01
「会長」
入っていった病室、窓辺に大きな背中が見えた。
「おお、シミズか」
丸まった白い病衣姿が、ゆっくりと振り返る。
眼光は相変わらず鋭いが、頬はたるみ、パンダ並みの巨体も一回り縮んでみえた。
「少しは食べられるようになりましたか? これ」
清水は小さなエコバッグを差し出した。
「デイリーか?」
「はい、お好きなランチパックのショコラ&ミルクホイップです、それと充実野菜」
「清水、オマエ、よう分かっとるなぁ」
ごつい手を、ダークグレイのスーツ姿に伸ばす。
清水は、うやうやしく包みを渡す。しかし、
「だが、もういらん」
清水賢治のボスである、総合商社白黒グループ会長・白黒仁はまた、窓枠にもたれかかるようにして、外の景色に目をやった。
「儂ゃな、ついに死ぬんじゃ」
清水の切れ長の目が見開かれた。「御冗談を」
「本当じゃ、おい」
急に、個室の出入り口脇に座っていたふたりの男に鋭い声を飛ばす。
「オマエら、席をはずせ」
ふたりは軽く会釈をして、外に出た。
入れ違いに、会長の息子、現社長の白黒雄介が慌てて入ってきた。
「なんだよオヤジ、急にメールよこして。空港からトンボ帰りしたよ、何の用事?」
「おお、ユウスケも来たか」
会長が目を細める。
「のぅ、ユウスケ、シミズ」
会長はまだ、窓の外を見た。
病院向かいの古びたビルの壁を。
「あれ、見えるか」
「向かいのビルですか」
「おお、壁にな、ぎょうさんついとるアレ、何か分かるか」
「蔦ですね」
「そう、ツタだ、それにあの葉っぱ」
時は秋、蔦の葉は真っ赤に色づき、時折はらりと舞い落ちていた。
「あれが全部落ちたら、儂ぁ死ぬんじゃ」
「はぁ?」
清水は思わず大声を上げた。
「誰がそんなことを。医者ですか?」
雄介もとまどっている。
「尿路結石だったんじゃ?」
清水の方にどうなっているんだ? と小声で尋ねる。
「医者に何か言われたのか? ケンジ」
「間もなく退院できるとしか」
「いや、儂にはわかる」
窓枠にもたれかかり、会長は寂し気に続けた。
暮れかけた夕日の輝きがひげ面の白い毛先を染めている。
「亡くなったオマエの母さんがな、今朝、夢枕に立った。昼前にベッキーにもお別れのあいさつを送ったが、まだ返事がない……」
「あ……ベッキー?」
雄介はぽかんとしている。
「誰それ」
「文通相手じゃ」
「文通?」
ユウスケがすっとんきょうな声を上げて、清水があわてて補足する。
「SNSですよ、メッセージのことです」
「ベッキーってのは? 知り合いか?」
「ハンドルネームですよ。趣味で知り合ったらしく……実際には」
そこで清水、今度は会長の背中に声をかける。
「しかし会長」
非難を込めないように事務的な口調を心掛けた。
「まだ半日も経っていないんですよ、平日ですし。それに会長、彼女まだ小5だっていうのに、会長も小5の女子のフリをして、ミッチ……」
「黙れシミズ」
顔を真っ赤にして会長が振り向いた。
「使い方を説明しろと言っただけじゃ。なぜハンドルネームまで把握しとるんじゃ」
「フリック入力の仕方をお教えした時に」
「もういい」
突如、会長は言葉を切った。
また、窓の外を見つめている。
「とにかく、アレが全部散るとき、最後の一枚が落ちる時に儂は天国に行くんじゃ。洋子の元に」
「天国にですか」
行けるのかなあ、と雄介が小声でつぶやいたのは聞こえていなかったようだ。
「洋子はきっと、ほめてくれる……」
すでに追憶モードに入っている会長には、何も聞こえていないようだ。
「ジジイの代に、あんだけあくどい事ばかりやっていたのを、オヤジと儂とでようやく、ここまでまっとうな会社にしていったんじゃ……ヤクザどもと縁を切り、子分どもの独立を助けて、一から事業を立て直して……洋子は涙を流して、喜んでくれたわ」
「うんそうだね」
雄介はあきれたようにため息をひとつ、腕の高級時計を見てから
「次のフライトには間に合うかな」
そうつぶやき、清水に軽く目配せして、
「おだいじに、もう行くわ」
そう言って部屋の外に出て行った。
清水も会長の背中をもう一度見つめ、雄介の後を追った。
ケンジおいどうする? と雄介の表情は真剣だった。
「のめり込みやすいのは昔からだったけど、あのやつれようはさすがに、なぁ」
雄介はため息をつく。
「しかしよく聞く話ですよね」
付き添い兼ボディーガードが病室に戻ると、雄介が小声で清水をつつく。
「おい、もうタメ口でいいよ、ケンジ、それよか、どうにかならねえかな」
「俺だって、おやっさんからの恩を忘れたわけじゃねえ、それにオマエからのも」
清水はこぶしを口元に当て、端正な眉根にしわを寄せたまま、考えながら言った。
「確か元々の小説だと……絵を描くんじゃ?」
「絵を? 何の」
「女が肺炎で寝こんで、向かいの壁にある蔦を見て言うんだ、最後の一枚が散るとき、自分も死ぬ、って」
「何だその話」
「オーヘンリーだよ、中学の英語でやったろ」
「オマエは単なるワルだったけど、オレは勉強のできねえワルだったから、いくら同じクラスだからって覚えてるわけねえだろ。そんな機関車みたいな話知るか。手短に話せ」
「有名だぞ。つまり、散るはずだった葉っぱは最後まで散らなかったんだ、残った葉っぱは同じアパートに住む年寄りの画家が、壁に描いたフェイクだったんだよ、それが元で……」
「よし分かった」
雄介は明るい表情でぽん、と手を打った。
「昔助けてやった爺さんがいる、元ペンキ職人でその前は看板描きだった。すぐに手配しよう」