⁉)
あとそのチラチラこっちに送る視線は何⁉
「……ねえ。アタシって、そんなにオンナとしての魅力無いかな?」
「まさか! 美羽は美人だし、えーと、ほら、一緒にいて楽しいし、それから……ちょっと抜けてるところも庇護欲を駆られるし、自信もっていいと思うよ!」
全力で媚びへつらった。
そうしなければいけない気がした。
俺のオカルトシックスセンスが叫んでいた。
「でも、恋愛対象には、見えない?」
やっべぇ……なんて答えよう……。
「あ! 美羽! お客さん来た!」
「チッ」
え。
今舌打ちした……?
いや、気のせいだよな。
すごいニコニコしてるし。
なんかお客さんの顔が青ざめててすごい居心地悪そうにしてる気がしないでもないけど、多分気のせいだな!
*
ということがあった帰り道。
逃げるように喫茶店を飛び出した俺は市役所横の公園に向かった。
照明が差し込むバスケットコートには、明るい茶髪を後ろで束ねた少女がいる。
ここ最近メキメキと実力を上げている愛弟子の風越詩だ。
彼女は俺に気づくとトテトテと歩み寄り、不思議そうに首を傾げた。
「大丈夫です……? 息、上がってますけど」
「大、丈夫。ちょっと怖い妖怪に追われてたけど、まいたと思う」
「妖怪?」
「こっちの話」
美羽とは帰る方向が逆なのに、なぜか今日は家まで送るとか言い出したんだよな。
おかしいだろ。
俺が美羽を送っていくならともかく、なんで逆なんだよ。
なんか怖かったから逃げた。
詩の練習に付き合えるようにと走り込みをしててよかったと本気で思う。
「しっかし、夜だっていうのにジトジトするな」
6月に入って梅雨時だし仕方ないけど。
Tシャツの裾に手を入れ、パタパタと空気を送る。
ふと詩を見れば目を皿にして俺を凝視しているのが分かった。
おっぱいを目の前にした男子中学生か。
「詩?」
「ちょ、ちょっとタイムです」
くぐもった声で詩が言う。
というか、鼻をつまんだ声か。
何してんだ……?
「おま……鼻血」
「わー⁉ お兄さんっ、み、見ないで‼」
なんで鼻つまんでんだと思ったら鼻血出してた。
「バカ! 体調が悪いなら早く言えよ!」
「ふぁ……っ、待っ、ちょっと離れてもらえれば落ち着きます、から……っ」
「病人前にして放置なんてできるかよ」
「待って――それ以上近づかれたら……っ」
どんと強い衝撃を受けて混乱した。
俺の腰に腕を回した詩が俺を押し倒し、馬乗りになっていたからだ。
空からポトリと、体液が零れ落ちた。
鉄の匂いがする粘性を帯びた赤い液。
詩の鼻血だった。
え、何、この状況。
「お兄さんお兄さんお兄さん……」
「う、詩」
「……はっ、ご、ごめんなさい!」
詩は少しの間俺の胸板に顔を埋めていたが、ふと我にでも返ったように飛びのいた。
何?
悪霊にでも取りつかれた?
「……今のはお兄さんも悪いです」
「え? なんで」
「なんででも! です!」
理不尽。
俺が一体何をしたっていうんだよ。
詩の鼻血が落ち着いて、しばらく安静にして、それから夜の秘密特訓は再開された。
だけど俺はなにかもやもやが晴れず、あまり集中できなかった。
あと、詩がすごい密着してきた。
最近、まわりの女性の様子がおかしい。
*
「ってことなんですけど、こよみ先輩どう思います?」
サークルの集会で、俺はこよみ先輩に相談を持ち込んでいた。
理由は明白。
この1ヵ月でおかしくなっていったまわりの女性に対し、先輩だけは終始変わらずいてくれたからだ。
「なるほど……ふふっ」
「あの、先輩? 笑い事じゃないんですけど」
「あらごめんなさいね? 優さんの悩み事を楽しんだわけではないんですよ?」
「……本当ですか?」
ただまあ、この人が信頼できるかと言われると話は別。
思い返してみれば最初から、先輩はどこか掴みどころがない感じだった。
本心をひた隠しにしているというべきだろうか。
どこか分厚い仮面を常に被っていて、内心で何を考えているのかわからない感じがする。
(いかんいかん。女性不信になりかけてる)
相談に乗ってくれてる先輩に申し訳ないだろ。
とりあえず、彼女だけは信じてみないと。
「くすくす……でしたら優さん。今度の日曜日、一緒にお出かけしませんか?」
「え? 俺はうれしいですけど、なんで?」
「真剣な悩みみたいですもの。時間をかけて、私もきちんと向き合いたいと思いましたの」
「せ、先輩……っ!」
いい人だ!
この人めっちゃいい人だ!
なーにがどこか分厚い仮面を常に被っていて、内心で何を考えているのかわからない感じがするだ!
俺の目は節穴か?
節穴だよなぁ!
こんな親切な人を疑ってたとかどうかしてるぜ!
「よろしくお願いします!」
俺は全力で頭を下げた。
素敵な先輩を持った俺は幸せ者だ!
