フル・アウト・ペトリコール
彼女は雨が好きだ。
朝起きて雨が降っていると、彼女は顔も洗わずに窓の向こうに広がる、濡れた灰色の世界をじっと見つめている。薄い窓ガラスに叩きつけられ、そして爆散していく小さな雨粒たちの断末魔を聴いている。
僕はそんな彼女のために、低気圧で疼く頭を抱えながら立ち上がって、少しだけ濃く入れたホットコーヒーを彼女のために持っていく。彼女は心ここにあらずと言った様子で「ありがと……」と呟いてマグカップを受け取り、そしてずずっと音を立ててコーヒーを飲む。
僕は彼女と同じ、濃いコーヒーを啜りながら、ぼんやりとした彼女の横顔を見た。長い睫毛のついた瞼が眠たそうに落ちかかっている。半分だけ空いた口元、首筋のキスマーク。僕はやれやれと首を小さく左右に動かした。雨を見つめているときの彼女はテコでも動かない。
再びコーヒーを啜り、ローテーブルの上のテレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押し込んだ。番組を天気予報に合わせる。今日は一日雨らしい。
ああ、これで今日のデートは無しになったなと、微苦笑を浮かべながら、残ったコーヒーを一息で飲み干した。
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少し前、彼女に何故雨がいいのかと訊いたことがある。近所の、よく行く老夫婦の経営している小さなカフェでのことだった。
彼女は小さな手で乳白色のティーカップを包み込みながら、僅かに首を傾げた。肩口で切りそろえた内巻きのボブが、さらりと零れる。その細い線が暖かな色の照明の光を受け止め、淡い茶色に輝いた。
「音……音がいいんだよ。落ち着くんだ。それに、厚い雨雲に覆われた世界って、なんだか新鮮じゃない? 小さいころから雨なんて何度も何度も経験しているはずなのに、それでも雨が降る耽美にやっぱり新鮮に感じるの。非日常感って言えばいいのかな? 窓ガラスとか、ビニール傘とかにぶつかって死んでいく雨粒たちも、全部同じようでさ、やっぱり一つ一つ違うんだよ。大きさも、純度も、勢いも、ぶつかるときの角度も、場所もね。そう考えると不思議だよね。不思議で、面白い」
彼女は柔らかい笑みを浮かべ、ティーカップの中のミルクティーを呑んだ。その中には四つもの角砂糖が投下されている。甘いものが苦手な僕にとっては、劇薬に等しい液体だった。
僕は質問を重ねる。何故僕のことが好きなのかと。
「……なんでだろうね。もちろん、顔が好みだとか、話が合うだとか、そういうのも要因としてはあるんだけどさ、そういうのじゃ、納得しないんだよね?」
頷く。彼女は困ったように微笑む。
「うーん……多分だけどさ、君は雨に似ているんだよ。しっとりしてて、落ち着くんだ。静かで、でも時々激しくて、わたしの心をダムみたいに満たしてくれる。君の横にいると、雨のように守られているような気がするんだよ」
彼女は雨上がりの、あのカラッとした晴天模様のような暖かな、そして清々しい笑みを浮かべながらそう言った。空に浮かぶ真っ白の雲が、彼女の手元のティーカップの中に残ったミルクティーに写りこんでいる。ゆっくりと滑っていく大きな雲。そよ風が吹いている。肌を僅かに温める陽光。行きかう人々の発する音。僕らを包む世界は今日も平和で、ゆったりとしていて、不幸なんてこの世にないなんて顔をしている。
彼女はそんな世界の片隅で、甘ったるいミルクティーに口をつけた。
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集中力が途切れ、読んでいた漫画雑誌から顔を上げて壁に掛けた時計を見ると、昼を僅かに過ぎていた。漫画雑誌をローテーブルに置き、ググっと身体を伸ばしながら視線を窓の外へ向けると、その向こうでは未だ水滴たちが落下していた。今朝よりも、やや激しくなっているような気がする。相変わらず、彼女はそんな世界をガラス板一枚隔てたこちら側で座って眺めていた。
僕は空腹を訴え始めた腹を擦りながら、ぼんやりとしている彼女に問いかける。
「お昼、どうする?」
「んー」
彼女はそんな上の空の返事を返してきた。こういう時は、何を出してもまず文句は言わない。
僕は立ち上がると、リビングと一続きになっているキッチンへ向かい、棚の中から買いだめてあるカップ麺を二つ取り出した。電気ケトルを引っ張ってきて、その中に水道水を流し込み、台にセットしてスイッチを入れる。ジューッと水が熱せられている音がする。それもやがては、グチュグチュと言ったような、小気味良い音に変化した。
お湯が沸騰し、スイッチが切れる。注ぎ口からはもくもくと湯気が立ち上っては、部屋の中に溶けいるように消えてなくなっていく。ふと、水道の蛇口から一粒だけ水滴が零れ落ちた。それは乾いたシンクの上に勢いよく叩きつけられ、ドンッと銃声を限りなく小さくしたようなくぐもった音が鳴り響いた。その音はシンクの中で残響し、次第に小さくなるにつれて、外の雨音に掻き消されてしまった。
カップ麺にお湯を注ぎ、お箸を二膳取り出して彼女の許に戻った。きっちり三分計り、彼女に声を掛けてカップ麺を手渡した。
「熱いよ」
「……ん」
僕がスマホを弄りながらカップ麺を食べ終え、彼女の方を見ると未だもそもそと食べ続けていた。視線は変わらず窓の外を――窓の外の雨粒の群れを映しているようだ。
段々と強くなっていく雨脚に合わせ、灰色の街は白く煙っては、その存在を不確かなものへと変えていくように思えた。
