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人生を長く生きるほど人は言葉を多く知る筈なのに、僕はだんだんと言葉をなくしている。考えは絶えず同じところを堂々巡りする。
子供の頃おもちゃを買ってもらうと悲しかった。欲しいとねだって買ってもらったおもちゃなのに。夜、蒲団に入ると涙がでてきた。そんなに欲しいものでもなかった気がして。母親の困惑した顔。震える指で財布から出されたお金。何故、あんなにねだってしまったのだろう。
何かを買ってもらうたびにこっそりと泣いた。どうして欲しがってしまうのだろう。そうして、せっかく買ってもらったことを素直に喜べないことを余計悲しんだ。少し大きくなって、物をねだることをしなくなった。もう少し大きくなると、何かを買ってもらうことを拒むことができるようになった。一年中、殆ど同じ服ですごした。それで、満足だった。
良き人になりたかった(僕の中の悪意をどうしたらなくすことができるのだろうか)。悪意に満ちた人間を見ていたくなかった。意地の悪い人間を見ていると、気分が悪くなって吐き気を催す。それは多分、僕が意地の悪い人間だからなのだ。まざまざと見せ付けられる。自分がどんなに悪意に満ちているかを。風や木や自然を愛することはできる。人類を愛することだってできると思った。しかし、隣人を愛することは難しい。
他人を幸福にできないのなら、せめて他人を不幸にすることだけはしないように(僕は生きながら他人を不幸にしていく)。良き人になりたかった、かけねなく良い人に。限りなく善に近付きたかった。僕は、多分、天使になりたかったのだ。
私は暗い街燈の下を歩いていた。両側にはあばら屋が、小さな朽ちた木造の平屋が連なっていた。大通りに出ると、何もかもが明るく輝いていた。車の流れや道路に面した店の明かりが眩しかった。雑多な音がぶんぶんと調和していた。信号が赤く輝いていた。甲高い笑い声と共に、一団の若者が通り過ぎて行った。
真っ暗な校舎がぽっかりと闇を作っている一画を過ぎると、やがて豪奢な一軒家の並びになった。煌煌と明かりのともった美しい家が並んでいた。さらに、奥へと歩いて行った。彼は一人で家にいる筈だ。両親はヨーローッパ旅行中、いや世界一周だったかもしれない。ともかく、彼は一人だ。
一際立派な家の前に立った。チャイムを鳴らすと、インターホンから彼の声がした。カチッという錠の外れる音。黒い手袋をはめた手でドアノブを回し、玄関に入った。色とりどりの花が、大きな花瓶いっぱいに溢れていた。彼は、廊下の奥から悠々とした足取りでやってきた。「さあ、どうぞ」
応接間は広々としていたが、とても暖かかった。窓には厚手のカーテンが重々しくおりていた。
コートを脱ぎながら、袖口からアイスピックを取り出した。後ろを向いた彼の首を一突き、二突き、そして三突き。それでおしまい。コートをはおり、ハンカチでくるんだアイスピックを再び袖口に戻した。
通りには誰もいなかった。住宅街は静まり返っていた。今度は大通りに沿って帰ることにした。明るい街の中を歩きたかった。光り輝く道を行きたかった。
午後の授業はのんびりとした雰囲気に包まれていた。キャンパスの中庭には、ぽかぽかと心地よさそうに日が当たっていた。無論、外に出れば肌をさす冷たさだということはわかっていたが。小春日和というのだろう。小春日和というのは当然、冬をさす言葉である。昔、テストで騙されたことがあったっけ。季節は春だと解答したのだ。そのとき、自分はいたって素直な人間なのだと痛感した。
守はそんなことをぼんやりと考えながら、窓の外を見ていた。
「ねえ、聞いてよ」
「ああ、そう」守は、講義と道子のお喋りを一緒に聞き流していた。
