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加奈は情熱的な人物だった。そして、傲慢だった。加奈は紫苑を愛していた。激しく狂おしいまでに。加奈には、何故紫苑が振り向いてくれないのかがわからなかった。自分は若く美しかった。何故、紫苑は、自分よりお世辞にも美しいとはいえない真理也やそばかすだらけの少年を大切にするのだろうか。あの醜い由良をでさえ。裕福な信者達を足繁く訪れ、教団運営に奔走しているのは自分だ。夜羽と自分がこの教団を支えているのだ。紫苑が真理也や少年に微笑むたびに、加奈の中には怒りが込み上げた。そして、夜羽。紫苑の横にいつもべったりとくっついて、紫苑と二人きりになろうとするとことごとく邪魔をする。加奈は見ていた。視線はいつも紫苑を追いかけていた。少年や真理也や由良に向けられる笑顔は、夜羽や自分には向けられなかった。
「夜羽、あなた紫苑様に好かれていないようよ」
加奈の言葉に夜羽は平然と答えた。
「だけど、君のように嫌われてはいない」
夜羽は冷ややかな目で加奈を見た。
マンションに戻った加奈は絶望的な気持ちに襲われていた。紫苑への思いを綴った紙に最後の言葉を書き添えた。教団に入る前に付けた傷跡が、手首に幾重にも残っていた。バスルームに入った加奈は、バスタブにぬるま湯を張ってその体を沈めた。手首を持ち上げ、傷を作った。そして、睡眠薬を飲んだ。
今日はクリスマス。クリスマス・イブは乱痴気騒ぎのイメージが強く、守はあまり好きではなかった。25日のクリスマスが好きだった。なにか、厳かな気分がした。殊に、朝。25日こそが本当のクリスマスだ、と守は声を大にして言いたかった。
紫苑と夜羽はこの一週間非常に忙しそうだった。これも、寄付金集めのためだと、夜羽は事務的な口調で言っていた。
夕方になると、守は無性に馬の首教団へ行きたくなった。あの、広々とした礼拝堂に跪いていたい気分になった。そう、それこそがクリスマスに相応しい。思い立って、家を出た。歩いている間に見る見る日が落ちていき、教団の前に着いた時には、すっかり暗くなっていた。建物の前に突っ立ている人影が見えた。
「また、あなたですか」守はげんなりとした声で、あからさまに嫌な顔をした。
「坊や、そんなに嫌わなくてもいいだろう」刑事が言った。
「刑事さん、何か証拠を見つけたのですか。そうでなかったら、紫苑様の周りをうろつくのはやめてもらいたいな。この前の与太話は、あんなものは、なんの意味もありゃしないのだから」守は一気に捲し立て、踵を返して建物の中へ入ろうとした。
「坊や」行こうとする守の肩を、刑事が掴んだ。
「誤解してもらっては困るな。私は紫苑を気に入っている、非常にね。とても気に入っている。あの、壇上で語る紫苑を見た最初の時からね」刑事は真顔で言った。
守は口元をきゅっと引き締めた。「狩人が獲物を愛おしむようにですか」
「いいかい、坊や」刑事の手が、きつく守の腕を掴んだ。「私だって人間だ。あんたやあの少年のように、私にも少年だった時があったのだ。黒と白がはっきりわかる少年時代があったのだ。今は全てが灰色だ、この世の中全てがだ」
刑事は守の身体から手を離した。「いや、失敬」
守は刑事の語調の強さに驚いた。「刑事さん。言っている意味がよくわからない」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ」刑事は強ばった笑みを浮かべた。
守は戸口へ足を踏み出したが、また刑事の傍に引き返した。
「一緒に入りませんか。礼拝堂の中なら、貢君も追い返したりしないでしょう」
守と刑事は、がらんとした礼拝堂の中に入った。最前列の座席に掛け、守はその両手を組んだ。
「今日はクリスマスですよ」
「ああ」刑事は落ち着かなげに、身体を動かしていた。
「僕はキリスト教徒でも、仏教徒でも、まして回教徒でもないけど。何か恐ろしいことがあった時とかとても悲しいことがあった時、こう手を組んで、思わず神様と言ってしまう。なにか、不思議でしょう」
「いや」刑事は言った。
「その時、僕が呼ぶ神様っていうのは、ある特定の神を指しているわけでも八百万の神を指しているのでもない。エホバの神とかアラーの神とかそういうのではない。なにか、もっと違うもの。だけど、それは神様なんだ」守は溜息を吐いた。「本当に言おうと思っていることって、とっちらかっちゃってうまく言えない」