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一年前か、それかもうひとつ前の彼女の誕生日。その時彼女は珍しく普段は飲まないアルコールを飲んで、ささやかにふわふわと酔っていた。形のいい小さなそのほっぺたを淡い桃色に染め、普段より瞼を落とした目で彼女はチューハイの缶の成分表を見るでもなく眺めながら、ぽつぽつと語りだした。
それは、彼女が雨を好きになった理由だった。
「わたしのお父さんは、すぐに頭に血が昇る人だった。すぐに大きな声を出して、わたしやお母さんを怒鳴りつけるの。学校とか、近所の人とか、家庭外の人にばれるのを恐れてか、滅多に手は出さなかったけどね。でも、その分大きな声で、思いつく限りの悪意や怒りをわたしやお母さんにぶつけてくるの」
彼女がチューハイの残りを飲み干し、缶を潰して立ち上がり、冷蔵庫から新しい缶を取り出してプルタブを起こした。カシュッと言う音と共に霧雨のような細かい飛沫が辺りに飛び散った。彼女はまるで熱いものでも飲むかのように一口啜り、話を続けた。
「それは、お父さんが仕事から帰ってきて、お酒を飲む夜によく起こるの。アルコールが入ると、感情をコントロールできなくなるんだろうね。お父さんの会社は夜遅くまでやっていて、帰ってくるのも深夜のことだったから、わたしは寝るために部屋に引き上げていて、わたし自身が怒鳴られることはそんなに多くはなかったけれど、でもお母さんはお父さんの相手をしなくちゃならなかったから、ほとんど毎日、あの大声に耐えなくちゃならなかったんだ」
ふと、どこか遠いところから野良犬の遠吠えが聞こえてきた。何かを憂いているような、あるいは何かに憤っているような、そんな力強く野太い声だった。僕はハイボールで唇を潤し、彼女の目を見た。とろんとしていて、熱を帯びた大きく黒い瞳。それを守るようにある長い睫毛がふるふると震えている。
「お父さんの声は、大きくて、そのうえ良く通る声だったから、もちろん同じ家の中にいるわたしの許まで届いてきたの。その声を聴くと、動悸が激しくなって、頭の中がぐわんぐわんして、胃袋がひっくり返りそうになったんだ。いつも、お父さんが酔いつぶれて寝てしまうまで、わたしは布団の中で蹲って、耳を塞いで耐えていた。でもね」
彼女が僅かに口角を持ち上げる。
「でも、たまにお父さんの声を気にせず、ぐっすり眠れる時があったの。それが、雨が降っているときだった。わたしの家は構造上なのか知らないけど、何故か雨の音が良く響いたんだ。家を打つ雨粒の音が、お父さんの声を小さくしてくれたんだ。小雨より大雨、大雨より嵐のような台風。激しい雨であればあるほど、わたしはよく眠ることができた。窓ガラスが割れるほどの暴風雨でも、世界が弾けるような雷雨でも、お父さんの声よりはマシだったんだ」
彼女はうっとりとそう語り、再びチューハイの缶を握り潰してテーブルに頬杖をついた。上目使いで僕を見る彼女の表情が、年端もいかない子供みたいで、かと思えばねっとりとした婦人のようでもあり、どうしようもなく艶めかしかった。
「そんなある日ね……中二の終わり頃だったかな? お父さんがいきなり死んだんだ。交通事故だった。雨のせいでタイヤがスリップして、電信柱に衝突したの。即死だって。……その時思ったんだ。雨はわたしを守ってくれているんだって。わたしに降り注ぐ不幸を洗い流してくれているんだって」
酔いによって濡れた彼女の瞳が、蛍光灯の光を反射させ、一瞬だけ真っ赤に光ったように見えた。不確かに揺れる、雨の日の赤信号のようだと思った。
彼女が言う。
「だから、わたしは雨が好き」
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夜が来た。月が昇り、人々は一日の終わりのあのゆったりとした時間を過ごしている。雨脚はますます強くなり、風も吹き始めて横殴りの雨が街を揺らす。カラスの羽根のような光沢のある黒い帳が、世界を覆っていた。彼女はまだ、窓に張り付くようにして、打ち付けては流れていく雨を眺めていた。
僕は冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出して、彼女の横に腰かけてプルタブを起こした。缶に口をつけ、黄金の液体を嚥下する。そうやってちびりちびりとビールを飲みながら、彼女と同じように雨を眺めた。
僕は雨が嫌いだ。低気圧のせいで身体はだるいし、洗濯物は干せないし、遊びにも行きずらいし。だけど、彼女を守ってくれたことには感謝をしている。雨があったからこそ、彼女は今もこうやってこの僕と同じ世界で、同じ時の中で呼吸をしていられるんだと思うし、雨があったからこそ僕と彼女は出会えたのだと思う。
ビールを呷り、じっと耳を澄ませる。僕たちのいるこの部屋を殴りつける強い雨の音が絶え間なく鳴り響き、辺りを満たしていた。雨特有の臭い。湿気を含んだシーツ。窓が風に揺さぶられている。
彼女に肩を寄せ、腰に手を回した。
僕は雨の代わりに成れるだろうか。彼女を脅かす何かから、彼女に降りかかる不幸から、守っていけるだろうか。
星のない夜空の中、独りぼっちの月が幻想のように、寒さに震えるように、朧げな姿を見せていた。
いつまでこの雨は、降り続けるのだろう。僕の手の中の小さな彼女は僕のことを認識しているのか、いないのか、ずっと窓の外を見つめていた。