*
月姫こよみが高校生のころだ。
当時から写真部に所属していた彼女は、部員のひとりに言われた言葉をはっきり覚えている。
「こよみの写真ってさ、すごくきれいだよね」
どうして覚えているかというと、続く問いかけの答えに困窮したからだ。
「何かコツとかあるの?」
そんなこと聞かれても、困る。
彼女は昔から写真が好きで、いろんなものを取ってきた。
風景写真から静物写真、野鳥の写真に至るまで、ありとあらゆる瞬間瞬間を切り取って収めてきた。
もしも月姫こよみの写真にテクニックがあるとするならばそれは言葉にできない経験で、上っ面の部分しか表せないだろうと。
直感的にそう思った。
「なんと言いますか、言葉にするのが難しいですね」
「お願い! 今度のフォトコンで絶対に結果を残したいの! 企業秘密なのは分かるけど、力を貸して!」
「秘密にしているわけではないのですが……」
頭を下げる部員に、どうしたものかと頭を悩ませた。
「釣りの経験は、ございますか?」
「竿と糸で魚を釣る方? あるよ!」
「私が思うに、写真撮影というのは釣りと同じかと」
被写体を定め、撮影スポットを選定し、ターゲットと根競べをする。
「狙いが餌に食いついた瞬間以外に手を出せば、獲物は警戒してしまいます。お魚さんは賢いですから。だから、ひたすら待ちます。獲物が食いつく瞬間を、虎視眈々と」
勝負の舞台に上がるのは、獲物がヒットした瞬間だけでいい。
「要は3つだけなんです、いい絵に必要なのは。つまり、作戦と下準備と根気」
難しいと目を細め口を結ぶ部員に、月姫こよみは微笑みかける。
「さて、作戦を立てましょうか」
新月の夜には水面下で暗躍し、満月の夜には真実を切り抜く。
それが彼女の必勝法。
月姫こよみは策士である。
*
(うふふ、優さん……)
月姫こよみの部屋に飾られたコルクボード。
彼女がこれまでに撮影してきた、中でもとりわけお気に入りの写真たち。
を、スライドした先に現れた、刑事ドラマで見かけるようなウェビングされた写真の数々。
ここひと月弱で彼女が集めた真々田優の盗撮写真がそこには並んでいた。
彼と一緒にいる人の情報とともに。
花守咲桜。
クリーム色の二つ結びと小動物のようなしぐさが特徴的。真々田優の同級生。
朱鷺川美羽。
レッドブラウンのウルフカットでつんけんした言葉と裏腹に態度はデレデレ。
バイト先が真々田優と同じ。
風越詩。
明るい茶髪をポニーテールにした女子中学生。
真々田優とは夜間にバスケットで戯れる仲。
その他生年月日から推定される住所まで、
必要になりうる情報はすべて網羅した。
ターゲットの一日を制御する権利を確保した。
最高潮の時が来る、満を持して。
「さて、作戦を立てましょうか」
下唇を人差し指で撫ぜ、笑みを浮かべる。
彼女にはある。
女たらし3股ロリコン野郎の後輩相手に、もたらしたい未来の構図がある。
彼女を加えた4人による徹底包囲網だ。
問題はどのようにその構図を現実に描き出すか。
下唇に這う人差し指が固まる。
極限の集中力が意識を精神の奥底へ潜り込ませる。
彼の口から名前が挙がった3名とはどうしても鉢合わせたい。是が非でもだ。
しかしその3人を一堂に会させたのが誰かという部分は秘密裏にしておきたい。
理想を言えば、全員が偶然という形で一か所に集まるように仕向けたい。
難しい。
でも、やりがいはある。
例えば花守と朱鷺川にはそれぞれ互いが真々田と一緒にいる写真を送り付け、ランデブーポイントに呼び出すのはどうだろうか。
いや、写真はだめだ。
そこから首謀者が割り出される可能性がある。
ならば文章だけにするのはどうだろうか。
いや、確定的証拠もなしに来てくれる保証なんてどこにもない。
どちらか片方だけ来てしまったなんてことになれば修羅場の盛り上がりが欠けてしまう。
思考を一手深める。
(例えばSNS。花守さんと朱鷺川さんの2名は執着心が強いみたいだし、優さんのアカウントは特定しているのでは?)
場合によっては簡単に釣れる。
(優さんとお話して、スマホを少し拝借しましょうか。SNSに予約投稿を2つ設定。ひとつはスマホを弄れない必修科目中に。もうひとつはバイトの時間帯に)
その間自身はそれぞれ朱鷺川と花守の後を追い、反応を伺う。
通知設定を施している場合スマホを開くなどのアクションをすると予測される。
もし期待通りにことが運べば、この2人を簡単に任意の地点に呼び出せる。
どうしても外せない予定があった場合はヒットしない可能性もあるが、その場合はどうあがいても釣れない。諦めるしかない。
後は風越詩だ。
今や6割以上の中学生がスマホを所有している現代で彼女は珍しくスマホを持っていない。
SNSから動向を知るのは難しいだろう。
「垂らしますか、糸を」
ここしばらくのストーキングで、月姫こよみは真々田優がほぼ毎日少女の練習相手をしていることを知っている。
だから彼の口から「次の日曜日は用事があって来れない」と伝えておいてもらうのだ。
建前は「中学生の女の子は多感な時期だから」とでも言っておくのだ。
あの懐き具合から見て、そう言われれば何の用事か聞き出そうとするだろう。
また、彼がバイトをしていてかつ彼女が自主練をしているタイミングで接触を試みる手もある。
こちらはリスキーゆえにあまり積極的に採用したくは無いが。
ひとまず、ここまでをプランAとする。
各個うまく誘導できなかった場合を考えての補助作戦プランB。
まったくの別解プランC。
さらに別解のプランD。
四方八方に智略の糸を巡らせる。
目的の獲物を雁字搦めにする蜘蛛の巣のような意図を、逃げ場の無いほど広く、抜け穴の無いほど緻密に。
「さあ、優さん。あなたはどう答えますか? ……私のトキメキに」
新月の夜には水面下で暗躍し、満月の夜には真実を切り抜く。
それが彼女の必勝法。
月姫こよみは策士である。
*
ひと月前。
より正確に言うなら20日と22時間前。
ワックで女子高生が「彼氏がインポだった」「マジで別れたほうがいいよ」とか言っていて、思わずシェイクを飲みはねそうになったのを覚えている。
最近の子たちは進んでるな、なんて年より臭い感想を抱いた俺は無知な若造だった。
『続いてのニュースです。男子児童を腹上死させて逮捕された元県警の婦警について、地検は――』
先輩を待つスクランブル交差点。
その向かいのビルの巨大な液晶が配信するニュース速報。
そこに、目と耳を疑う事件が流れていた。
「は?」
婦警が、男子児童に……?
