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暗黒天使  作者: 倫吾
2/3

 凍てつく寒い夜だった。12月の街はイルミネーションに照らし出され、ギラギラと輝いていた。街には酔っ払いが溢れ、いつ果てるとも無い狂乱騒ぎを繰り返していた。しかし、その波も曳き束の間の静けさが舗道を満たした頃には、時計の針は午前3時を回っていた。

 二つの人影が、人気の無くなった歩道に映し出されていた。一つの影はせむしで、片足を引き摺っていた。

「こんな夜中に悪いね」もう一つの人影が言った。

「いや、なに、真夜中の散歩というのも悪くありませんよ」男は言った。「ほら、星があんなに光っていますぜ。この時間にならなけりゃ、星も見えやしない。都会っていうのは。この時間に起きている者だけの特権ですぜ、これが見られるっていうのは」

 男は片手を上げた。「オリオン座でさあ。あたしがわかるのは、この星座だけでしてね。馬頭暗黒星雲っていうのは、あの微かに光っている星の下あたりだそうで」

「アイス・ピックを抜き取ったのは、お前だね、由良」

 訊ねられた男は長い沈黙の後、口を開いた。

「おっしゃる通り、アイス・ピックを抜き取ったのはあたしです。大丈夫です。誰にも言いやしません。例の強姦魔の家から、あの夜あなたが出てくるところを見たなんてね。察するところ、あの轢き逃げ犯人が川に落ちて溺死したのも、財産目当ての未亡人がホームから転落して死んだのも、多分そうなのでしょう。なに、構いやしません、当然のことです。しかし、凶器のアイス・ピックを馬の首の空洞に入れておくっていうのはまずいですよ。祭壇の上のブロンズ像とは。あたしでも見つけちまいましたからね」男はひきつった顔に満足そうな笑みを浮かべた。

 もう一つの人影が、星空を見上げる男の後ろに立った。鋭利な刃物の光が、口を塞がれた男の目に映った。ナイフは振り下ろされ、男は静かに崩れ落ちて行った。跪きながら、男はコートの下の足を掴んだ。男は顔を上げ、その手を宙に翳した。

「ナ…イ…フ…を…」

 もう一つの人影は、足を一蹴りし、力なく追いすがる男を振り払った。そして、もう一度ナイフを振り上げた。男は手を翳したまま、頷いたように見えた。

 倒れている男はゴボゴボと血を吐いた。もう一つの人影はコートの前をかきあわせて、人気の無い夜の道を歩き去った。月はいつまでもついてきた。


 僕は天使になりたかった。背中に白い翼を持った天使になりたかった、誰よりもやさしく、誰よりも強く。人々を愛し、ただ、ただ、人々の幸福を願って生きる。そういう者になりたかった。

 僕の周りでは正義が行われなければならない。僕らの周りには神話が生まれなければならない。馬の首教団は、神の使いでなければならないのだ。

 ―ずっと思っていた。この暗黒の世界が愛と平和に満ちたものとなるためには、救世主が現れなければならないのだと。全ての悪は正されなければならない。その道は善へと繋がり、僕はその道をならす者となる。僕らは輝かしい神の光に包まれて、歩いて行くのだ。誰もそれを拒むことは許されない。誰も知ってはいけないのだ、この血塗られた手を。僕は天使にならなければならないのだから。


 月明かりの下で、由良は微かに身を震わせた。右の手の平を地面に付け、上体を起こした。腹に当てた左の手は血糊でべたべたしていた。由良は両手と両足で這いながら、道路の脇のブロック塀にその身体を這わせた。どうやら、塀に背を凭れて、その上体を固定することができた。由良は着古した背広から、それでも一張羅の背広のポケットから、震える手で小さな手帳を取り出した。手帳にはちびた鉛筆が付いていた。由良はゆっくりとその鉛筆を取り出した。時間がまるで止まってしまったかのように、辺りはしんと静まり返っていた。由良は霞む目を拭って書いた。一文字、一文字、時々遠くなって行く意識を気力で引き戻し、また一文字を記した。

 やがて由良は手帳を閉じ、顔を上げた。南の空にくっきりとオリオンの輝きを見た。由良の目に、一筋の涙が流れた。星は瞬き、ぼんやりと霞んでいった。



「由良が死ぬ前に書いた手帳です」

 刑事はその手帳を机の上に置いた。黒い染みの付いた手帳は膨らんでガサガサになっていた。刑事が再び手帳を取り上げて開いた。歪んだたどたどしい字が、どす黒い染みと一緒にページ一杯に書かれていた。


