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色欲のツバメ

作者: 村崎羯諦

 好きですという僕の言葉に、美空さんはごめんねという言葉を返す。どうしてですか? という僕の問いに、彼女は艶っぽく笑いながら答えてくれる。


「ずっと黙ってたけどさ、私はちゃんとした人間じゃないの。私はね、元々ツバメだったの。空を自由に飛び回る、あのツバメ」


 彼女の長いまつ毛が目に覆い被さり、焦茶色の瞳はうっすら濡れている。口元の微笑はどこか自嘲的で、唇の光沢が控えめに光っていた。そこまで遠回しに断らなくてもいいのに。彼女の言葉に対して、僕はそう言って笑った。


「じゃあ、聞きますけど。どうして美空さんはツバメから人間になったんですか?」

「ツバメの世界ではね、ひとりぼっちで出来損ないのツバメは罰として人間にされちゃうの。だから、私は人間になった。ご理解いただけるかしら?」


 彼女のからかうような笑顔を思わず直視してしまって、それから僕は何も言えなくなる。火照った耳を手で触りながら、僕は根負けして彼女から視線を外す。それじゃあ、そういうことにしときますよ。精一杯の僕の強がりに、美空さんがもう一度笑う。彼女のさえずるようなその笑い声は、言われてみれば少しだけ、ツバメの鳴き声に似ているような気がした。


 僕の気持ちは本気だと何度言ったって、僕たちの付かず離れずの関係が変わることはなかった。僕は教授にこき使われながら研究に励む大学院生で、美空さんはアパートの隣の部屋に住むOLさん。思い出せないくらいに小さなきっかけからちょっとずつ会話をするようになって、数え切れないくらいのやりとりを重ねて、信じられないくらい簡単に恋に落ちた。私にとっては可愛い弟みたいなものだよ。自分の恋心に気がつき始めた頃、美空さんが釘を刺すように僕にそう言った。だけど、彼女なりのその優しさを理解できるほど、僕はまだ大人になりきれていなかった。


「罰として人間にされちゃうくらいですから、ツバメにとって人間になるのはすごく嫌なことなんですか?」

「ツバメの人生が最高ってわけじゃないけど、人間よりはマシって感じかな。だから、生まれ変われるとしても、人間にもなりたくないし、ツバメにもなりたくない」

「じゃあ、何になりたいんですか?」

「自由に生まれ変われるとしたら、私は死んだ猫になりたい」

「死んだ猫?」

「あら、大学院生なのに、サリンジャーも読んだことないの?」


 美空さんが僕の顔を覗き込み、微笑みかけてくる。僕が美空さんについて知ってることなんて数えるくらいしかない。血液型はO型で、うお座。右利きだけど、左手でも文字を書けることが特技で、趣味は休みの日に家でお酒を飲みながら映画を観ること。そして、それからこの前教えてくれたように、正体は人間なんかじゃなく、ツバメ。空を自由に飛び回る、あのツバメ。


「美空さんはどんなツバメだったんですか?」

「普通のツバメだったよ。飛びたい時に空を飛んで、お腹が空いたら虫を捕まえて食べる。雨が降ると気分が沈むし、風がそよぐと気持ちが明るくなる。だけど、私はひとりぼっちで出来損ないのツバメだった。だから、こうして人間にされちゃったの」

「家族は?」

「兄弟と父親はいたけど、母親はいない。母親は私たちを置いて、他の男の所に行っちゃったから」


 休日の昼下がり。時々僕は美空さんの部屋にお呼ばれして、安物のソファに二人腰掛けて映画を観る。照明を消して、カーテンを閉め切って、古いテレビの小さな画面に、昔のハリウッド映画を映し出す。美空さんの部屋には生活に必要最小限の家具しかなくて、壁にかけられた時計は僕が初めて部屋に上がった時からずっと止まったまま。深く息を吸っても人工的な芳香剤の匂いしかしなくて、まるでここには誰も住んでないみたいな、そんな感じがした。


「『彼を愛してるから』って、最後に会った時母親が私に言ったの。笑っちゃうでしょ?」


 その日見ていた映画は、今まで観た映画の中で一番くだらなくて、退屈な映画だった。美空さんがぽつりとそう呟いたのは、そんな映画のエンドロールが流れ終わった時。閉め切った暗い部屋の中で、美空さんの声が虚しくこだまする。カーテンの隙間から差し込む光の筋が、暗い部屋の床を一部だけ照らしていた。


「愛だなんて大それたこと言ってるけど、結局は情欲に振り回されてるだけの色欲のツバメ。そのせいで私は散々泣かされて、だけど、その憎い相手から半分の血を受け継いでいる娘のツバメ。だから、私は決めてるの。母親みたいにはならないってこと。誰かを愛したりなんかしないことを」