え、逆。
え? え?
腹上死?
ちょっと待って情報が多い。
「あー、なるほどね。完全に理解した。フェイクニュースってやつね」
よくよく考えたらこういうビルの液晶って、広告を流すもんだよな。
あんまりにもそれっぽいから事実の報道かと勘違いしちゃったぜ。
よくできたCMだなー。
「優さん! お待たせしましたか?」
「こよみ先輩! 俺も今来たところです!」
「本当ですか? ふふっ、ありがとうございます」
あ、あれ?
実は楽しみすぎて1時間前から来てたことバレてる?
いや、待て待て。
その場合先輩も1時間前に来てたことになる。
大きく見積もっても5分程度じゃないかな、様子を見ていたとして。
「何をご覧になっていたんですか?」
「そこのニュースを。婦警さんが男子児童を腹上死させたとか」
「またですか……怖いですね」
「本当に、え?」
また?
またって言った?
あ、あーね。
なるほど。
そういうフェイクニュースがはやりなのね。
数か月前なら不謹慎って怒られそうな話の気がするのに、今は冗談で済まされるのか。
それは確かに、怖い世の中になったなぁ。
「優さん優さん。知ってますか? このオブジェ、健康祈願のご利益があるらしいですよ。一緒に写真撮りません?」
「はい! よろこんで!」
って、こんな虚構に向き合ってても仕方ないな。
俺の今日の目的はなんだ?
女性関係についてこよみ先輩に相談に乗ってもらうことだろう。
長くなるかもしれないってことだったし、先輩のアドバイスもあって詩には今日は練習に付き合えないって事前に知らせてある。
どうしてと捨て犬のように俺を見つめてくるから正直に今日のタイムスケジュールを打ち明けた。
隠していることはただひとつ。
一緒にいる相手、サークルの先輩、つまりこよみ先輩が女性だと教えなかったこと。
嘘をついたわけじゃないし、詩が練習に集中できるようにと配慮した結果だし、いいよね。
「優さん。ミンスタに今の画像を上げてもいいですか?」
「大丈夫っすよ。てか……先輩ミンスタやってたんですね」
「最近ですけどね。ですが、あ、あれ? おかしいですね。アップロードしようとすると障害が……。優さんはミンスタやってますか? もしよければ私の代わりに上げていただけません?」
うん?
なんかやけに用意周到に準備されたセリフ感があったな……。気のせいか?
気のせいだよな。
アップロード障害なんて不測の事態が起きてるのに予測もクソもないもんな。
「いいっすよ。じゃあもう一回」
俺のスマホの内カメラで写真を撮り直し、俺のアカウントで投稿する。
しかも、先輩とのツーショット写真である。
ありがたやありがたや。
こりゃ健康にご利益が期待できそうだ。
「まだお昼には早いですし、予定通り近くのカフェでお話ししましょうか」
「はい! よろしくお願いします!」
そんな感じで、俺たちはカフェに向かった。
名古屋発祥の全国経営のとこだ。
俺はアイスコーヒーにコーヒーゼリーを加えたデザートドリンクを頼んで、先輩はアイスミルクティーを頼んだ。
窓際の席について最初に行われたのはアイスブレイク。
緊張をほぐすための、ちょっとした雑談だ。
5から10分くらいかな。
それくらい経って、先輩は言った。
「ア〇ウェイって知ってる?」
「今日はありがとうございました」
「ふふっ、冗談ですよ」
よかった。
まだアイスブレイクの途中だったか。
先輩が言うと冗談が冗談に聞こえないんだよな。
そんな感じの冗談を、40分くらい続けた。
長くない?
いや俺は先輩と話せて楽しいけど。
おかげで程よく緊張も解け、て……。
「優さん? どうなされました?」
「あ、いや、なんでも」
窓の外に向けた視線。
そこに、背筋が凍る思いをした。
(なんで⁉ なんでここにいるの⁉ 今日ここに来ることは詩以外の誰にも言ってないのに!)
窓の外には2匹の野獣がいた。
ひとりは花守咲桜。
同じ学科の、クリーム色の二つ結びと天使ボイスが特徴的な子だ。
俺は最初、彼女を小動物みたいな子だと思った。
いや、その感想は間違いじゃない。
純然たる事実として、彼女のしぐさには小動物みたいな可愛らしさが垣間見える。
だが、肉食動物だ。
しかも百舌鳥が早贄を捧げるように獲物を縛り付けて逃げられなくするタイプ。
最近、ちょっと怖いと感じる。
もうひとりは朱鷺川美羽。
バイト先が同じレッドブラウンの大学生。
ずっとツンデレだと思っていたけれど、最近メンヘラの要素が強いことに気づき始めた。
かなり初期の段階から花守さんの危険性を示唆してくれていてその助言を聞かなかったことを申し訳ないと思わなくもないけど、正直彼女も同じくらい危険な気がしている。
(そうだよ! だからこのことを先輩に相談するために――)
思い出したように、錆びたブリキ人形のように、ぎこちなく首を回す。
先輩の方を向こうとした顔が、途中でフリーズした。
(なんで詩までここに来てんだよぉぉ!)