「人間とは思えない美しさなの。こう、腰まで届くストレート・ヘアーが、歩くとサラサラという音が聞こえてきそう。あなたも一度見てみるべきよ。今日こそ一緒に行きましょうね」
「何処へ行くのさ」
「馬の首教団」
「なに、それ。馬の首教団って」
「宗教団体よ」
守はやっと本気になった。「おいおい、よしとくれ。いんちき団体に関わり合うのは」
「あら、そこらのいかがわしい病的な宗教団体とは違うわよ。別に入会を強要するわけでもないし。一種の教会みたいなものね。とてもオープンなのよ」
「金を巻き上げない宗教団体なんてあるのかよ」守は無知な者を見る目で道子を見た。
「教会を改造したらしいのだけど。聖堂みたいになっていてね、誰でも入っていけるのよ。そこで教祖様のお話を聞いて、最後に寄付金をほんの少し袋の中に入れて、それでおしまい」
「ねえ、見て」洋子が週刊誌を広げてやってきた。
「なにやってるのさ、授業中だよ」
「呆けてるのはあんたよ、守。授業はとっくに終わっているよ」
教壇を見るとすでに教師の姿はなかった。生徒達はガタガタと席を立っていた。
「あ、本当だ」
「本当にいつもぼーっとしているな。よくこんなのと付き合っているよね、道子も」
「ほっといてくれ」守は使いもしなかった教科書とノートを閉じた。
「それより、これ」洋子は雑誌を広げた。
「キャー、教祖様だわ。紫苑さまだわ」道子はうれしそうに叫んだ。
「何、例の奴? インチキ商法で捕まったのか」
「流行だよ、相変らず疎いな。週刊誌でもテレビでもとりあげられてているよ」
「本物はもっとすてきなのよ」道子は週刊誌の写真に頬擦りした。
洋子は無常にそれを取り上げた。「ほら、行くよ。ぐずぐずしていると中に入れなくなる。あんたも何をのんびりしているのさ」
「僕もかい」守は渋い顔をした。
「ほら、さっさと歩く」洋子はやたら張り切っていた。
町中にあるその建物は、周りのビルと異次元の空間を作っていた。三角形の屋根をした木造造りの建物は、後方に長く伸びていた。コンクリートで舗装した前庭には、群集が溢れて道路にまで広がっていた。テレビ局のカメラが幾つも見えた。若い女性が大勢集まっていた。
「まるでアイドル並だ」守は閉口した。
「扉が開いた」洋子は猛然とその人込みの中に突入した。
「守君、早く。こっちよ」道子も人波に押し流されて建物の中に消えた。
守はぶつかり合う人々の間で右往左往している間に二人とはぐれてしまった。
「押さないでください。順番に、順番に」男の声が連呼した。
「もう、入れません」
「扉を閉めろ」
女達の甲高い悲鳴が聞こえた。後方の女性達は、扉が閉められたことを知らないのか信じようとしないのか、なおも前へ進もうとした。どこから集まってくるのか、後からやってきた女性達も加わって建物の前は混乱していた。
「すごい騒ぎですな」コートのポケットに手を突っ込んだおじさんが、守に話しかけた。
「はあ」守はあっけにとられて騒動を見ていた。
「駄目です。収集が付きません。わー」扉の前を死守している少年が喚いた。
「ああ、あなた。ちょっと手伝ってくれませんか」
守はいきなり黒いスーツの青年に腕を引っ張られた。
「キャー」
「押さないで」
悲鳴に近い叫び声が、パニックを作り出していた。
「手伝うっていったって」守はどぎまぎした。
「一人づつ、ひっぺがせばいいのさ」
おじさんは、てきぱきと女の子達のコートや腕をひっぱって、またたくまに人々を分離した。
「おい、扉は閉まっている。今日は帰れ」
女の子達は怒りの表情を浮かべ、ぶつくさ言いながら散っていった。
「馴れていますねー」守はおじさんの後にくっついて少しばかり手伝いをした。
「職業柄だろう」おじさんは果敢に人波の中に突入した。
「職業?」
「刑事だ」
守は驚いてよれよれのおじさんをよく見た。「初めて見た。本物の刑事っていうの」
「そうかい、坊や」