「でも、それは別の話じゃないですか。母親がそんなだからって、子供が同じことをしちゃうとは限らないですし」

「頭の中ではもちろんわかってる。でもね、想像しちゃうの。私が他の誰かを好きになって、その人なしでは生きていけないってなっちゃうくらい愛してしまった時。ずっと行方不明だった母親が私の前に現れて、『今のあなたなら、私のあの時の気持ちもわかってくれるでしょ?』って言ってくるの。そんなことあるわけないし、ツバメの寿命は短いからひょっとしたら母親はもう死んじゃってるかもしれない。でもね、もしそんなことになったら、きっと私は何も言えなくなると思う。だから、私は誰も愛さないって決めてるの。そのことで死ぬほど後悔することになっても、結局不幸なまま死ぬことになっても、絶対に許さないって言い続けるため、そのためにね」

「馬鹿げてますよ。それだけ憎い相手のために、自分の人生をダメにしちゃうなんて」

「違うよ」

「何がですか?」

「憎んだ結果として自分の人生をダメにしてるんじゃないの。私はね、人生の全てを懸けて呪ってるの。どこにいるのかもわからない、生きてるのかどうかもわからない、色欲に溺れた私の母親をね」


 ツバメが空を低く飛ぶと雨が降るという言い伝えがある。それは結局、ツバメが餌としている虫が湿気のせいで高く飛べなくなるからだと言われている。でも、それは僕たち人間が勝手にこうだと考えているだけ。ツバメは本当に雨が降ることを知っていて、気持ちが沈んだ結果空を低く飛んでいるのかもしれない。人間の気持ちですら時々わからなくなるんだから、ツバメの気持ちなんてわかるはずがない。僕が美空さんのことを理解できないのは、僕が美空さんを救うことはできないのは、もしかしたらそのせいなのかもしれなかった。


 そして、ある日。美空さんは何の前触れもなく、他の土地へ引っ越すのだと僕に告げる。いつものようにお邪魔した彼女の部屋には、山積みになった段ボールが無造作に置かれていて、一つ一つに丁寧な文字で荷物の中身が書かれていた。できるのであれば、ガムテープで綺麗に梱包されたその荷物を一つ一つひっくり返して、行かないでくださいって言いたかった。そんな気持ちに蓋をして、冬のツバメと同じですねと僕は言った。美空さんが笑う。僕の気持ちを察して、だけど何も言わないその優しさが僕の胸をえぐる。


「LINEのIDを教えてください。絶対に連絡するので」

「私、LINEやってないの」

「じゃあ、電話番号。携帯を持ってるのは知ってますからね」


 美空さんは少しだけ考え込んだ後で、携帯の画面を開きながら付箋に何かをメモし始める。それからその付箋を僕に手渡す。私が引っ越した後にでも電話して。僕は頷き、手渡された付箋に書かれていた番号を確認する。


「珍しいですね」

「何が?」

「0120から始まる個人の電話番号なんて初めて見ました」

「それが当たり前なの。私たちツバメの世界ではね」


 そんな言葉とメモを残して、美空さんはそのままアパートを出て行った。引越しの日、美空さんはプレゼントだと言って、サリンジャーの小説を僕にくれた。死んだ猫になりたかった男の話だよと、美空さんは小説についてそう教えてくれた。彼女を駅まで見送った後で、僕は一人ぼっちの部屋へ帰り、美空さんからもらった付箋をを取り出した。その番号をじっと見つめた後で、そこに書かれた電話番号に電話をかけてみる。聞き慣れたメロディの後で、深夜によく見かける通販番組の会社に繋がった。ご希望の商品番号をご入力ください。僕は耳から携帯を外し、そっと電話を切った。それから僕は彼女からもらった小説を読み始める。少しだけ日焼けしていたその本は、少しだけ美空さんの匂いがするような気がした。



******



 それから月日が流れたけれど、結局僕と美空さんが再会することはなかった。


 僕は博士課程に進んだ後、教授の紹介でなんとか大学のポストにありつき、幸運にも研究者として働き始めることができた。その後、学会で知り合った他大学のポスドクの女の子と恋仲になって、子供を授かったことをきっかけに彼女と結婚した。子供は可愛いし、夫婦仲だって悪くない。穏やかで幸せな生活。そんな言葉がしっくりと収まるような、そんな毎日を過ごしていた。


 だけど、ふと空を見上げ、ツバメが街の上空を飛ぶのを目にした時、僕は美空さんのことを思い出す。ツバメのさえずりによく似た彼女の笑い声とか、狭いアパートの部屋で観た映画の映像とか、色んな思い出が頭を駆け抜けていく。美空さんと別れた直後に感じていたほろ苦さは、時が経つにつれて薄れていったけれど、それでも、この広い空の下のどこかにいる彼女が、少しでも幸せになっていて欲しいという気持ちは無くならなかった。


 そうやって空を見上げている時はいつも、僕の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。空から視線を落として、声のする方へ向けると、先を歩いていた子供が早く早くと笑顔で呼びかけているのが見える。僕は笑い返して、そのまま歩き始める。


 もしも好きなものに生まれ変われるとしても、死んだ猫ではなくて、やはり人間に生まれ変わりたい。小さな幸せと後味の残る苦さを噛み締めながら、僕はそう思った。

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