おかしいだろ!
バスケの練習はどうした!
全国行くんじゃなかったのかよ!
「優さん? どうなされました?」
「は、はは。あの、ちょっと早いですけど、場所移動しません? なんか冷えちゃったみたいで」
「あら? ごめんなさい気が付かなくて」
「俺も今気づいたばっかなんで……」
とにかく!
こんな危険な場所に居られるか!
俺は安全圏へと逃げさせてもらうぜ!
お代はもちろん俺が出した。スッとね。
相談に乗ってもらう立場だから当たり前だよな。
だけど先輩からは「そういうところだと思いますよ」って言われた。
なにが?
ちょっと問いただしたい気がしないでもないけど、今はこの場を離れることが先決だ。
先輩、ちょっとこっちへ――
「あ! 優さんご覧ください! 飛行機雲ですよ‼」
「「「「⁉」」」」
ちょ、何してくれてんの――⁉
*
……気づくべき場面は、あったんだ。
あちこちに散乱していたんだ。
だけど、ずっと気づかないふりをしていた。
その結果が、この惨状だ。
「わたしたちの」「アタシらの」「ウチらの」「私たちの」
「「「「誰と付き合う」」」」
「んですかっ?」「のよ!」「つもりなの」「のでございますか?」
この世界は、貞操観念が逆転している。
*
ちょっと時間をください。
全力で頭を下げて命乞いをした。
町中で、みっともなく。
「ぐ、おぉぉぉ! どうすればいいんだ!」
頼みの綱だったこよみ先輩はあの状況を楽しんでた!
なんだったら全員囲っちゃえばって耳打ちしてきた!
ちっがうんだよぉぉ!
俺が求めた解決策ってそれじゃないの!
今一番欲しいのはこの修羅場をどうにか切り抜ける必殺の一手!
「ふぅ……よし。どうにか穏便に偽装カップルを解消しよう」
それで解決するはずだ。全部。
ということで、その日の夜に花守さんを食事に誘った。
Linearでメッセージを送ったら間髪入れずにリプライが来た。
二つ返事でオッケーだった。
俺が別れ話を切り出すなんてつゆほども思ってなさそう……。
すげえ言い出しづらい。
(いや、ここで折れるな、俺)
急遽予約したのはシックなお店。
木目調のタイルとほのかな光が雰囲気出してる少しお高いところ。
財布には優しくないけど、誠意を見せるためだから仕方ない。
「お待たせ! 真々田くん!」
「ああ、うん。俺も今来たと、ころ……」
声がして振り返った。
そこに女性がいた。
美しさよりもかわいさに振られたパラメータ。
こじんまりとしたサイズを逆手に取ったハイウエストのコーデ。
いつもの二つ結びは頭の高い位置で団子結びにされていて、目に見えておめかししているのがわかる。
「どう、かな……?」
恥じらいながら言うものだからとっさに
「似合ってる……めちゃくちゃ」
と、答えてしまった。
「えへへ、ありがとっ」
俺のバカぁぁぁぁ!
ドアホぉぉぉぉ!
何これから別れ話切り出す相手をその気にさせるような言葉掛けてんだ!
言い出しづらくなっただけじゃねえか‼
「わたし、本当にうれしいんだ。わたしを呼び出してくれたってことは、わたしを選んでくれたってことだよね?」
カクッと動きかけた首を慌てて止めた。
条件反射で頷こうとしてんじゃねえよ。
思い出せ。
GPSで位置情報共有しようとか言い出す相手だぞ。
俺にそんな束縛された生き方ができるか?
否だろう。
「そのことなんだけど、さ」
言え。
言うんだ、俺。
はっきりと。
これ以上曖昧な関係を続けちゃだめだ。
終わりにするんだ、今日、ここで。
「終わりにしよう、恋人のフリ」
正直に言おう。
めちゃくちゃ怖い。
花守さんがどんなリアクションを取るのか。
だけど、だからこそ。
俺は彼女から目をそらさなかった。
これが俺の決意表明だと、示すために。
「嬉しい……っ!」
「へ?」
え?
嬉しい?
なんで?
「恋人のフリをやめて、本当の恋人になるってことだよね!」
「ちがっ」
「えへへー! わたしね? 本当言うと、最初からそうなれたらいいなって思ってたんだ!」
「だから、話――」
「約束するよ。病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、 真々田くんだけを愛するって」
「えと、その……うん」
わたしまけましたわ。
*
花守さんは強敵すぎる!
後回しだ!
残った3人の中で優先的に関係をはっきりさせておかなきゃいけない相手と言えば……
「美羽。シフト終わった後時間あるか?」
「……っ! うん。大丈夫」
バイト仲間の朱鷺川美羽だ。
彼女もまたどこかブレーキが壊れかけてる節がある。
俺の想定が正しければ……今朝見た男児腹上死事件はフェイクニュースなんかじゃない。
次が俺の番って可能性も無くは無い。
そんな死に方まっぴらごめんだ。
だから、その未来をここで断つ。
つまり作戦はこうだ。
美羽には花守さんに偽装カップルを終わりにしようと提案したことを話す。
そして、実際に終わったことも話す。
なんやかんやあって、なぜか正式に付き合うみたいな話になっているが……これはもちろん伏せる。
そうなれば美羽が俺を心配して恋人のフリを迫る理由もなくなるはずだ。
作戦に抜かりなし。
今度こそうまくやるぞ……!