刑事のおじさんは、扉にへばりつく人々を実力行使でひきはがした。扉を死守していた少年は、石段の上でがっくりと膝を突き、へたり込んだ。
「大丈夫か、少年」刑事は少年を抱え起こした。
「ええ、なんとか」少年はくたびれた顔でぜいぜいと息をした。
「有り難うございます。助かりました」黒いスーツの青年が駆け寄ってきた。
「運が悪けりゃ、けが人がでるところだ」刑事は渋い顔で言った。
「いつもはこんなにひどくはないのですが。今日の騒ぎは信じられません」
「雑誌のせいだよ、きっと」守は言った。
「テレビでもやっていた」刑事が言った。
「教団の方ですね」赤いヒールの女性が近寄ってきた。「私、共日新聞の者です」
名刺を差し出し、扉に手をかけた。
「今日はもう定員オーバーです。来週いらしてください」黒いスーツの青年が遮った。
「私、新聞記者ですのよ」相手はもう一度繰り返した。
「どなたでも。もう今日はお入りにはなれません」青年はきっぱりと言った。
「あら、そう」
新聞記者はむっとした表情を浮かべ、踵を返すとヒールの音を高々とあげて去っていった。建物の周りには、まだ数十人の女性が遠巻きに立っていた。道子と洋子の姿はなかった。ガッツであの中に入ったらしい。
「どうぞ、こちらへ」
黒いスーツの青年が守達を促して、建物の横にある扉へ案内した。
「よろしかったら、お茶でもどうぞ」
守と刑事は顔を見合わせて、その後についていった。木造の廊下はひんやりとしていた。長い廊下の向こうは礼拝堂らしく、中から歌声が響いていた。
「少し覗いていらっしゃいますか」黒いスーツの青年はその扉を開けた。
3人は滑り込むようにそっと部屋の中に入った。ドレープの入った緑色の衣に身を包んだ男性が壇上に立っていた。腰まで届くストレートの黒髪は緑がかってみえた。
守達は礼拝堂の側面、壇上の横に立っていた。若い女性達が熱心な目で、中央の壇上を仰ぎ見ていた。壇上に立つ教団員達は、同じように緑のゆったりとした衣を纏っていた。
人込みの中で、先に洋子が守を見つけた。洋子は道子の腕を肘で突付いて、守を指差した。
「うそー」道子は思わず口を押さえた
「なんで、あんなところにいるの」洋子も信じられなかった。
緑の髪の教祖は手を振りながら、階段を降りた。緑の衣に包まれた人々に囲まれて、裏手の扉の向こうへ消えた。
守達は黒スーツの青年に連れられて、廊下の奥の小部屋に通された。
「さあ、どうぞ」
守と刑事は応接セットのソファに腰掛けた。黒いスーツの青年は、夜羽と名乗った。守が自己紹介しようとしたとき、廊下にあわただしい靴音が響いた。
「やめてください」
先ほど、正面扉を死守していた少年の甲高い叫び声が聞こえた。荒々しくドアが開くと、恰幅のよい中年の男がドスドスと部屋の中へ踏み込んできた。
「あの、インチキ野郎を出せ」
黒スーツの夜羽が、敏捷に立ち上がってその行く手を塞いだ。「落ち着いてください、笠井さん」
「畜生、何処に隠れている。この人殺しめ」
少年は必死に男の腕を掴んでいた。中年男は、夜羽の肩を押しのけると、奥の部屋へ入ろうとした。お茶のセットを持ってきた女性教団員が、その行く手を遮る格好になった。中年男は憎しみを込めてその盆を払いのけた。琥珀色の液体が飛び散り、床の上でカップが粉々に砕けた。
「なにごとですか」刑事は暴れる男を後ろから抱え込み、戸口に引き摺っていった。
夜羽も少年も、必死で抵抗する男を廊下へ押し出した。
「離せ。あいつは人殺しだ。私の娘を殺したのだ」男はもがきながら叫んだ。
「言いがかりですよ」少年が甲高い声で叫んだ。「加奈さんは自殺です」
「こんなろくでもない宗教団体に入ったからだ。一体、娘に何をした。何故、あの子が死ななければならないのだ」
叫び声が廊下に響いた。男は3人がかりで外に連れ去られた。