 あたしはしにます。しぬことにしました。いきているのがすこしつかれただけです。しんぱいしないでください。あたしはしあわせでした。しおんさままりやさんこうくんよはねさんよくしてくれてありがとう。しおんさまあなたはあたしのてんしだった。


 刑事は手帳を閉じた。

「それだけですか」守は肩透かしを食わされた気がした。「刑事さんはさっき殺人だと言ったけれど、これを見る限りでは…」

「さよう、自殺のための遺書ともとれますな。しかし、突き刺された凶器は見つからなかった。だいたい、自殺のための遺書というのは、やる前に書くものでね。刺した後に書くものではない。だから、これは殺人です。しかし、由良は自殺にしたかった。では、何故由良は自殺にしたかったのか。それは、誰かを殺人者にしたくなかったから。そう、由良は誰かを庇っているのです。それは、由良がとても慕っている人でしょう。崇拝する人、神様とも思っていた人ではないでしょうか。ねえ、紫苑さん。そうは思えませんか」

「なにが言いたいのですか」少年は真っ赤な顔で、刑事にくってかかった。横に居た守は少年を押し留めた。

「刑事さん、それはおかしい。いくら慕っているからって。自分を殺そうとした人間に感謝して死ぬなんてことは有り得ませんよ」守は断言した。

「そうだよ、守さんの言う通りだ。馬鹿みたい」少年は守の言葉に頷いた。

「紫苑さん」刑事は紫苑の言葉を待っていた。

「凶器は」紫苑は無表情な顔で言った。「誰かが持ち去ったのかもしれない」

「ほー、何のためにですか。犯人以外の誰がそんなことをするのですか」

「犬がくわえて行ったのかもしれない」紫苑は平然と言った。

「は、これは、これは」刑事は苦笑した。「紫苑様ほどの人の言葉とは思えませんな」

「同感です、刑事さん」紫苑は、すっと立ち上がった。「夜には孤児院を訪問する約束があります。時間がありません。早く、由良のところへ案内してください」

 刑事は2・3度頷いた。

「わかりました。御一緒しましょう」刑事も立ち上がった。

 紫苑と夜羽、ショールを纏った真理也がその後を追いかけた。守は皆を見送り、扉を閉めた。

「なんだい、あの刑事。紫苑様が由良を殺すわけないじゃないか。ちぇっ、本当にどうかしている」少年は椅子を蹴った。


 その夜、教団の小部屋で、紫苑は夜羽と二人きりでいた。

「夜羽」紫苑の声は疲れていた。「私にもわかっている。私が惜しみなく貧しい者に施しを続けることができるのは、君のおかげだということを。君が経済的にどれだけ教団の為に奔走してくれているかということを。君が苦心して集めてきた金を、私はあちこちにばらまいてしまう。教団員は本当によくやってくれている。私は君達の苦労の上に安穏として立っているからこそ、いつも優雅に微笑んでいられるのだ」

「紫苑さま」夜羽は暗い部屋の中で、足元を見つめていた。「あなただからです。あなただからこそ、皆は感謝するのです。喜びを感じるのです。金を出すのもそうです。私は、ただ、あなたの役に立ちたいのです。今度こそ、救世主は、この世に約束の地を生み出さねばならないのです。死によることなく、我々は幸福の地を見出さねばならないのです。私は教団を大きくしたいのです。多くの人々にわかって貰いたいのです。善ということを、人の幸福ということを。一人一人の心の中に、善が満たされない限り、我々はその地を見ることはないのです。一つの悪意がどれだけ多くの人々を不幸にしていくか。それが些細な悪意だとしてもです。あなたは、人を幸福にすることが出来る人です。あなたなら出来るのです」

 夜羽は固く指を組んでいた。

 紫苑は首を振った。「夜羽、私は人々の苦しみの上に微笑んでいるだけの存在だという気がするよ」

 紫苑は立ち上がり、夜羽に「おやすみ」と言って部屋を出た。

 夜羽はゆっくりとその頭を持ち上げた。目の前に、ケーキの包みを持って嬉しそうにはにかむ由良の姿が見えた。少年の声が言っていた。「紫苑さまはなんでもお見通しだよ」その言葉が夜羽の頭の中で何度も何度も繰り返された。「ナンデモオミトオシダヨ」何度も何度も渦を巻き、そして沈殿していった。

 差し出された手は、小刻みに震えていた。ごつごつとした不格好な手。差し出された手は、ナイフをくれと言っていた。ナイフをこの手に…。

「おお、由良」

 夜羽は両手でその顔を覆った。

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