「昨日、花守さんに偽装カップルを終わりにしようって話した」
「ふ、ふぅん? それで、どうなったの?」
やっぱり聞いてくるか。
位置情報共有アプリの件をはっきり断れなかった前科があるから仕方ないけど。
まあいい。想定の範囲内だ。
「お互いに納得して、終わらせることにした」
「じゃ、じゃあ!」
大仰に頷こうとして、違和感に襲われた。
なんか今の声、喜色に満ちてなかったか……?
俺今から終わりにしようって言おうとしてるんだけど、あ、あれ?
この流れ、どこかで――
「アタシを選んでくれるってことね!」
「ちょ待――っ」
「嬉しい……、本当に。アタシ、小さいころからまともにご飯食べてこれなかったから体つきが貧相だし、優の先輩を見たとき、ああ、勝てないなって思っちゃった……。でも、優はアタシを選んでくれた! こんなに素敵なことってある⁉」
「……」
おかしい。何かが。歪んでいます。
なんでだ?
俺は恋人のフリという関係に終止符を打とうと思っただけなのに、どうして関係が進展していくんだ?
しかもさりげなく発覚した衝撃の事実よ。
まともにご飯食べてこれなかったって何?
DV? ネグレクト?
よくわかんないけどそんな過酷な環境で育ってきた相手を突き放すなんてマネ、俺にはとても……
「大丈夫。優はアタシが幸せにするから!」
「あ、うん。頼りにしてる、よ?」
なんか違う。
思ってたのと違う。
*
いや仕方ない。
あの二人が強敵なのは分かっていたことじゃないか。
対して次の相手は女子中学生風越詩。
彼女は俺をバスケット選手として慕ってくれているところがあるけれど、恋をするには年の差が離れすぎている。
彼女がお酒を飲めるようになるころには俺はアラサーだ。
……あれ?
思ったより年の差離れてない……?
いや待て待て待て。
中学生に手を出すのは倫理的にアウト。
時折俺に欲情してる節はあるが、それも男子中学生が胸元強調したお姉さん見たら興奮するのと同じ原理だろ。
俺に非があったのは遺憾ながら認めるしかないが、彼女が抱いているのは恋愛感情ではないはず。
だから大丈夫!
「詩。練習を始める前に言っておきたいことがある。俺は――」
「や、やだっ! 待って!」
詩の悲鳴が夜の闇を切り裂いた。
待っては俺のセリフなんだが?
そんな泣くような声で叫ばれたらどう考えても俺が女子中学生に発情して襲い掛かったサルなんだが?
勝てない、年を取った男は女子中学生に。
相手の機嫌をうかがうしかない。
「どうして今なんですか? 約束してくれましたよね? ウチが全国に行くまで練習に付き合ってくれるって」
期間伸びてないか?
全国に行ったときは応援するって言ったけど、俺いつまで練習に付き合うかまでは明言してないよね?
詩は中学生だからあと6年もチャンスあるんだが。
院進でもしない限り俺が社会人になる方が早いんだが。
社会人になったらさすがに無理だよ?
「実は、お兄さんには秘密にしてたんですが、今バストアップマッサージとかちゃんとしてるんです」
「なんてことぶっちゃけ始めるんだ」
「数年後にはすごいことになってるはずです。ボインボインになってます。切り捨てるのは早計だと忠言させていただきます。だから、だから……」
俺のそばに寄った詩が、俺の服にぎゅっと縋る。
「待ってくれませんか……ウチが全国の舞台で活躍するまで、結論を出すのは」
……ま、まあ、仕方ない、よな?
中学生って多感な時期だし、下手に精神を傷つけてプレーに支障をきたしたら問題だもんな。
将来有望な選手にトラウマを植え付けて未来の芽を摘むのは俺の望むところじゃない。
6年だぞ?
脳科学でも言ってたじゃないか。
恋は3年で冷めるって。
6年。
その倍だ。
95パーセント信頼区間だ。
そうさ。
俺から切り出さなくたって、そのころには詩も別の恋を見つけてるに決まってる。
「そう、だな。結論を出すには早かったよ」
「……ん」
「じゃあやるか。まずはいっつもみたいに1対1の3本勝負から」
「ん。ちゃんと成長してる。見てて、絶対に、全国で優勝する。だから、その時は――」
……大丈夫だよな?
*
3戦全敗。
それが俺の戦績だった。
そしてこれから挑もうとしている相手は、中でも群を抜いて勝てるビジョンが浮かばない。
なんだろう。
こよみ先輩は人生一回分くらいの実力差を感じる。
翻弄されて、いいようにおもちゃにされる。
そんなイメージしか湧いてこない。
(まあ、4人の中だと1番まともそうだけど)
だからこそ。
これ以上こんな不祥事に巻き込むわけにはいかないな。
(先輩にはもっといい人がいる。俺みたいなクズやろうじゃなく)
正直に打ち明けよう。
誰一人にも別れ話を切り出せず、どころか関係をこじらせるだけだったこと。
さようなら、唯一の良心。
「素っ晴らしいです! さすがは優さん!」
「……は?」
「姑息な手段で2股を成立させたうえで将来有望な中学生をキープ……! しかもそれを私に報告するだなんて……なんという鬼畜の所業……っ!」
「あの、こよみ先輩?」
「はぁ……はぁ……それでこそ私が見込んだ殿方です。やはり私の伴侶は優さん以外あり得ません!」
「さてはテメーが一番やばい奴だな?」
「あぁんっ!」
悟った。
この人だけは関わっちゃダメな人だ。
おいおい、どこのどいつだ!