「まったく、申し訳ありません。一度ならず二度までも」夜羽は刑事に何度もお辞儀をした。
「本当にしつこいったらありゃしない」少年はぷんぷんと怒っていた。
「一体、なんの騒ぎです」
教祖が緑の衣を翻して現れた。立ち上がって振り返った守は、教祖をまじかに見て、なんだかどぎまぎしてしまった。
「紫苑様、また笠井さんです。加奈さんの父親です」少年は憤慨した面持ちで教祖に駆け寄った。
教祖紫苑は宥めるようにその頭に手を置いた。「こちらは?」
「警察の者です。日影といいます」刑事のおじさんは警察手帳を懐から取り出した。
夜羽と少年は、驚いてよろよろのレインコートの男を見、次に守を見た。
「いえ、僕は単なる通りがかりの学生です」守は顔の前で手を振った。
「で、どういう御用でしょう」紫苑はゆったりとソファに腰掛けた。
「たまたま助けて頂いたのです。外の騒ぎを静めるために手伝って貰ったのです」黒ずくめの夜羽が説明した。
「そうですか、有り難う御座います。あの人込みで、大変迷惑をかけましたね」紫苑は守と刑事ににっこりと微笑んだ。
「あ、いえ、とんでもない」守は焦って吃った。
「刑事さんは私に会いに来たのです」コーヒーカップの欠片を手にした女性が立ち上がった。「多分」
「覚えていてくれましたか」刑事は前に進み出た。「あなたを探すのには些か苦労しました。こういう教団に入っていらしたとは。ふむ。それはともかく、今日はお知らせしたいことがあって参りました。おとといの晩、富樫孝が殺されました」
女性教団員は無表情な顔で立っていた。
「驚きませんね」
「私も知っています。新聞で読みました」教祖紫苑が静かな声で言った。
「ほー。あなた方のような人達は俗世間と関わりなく生きているのかと思ったら、そうでもないようですな」刑事は肩を竦めてみせた。「どうですか、朗報でしょ。あの悪党が殺されて実際のところ我々も喜んでいるのです。近頃は心神喪失なんてもので、なんでもかんでも無罪になっちまうんですからね。まったくやり切れません。土台、罪を犯す奴はどっかしら狂ってるものなんじゃないですか、ねえ。私はそう思いますよ、教祖さん、そうじゃありませんか」
「よき法律家は悪しき隣人と言いますからね」紫苑が言った。
「宗教家は良き隣人と言えますかな」
「少なくとも」宗教家は魅力的な笑みを湛えた。「神の前では正義が行われると信じています」
「正義ですか。ふむ、正義とはなんでしょうね、教祖さん」
「正直に生きること、他人を害しないこと、でしょうか」宗教家は涼しい声で喋った。
刑事は白髪混じりの頭を掻いた。「私は一度聞いてみたいと思っていたのですがね。右の頬を打たれたら左の頬を出せってやつですが。一体これはどういうことなのですか。まあ、もっともあなたはキリスト教徒ってわけではなかったですな。どうも宗教の違いなんてものはよくわからなくて。こりゃ、神父や牧師に聞くべきことなのでしょうがね」
「あなたはタリオの法則、つまり目には目を歯には歯をならば理解できる」
紫苑は顔を上げて立っている刑事と話をしていた。その横顔が完璧なラインを作っていたので、守は思わず溜息を吐いた。
「その通り、全くその通りです。それなら私にだってわかりますがね」刑事は大きく頷いた。
「刑事さん、お話はそれだけですか」
女性教団員の言葉に刑事は振り返った。
「いや、これは失礼。長居をしてしまいました。他にも行かなけりゃならないところがあるっていうのに」
「他の被害者のところですか」
「富樫孝に殺された被害者の御両親にはもうお会いしました。泣き崩れていましたよ、二人とも。嬉し泣きでしょうかね。いや、こりゃ失敬、失言ですな」
女性教団員は刑事を冷たい目で見据えた。「そうしてあなたは、まだ私を責め続けるのですか。あの時、私が告訴していればその後の参事は起こらなかったかもしれないと」