「口下手か」
「お互い様だよ」
二人は並んで座っていた。
「由良が犯人を庇いたかったのなら、犯人は捜すべきではないのだろう、多分」刑事がポツリと言った。
守はブロンズ像をじっと眺めた。
「紫苑様に由良は殺せないよ」
守は刑事の言葉を待ったが、刑事は何も言わなかった。
「反対しないね」守は刑事を見た。
刑事は肩を竦めた。
「これ、僕の只の感だよ」
「私ももそう思う」
守はニッコリと笑った。刑事もニヤリとした。守も刑事もその後、何も喋らなかった。刑事はやがてこくりこくりと船を漕ぎ出した。礼拝堂はひんやりとして音もなく、静かだった。どれくらいの時間がたったろう。気が付くと少年が守の横に立っていた。少年は紫苑を駅まで迎えに行くと言った。目を覚ました刑事と共に、三人は駅までの道を一緒に歩いた。もっとも刑事は、遥か後ろを一人で歩いていた。
人通りは少なく、売れ残りのケーキが寂しそうに置かれていた。着膨れた人が急ぎ足で通り過ぎていった。駅前はクリスマスの飾りに彩られ、店頭の灯りや看板、ネオンの光がやけに眩しかった。キラキラとした装飾を人々は一瞥した。クリスマスは終わりだ。駅の改札から、今着いたばかりの人々が溢れて流れ出た。駅前の道は十字に交差していた。
少年は夜羽を見つけた。夜羽は携帯電話で話をしていた。紫苑は十字路にある果物屋の店頭の品物を見ていた。守は人込みの中に笠井の姿を見た気がした。なにか、嫌な予感がした。少年は、人の波の間をすり抜けながら紫苑の方へ歩いていった。それと同時にもう一つの人影が、紫苑に近付いていた。人影は人込みの中から抜け出し、紫苑の背後にピッタリと寄り添い、そして離れた。紫苑はゆっくりと崩れ落ちていった。少年が叫んだ。周囲の人波が止まった。刑事と守は乱暴に人を押し退けて、少年の傍らに駆け寄った。夜羽は携帯電話を手から落とした、
「笠井です、刑事さん。僕見ました、はっきりと」守は刑事の背中に叫んだ。
紫苑はアスファルトの路上に横たわっていた。
「救急車を、早く救急車を」刑事が紫苑を抱きかかえて叫んだ。
「急がなくとも、もう…」紫苑の呼吸は浅くなって、見る見るその顔は色をなくしていった。
「どいてくれ、私は医者だ」一人の紳士が人垣をかきわけて進み出た。
医者は紫苑の傍らに跪き、傷口を見、腕を取り、その脈を計った。顔を上げた医者は、刑事の顔を見て微かに首を横に振った。
「何故あなたが、何故あなたが死ななければならないのです」夜羽は青ざめた顔で、何度も何度も首を振った。
紫苑はゆっくりとその顔を夜羽に向けた。「私は思い違いをしていたようだ。夜羽、君はいつも冷静でしっかりしていて、苦しみや悲しみやそんなこととは一番無縁な人間だと思っていた。だけど、夜羽。君は…、君こそが一番必要としていたのだ…」
「紫苑様」少年が泣きじゃくりながら叫んだ。
「夜羽」紫苑は震える指を宙に上げた。「私は君が大好きだったよ」
夜羽はがっくりと膝を付いた。夜羽の目から大粒の涙がぽろぽろと流れた。
「あなたは、あなたは生きてこの地に楽園を作るのです」夜羽は喉を詰まらせた。
「……」紫苑は殆ど聞き取れない声で呟いた。
夜羽は絶叫した。「紫苑様、紫苑様」
紫苑はゆっくりと微笑んだ。そして、微笑みながら息を引き取った。それは聖者の微笑みだった。守は涙で霞む目で紫苑の美しい顔を見た。涙はレンズになって、紫苑の顔はガラスを通して見るようにキラキラと輝いていた。涙が頬を伝った。一筋また一筋。守は涙を拭った。しっかりとその微笑を刻み付けておきたかった。美しい顔。永遠に美しい人。拭っても拭っても涙は溢れた。
夜羽は声を出して泣いていた。大声を上げて泣いていた。身体を震わせ、全身で泣いていた。
祭壇の上に、紫苑は横たわっていた。白い薔薇に包まれて、紫苑は眠っているように見えた。夜羽は紫苑の傍らに居た。
凛とした声を聞きたかった。礼拝堂を満たし静かに響き渡るあの声を聞きたかった。
「正義や善よりも、神の道や約束の地よりも、私はただあなたに愛されたかったのです。ただ、ただ、あなたに愛されたかったのです」夜羽は呟いた。
銀色のナイフから大量の鮮血が滴り落ちた。