この思考回路破綻した残念美人をいい人だとか思い込んだ奴は。
節穴の目にもほどがあるぞ。
「と、とにかく! そういうことなんで先輩と付き合うことはできません!」
「くすくす……無理じゃないかしら。私と縁を切るなんて」
「は? 何を言って……」
ファサと音を立てて、現像された写真がばらまかれた。
机に散らばった写真に目を見張る。
「これって……」
「はい。優さんの浮気現場です」
「人聞きが悪いな⁉ っていうか、これ盗撮じゃ……!」
「ふふっ、でも、大変ですよね。これがネットの世界にバラまかれるかもしれないんですもの」
……おいおい、マジかよ。
この手の脅迫を女性から受けるのは想定外だぞ。
「どうすればいいかは、わかりますよね?」
「……わかった。わかったから、それだけは」
「ふふっ。優さんとなら分かり合えるって思ってました!」
勝てなかったよ、この先輩にはやっぱり。
*
「やべぇ、どうすんよ」
全戦全敗。
空前絶後のクソ雑魚ナメクジとは俺のこと。
今回の別れ話切り出し作戦において俺は、マイナスの成果しか得られなかった……!
無理だ。
こんなへんてこな世界で生きていくなんて、
俺にはできっこない。
くそ、どうしてこんなことに。
答えは出ない。
時間だけがいたずらに通り過ぎていく。
*
どうにか穏便に偽装カップルを解消したいが、誰一人解放してくれない件について。
どころか状況がますます悪化している件。
おかしい。こんなはずじゃ。
なんだってこんなことに。
「……そうだ、あの爺さん」
思い出したことがある。
それはおよそひと月前。
大学からバイトに向かう道中のこと。
路地をひとり歩いていた俺に声をかけてきた詐欺師然とした好々爺がいた。
背中の曲がった老人に押し売りされた先着一名限定のチケット。
あの券が――
『ふぉっふぉ、楽しんで居るようじゃな、青年』
聞き覚えがある声に顔を上げた。
今一番会いたい人の声だ。
視線を上げた先、一面張りのガラスのビルに老人の姿が映っている。
「爺さん! あんたに聞きたいことが――」
鏡の向こうで隣に立つ爺さんの方に体を向けた。
だが、そこには誰もいない。
「……は? 何がどうなって」
ガラスを見る。爺さんが映っている。
隣を見る。誰もいない。
鏡の中だけに老人の姿が映し出されている。
『ふぉっふぉ。探しても無駄じゃ。青年とわしでは文字通り【住む世界が違う】からの』
「どういう意味だ」
『分からんか? それとも、理解したくないだけか?』
「……あのチケットは、本物だったのか?」
『左様』
「なんなんだよ、なんなんだよこれッ! 俺はどうなる、どうすればいいッ‼」
『何を狼狽しておる。お主が望んだ世界じゃ。精一杯楽しめばよかろう』
「……はっ、冗談きついぜ。いつ背中から刺されてもおかしくないじゃねえかよ」
気づいたんだ。
俺が好意だと錯覚していた、女性陣からの歩み寄り。
あれはそう。
ナンパ初心者が女性に勇気を振り絞る行為と同じ。
つまり……性欲から滲み出た、悪意だ。
こんなことになるってわかっていたら、もっと慎重に行動していた。
恋人のフリの相談なんて軽々しく受けなかった。
ああ、くそ。
「そうだ。何が男女比がおかしいだ。普通に1:1じゃねえか、詐欺じゃねえか! 元の世界に帰せよ‼」
『ふぉっふぉ。男性の人口が女性より極端に少ないなどの理由とは言ったが、必ず男女比がおかしいとは言っておらんぞ?』
「はぁ? だったら浮気や寝取られのセーフティはどうなってるのか言ってみろよ!」
『ED率』
は?
『Erectile Dysfunction、勃起不全。身体的あるいは精神的な理由から十分な勃起が出来ない男が多いのじゃよ。第二次性徴で生殖器がほとんど発達しないと言うべきかの』
「待て待て待て! そんなのいざ本番にならないと分かんないだろ!」
『それが分かるのじゃよ。そっちの世界の女は副嗅覚系というフェロモンを嗅ぎ取る器官が発達しておっての、オスの持つ精力に強く惹かれるのじゃ』
……それって、つまり。
『精力こそ正義なのに性欲が枯れた男ばかりの世界に雄が一人。鞍替えしようとする女などおらんよ』
爺さんは「元から恋人がおる場合に操を立てて破らない女はおるかもしれんがな」と付け加えた。
そう言えば最初に会ったときも、「据え膳食わぬは女の恥」なんて世界じゃないって言ってたか。
その辺はどこの世界も同じらしい。
納得できない話じゃない。
が、どうにも腑に落ちない。
「……爺さんさ、詳しすぎねえか?」
何者なんだ。
そういう意図で問いかけた。
『わしか? そうだな――』
爺さんの口が三日月のように弓なりを描く。
『お主の前任者、とでも言っておくか』
「前任者だと?」
『左様。お主は問うたな。「どうすればいい」と。性欲が枯れるまでその世界で生きよ。その時お主は元の世界に戻れる』
「……なんで俺なんだ」
『さあのぉ。選んだのはチケットじゃ。わしが選んだわけではない』
「無責任な」
『ふぉっふぉ。わし程責任感の強い男などそうは居るまいて! なにせ現役時代は寄ってくる女をみんな囲い、みんな幸せにしたからの!』
それって無責任ってことじゃねえのか。
ダメだ。
この爺さんと話してるとおかしくなる。
怖いんだよ。
もっと普通の恋愛をして、平凡に生きて、ありふれた死に方が出来ればよかったんだ。
それが気づけばこんな訳の分からない世界に放り込まれてて、不安になって何が悪いんだよ。
『良いではないか。貞操観念が逆転したからなんじゃ。お主の目の前にいるのは、お主に好意を寄せる女性じゃぞ? 妖や物の怪などではない。一人の乙女なのじゃ』
「……」
『一度、向き合ってみるとええ。きちんとな』
おもむろに、顔を上げた。
景色を映すビルのガラスに老人の姿は無い。
夢か幻だったかのように、忽然姿を消していた。
「向き合う……か」
爺さんの言ってることは何も間違っちゃいねえ。
反論する手札を俺は持ってねえ、悔しいが。
「彼女たちは俺の知る女性とは少し違うかもしれねえ」
でも、それは致命的な違いなのか?
性欲が強い女性は、独占欲の強い女性は、依存性の強い女性は、思春期の女性は、人じゃないのか?
そんなわけがないだろ。
元の世界にだってそういう人はいるはずだ。
だったら、それを異端だと弾劾するのは俺のエゴに過ぎないじゃねえか。
「きちんと向き直そう」
始まりは意図せずだったかもしれないけれど、これが俺の望んだ世界なんだ。
「この程度の修羅場を潜り抜けられねえようじゃ、男が廃るってもんだろ」
だから、ここからはじめよう。
花守さん、美羽とはお互いに本命だと主張して偽装カップルを続行。
詩は本当に優勝するか、俺への恋が冷めるまで待ち。
こよみ先輩には別の代価を支払うことで関係性の黙認を願う。
これが俺にできる最善策。
誰も傷つけない最適解。
だから――
「違うだろうがァッ!」
駅近くの薄暗い高架下。
グラフィティアートの描かれた混沌地帯に、俺は頭をたたきつけた。
(逃げるなよ、バカ野郎。みんな、俺を本気で思ってくれてんだぞ。それなのに手前だけが嘘を上塗りしていくつもりか)
不義理にもほどがある。
今さっき、決めたばかりじゃないか。
彼女たちときちんと向き合うって。
――俺の選択は。
*
「あ、あの……真々田くん?」
「呼び出されてきてみれば」
「どういうつもり、ですか」
「ふふっ」
翌日の夜。
市役所横の公園。
そこに俺は四人を呼び出した。
花守咲桜。
クリーム色の二つ結びと小動物のようなしぐさが特徴的な天使ボイスの同級生。
朱鷺川美羽。
レッドブラウンのウルフカットで愛情表現が苦手な甘えん坊のバイト仲間。
風越詩。
明るい茶髪をポニーテールにした女子中学生バスケット選手。
月姫こよみ。
黒髪清楚に見せかけた変態。
彼女たちとの奇縁を呪ったこともあった。
でも、今は違う。
呼吸を一つ。覚悟を決めろ。
彼女たちが俺を思ってくれているなら、
俺もその思いにこたえたい……!
「好きだッ! 俺と付き合ってくださいッ‼」
公園の照明が、四人の姿を照らしている。
光を背にした彼女たちの顔は逆光で暗く、表情がうかがいづらい。
向かい合う俺が表情をごまかさないように光の正面に立っているからだ。
「あ、あはは、真々田くん? 冗談きつい、かな。告白は、前にもしてもらったよね?」
「ごめん花守さん。あの時俺は、別れ話のつもりで言ったんだ。『恋人のフリを終わりにしよう』って」
本当に、ごめん。
俺は深々と頭を下げた。
「しかもそのうえ、美羽にはあたかも関係を終わらせたかのように説明した。自分の保身のために。気づいてなかったんだ。傷口を塞ぐための嘘が、どれだけ相手を傷つけるかなんて」
美羽にも、ごめんと、謝罪した。
深々と頭を下げて謝った。
「詩。お前が全国で優勝したら付き合ってくれと言ったとき、俺は内心で、お前の敗退を願った。お前の師匠として成長を見届けるって約束したにもかかわらず、だ」
「……お兄さん」
「すまなかった」
3度頭を下げる。
場は既になんとも言い難い空気感だった。
いつ殺されてもおかしくない気がする。
だけど、俺がすべてを打ち明けるのを、みんな待ってくれている。
情状酌量の余地があるかどうかを見極めてくれている。
耳を傾けてくれている、俺の最終弁論に。
「こよみ先輩」
「はい」
「盗撮は犯罪です」
「え?」
よし。
全員に言うべきことは言ったな。
「俺はクズだ。どうしようもないクズ野郎だ。小心者で保身的で、愛をねだるくせに受け止める覚悟もない臆病者だ。でも、ようやく決まったんだ」
一人一人に視線を送る。
これが俺の決意表明。
一世一代の罪の告白。
「もう、逃げない」
満ち満ちたのは静寂。
夜の重々しさを背負った沈黙が、場を支配する。
気分はさながら判決を言い渡される囚人だ。
「要約すると、真々田さんはわたしたち全員と付き合いたいってこと?」
主文後回し。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
「……はい。許していただけるなら」
裁判において主文、つまり課せられる刑が後回しにされるのは、被告が取り乱すほどの刑を告げる場合。
事実上の死刑宣告。
(は、ははっ。まあ、土台無理だわな)
客観的に見て、俺は4股クズ野郎。
普通の感性なら受け入れがたい。
最初から、分かっていたことじゃないか。
「わたしはそんなの絶対認めな――」
「いいと思いますわ。少なくとも私は、でございますが」
花守さんが糾弾しようとしたところを庇ってくれたのは、こよみ先輩だった。
「はぁ? これはわたしと真々田くんの問題です。余計な口はさまないでいただきたいです」
「いいえ? 優さんはこの場にいる全員におっしゃったのです。返事の権利は私にもございますわ。……苗字呼びさん?」
「……喧嘩を売っているんですか?」
「とんでもございませんわ。私、優さんにはしたない女だと思われたくありませんもの」
いやどの口が言うか。
誰がどう考えてもあんたが一番ぶっ飛んでるよ。
「ふふっ、優さんの決意を受け止められないなら立ち去って構いませんわよ。私は2股だろうと3股だろうとおそばに付き添いますゆえ」
「それは……っ! 違う! 真々田くんがわたし以外と別れて、わたしとだけ付き合ってくれればいいんだもん!」
「束縛するばかりのオンナは、嫌われましてよ?」
「……そんなこと、無い。だって、だって真々田くんは」
花守さんの目が怪しく光った気がした。
内包した狂気があふれ出しているようだ。
正直、こよみ先輩をここに呼んだのはワンチャンストッパーとして機能してくれないかと期待してのことだったけど、どうやら先輩一人には荷が重いらしい。
状況は、どうしようもなく分が悪――
「アタシも、いいよ」
重圧を引き裂く声。
発生源は明確だった。
沈黙を貫いていた朱鷺川美羽が口を開いたのだ。
「今更優のいない未来なんて考えたくない。思うところが無いわけじゃないけど、優が真剣に考えて出した答えなら、アタシも受け止めたい」
美羽が一歩前に出る。
拳を胸に押し当てて、まっすぐ俺を見つめている。
「優に寄り添って生きるから……優がアタシを大切に思ってくれた分、幸せを返すって誓うよ」
「美羽……」
胸が締め付けられる思いだ。
彼女の思いを一度は裏切ろうとした申し訳なさと、そんな俺を許してくれる有難さがないまぜだ。
「ウチは、許しませんよ」
満を持して口を開いたのは詩だった。
「信じていた師匠に裏切られて弟子は傷心です。多感な中学生には深刻なトラウマです」
「……そう、だよな」
「うん。だから……この胸の苦しみは、お兄さんが責任をもって癒すべきです」
しかめた面から、口を間抜けに開けっ広げた。
「6年と言わず、何年でも。ずっとウチのそばにいてください」
「でも」
口答えしようとして、口ごもった。
言い訳するためにここにいるんじゃない。
それが詩が俺に求める刑罰なら受け入れる。
そのつもりだったはずだ。
「わかった。今度こそ約束するよ」
「ん。だったら、ウチからは終わり」
詩が視線を向けた先。
そこには親指の腹を犬歯で抑える花守さんがいる。
「おかしい。なんで。なんで? どうしてわたしのものになってくれないの? どうしてわかってくれないの? わたしはこんなにも真々田くんのことを愛しているのに」
「花守さん」
違うよ。
花守さんの愛の重さは、身に染みて思い知っている。
「わかってる。花守さんがどれだけ強く俺を思ってくれているかなんて」
「わかってない! わかってたら言わない! こんなこと!」
「そっか……じゃあ、これから教えてほしい」
「……え?」
花守さんが呆気にとられる。
思考の停止したこの好機を俺は逃がさない。
「ううん。教えてもらうだけじゃ足りない。俺のことももっと知ってほしい。でもそのためには時間が足りない。だから一生かけて、お互いのことを分かり合っていきたい」
「あぅ……えと、その」
「それじゃ、ダメかな?」
暗がりの中でも、赤面するのがよくわかった。
だから惹かれたんだ、俺は花守さんに。
これからもずっと、愛していける。
「……わたしのことも、しあわせにしてくれますか?」
「約束する」
「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、わたしを愛し、助け合ってくれますか?」
「当然、死が二人を分かつまで。……いや」
腹に力を入れる。
視線はまっすぐ。
「死んでも愛し続けることを誓うよ」
後悔しないか?
言ってから、自分自身に問いかける。
答えは出ていた、最初から。
ああ、後悔しないさ。
「こんな不束者ですが……よろしくお願いします」
*
ひと月前、ワックで女子高生が「彼氏がインポだった」「マジで別れたほうがいいよ」とか言ってた。
思わずシェイクを飲みはねそうになった。
世の中には悪い男がたくさんいるのに、花も恥じらう女の子が昼間からなんてはれんちな話を。
危機感が欠如してるんじゃないですかね?
なんて、間抜けなことを考えていた。
危機感の欠如したバカな若造が俺とも知らずに。
(でもま)
だからこそ今が充実している。
俺の選択は間違いなんかじゃなかった。
結果論だけど、いまならそう思えるんだ。
貞操逆転に気づかず恋人のフリの相談を軽々しく受けまくっていたら、想像以上の修羅場がやってきた。
「ありがたいことに、ね」
高架下から空を見た。
青い空に一筋、飛行機雲が棚引いている。
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