刑事は首を大きく横に振った。「あなただけではありません。よしんば、あなたがあの時告訴していたとしても、事態は変わりゃしなかったでしょう。奴はいつか殺っていた筈ですからね」
「刑事さん」紫苑が刑事の注意を引き戻した。「あなたは、タリオの法則が実践されたとお考えなのですか。被害者を訊ね回っていらっしゃるようですが」
「そいうい可能性も捨てられないということです」
「真理也さんは僕と一緒でした。おとといの晩、この部屋で、僕達は事務整理をしていました。10時頃までずっと一緒でした」少年が刑事に食って掛かった。
「わかった、わかった、そう叫ばずとも」刑事は両手を上げて、戸口へ向かった。「それじゃ、お邪魔しました」
「刑事さん」出て行こうとする刑事に、真理也が呼びかけた。「神の御加護です」
「そうでしょう、そうでしょうとも」刑事は頷きながら鷹揚に出て行った。
守は一瞬どうすべきか迷ったが、刑事の後について失礼することにした。戸口で夜羽が「よろしかったら、またいつでもいらしてください。歓迎しますよ」と言ってくれた。
守はペコリとお辞儀をすると外に出た。刑事の姿はもうなかった。変りに道子と洋子が建物の前に仁王立ちになっていた。
「ちょっと、守君。どういうこと」道子が守の腕を掴んだ。
「何していたの。もしかして紫苑様とお話したの」洋子が睨んだ。
「うん」守は駅の方へ歩き出した。
「キャー、許せない」道子が悲鳴をあげた。
「一体、何がどうしてそういうことになったの」洋子は守のセーターを引っ張った。
「やめろよ、伸びるじゃないか」
「ちゃんと話してよ」道子が守の腕を引っ張った。
守は二人の女性に拉致されて傍らの喫茶店に引き摺り込まれた。根掘り葉掘り問いただされ、同じことを二度も三度も繰り返し言わされた。挙げ句の果てにレシートを押し付けられ、三人分の代金を払わされた。
家に帰ると、守は新聞を広げて三面記事で事件を探した。富樫孝。ギョロリとした目つきの27歳の男。三年前、強姦致死の疑いで裁判を受け、精神障害のため無罪。精神病院には二年年足らずしかいなかった。鋭利な刃物で後頭部を数度刺されて死亡。翌朝、通いの家政婦が発見した。
真理也という女性は被害者だと言っていた。告訴がどうとか。多分、彼女は強姦を受け告訴しなかったのだろう。笠井とかいう男は、一体何だったのだろう。娘を殺したとか教祖紫苑を出せとか、人殺しと喚いていたが。
翌日、授業が終わると、洋子たちはショッピングに街へ繰り出した。守は再び馬の首教団のある建物に、引き付けられるようにやってきた。コンクリートの前庭に、よれよれのレインコートを着た刑事が煙草に火を付けてポツンと立っていた。
「刑事さん、張り込みですか」
「いや、どうも招かれざる客らしくて。入り辛い」
「真理也さんは、随分あなたを嫌っているみたいですね」
「無理も無い。昔、散々告訴してくれるよう付き纏ったからな」
「真理也さんを疑っているのですか、例の富樫孝の殺人事件で」
「いや、彼女ではない」刑事は煙草の灰を落とした。
「じゃあ、あの笠井とかいう人が喚いていた加奈という人の件ですか」
「坊や、なかなか記憶力が良いね」刑事はクスクスと笑った。
「へー、そうなんだ」
「いや、あれは単なる自殺だよ。自室で睡眠薬を飲んで手首を切った。遺書もちゃんとある」
「調べたのですか」
「職業柄ね。好奇心ともいう」
「なんで、自殺などしたのです」
「紫苑に思いを寄せていたことは確からしい。まんざら笠井の言うこともでたらめというわけではなさそうだ。遺書には紫苑への思いが書き連ねられていた。加奈というのは随分情熱的な人のようだ」
「へー、美人ですね」守は刑事に写真を見せてもらった。
「しかし、紫苑の方は取り合わなかったらしい。それで、紫苑を責めるわけにはいかないだろう」
「ふーん」守は写真を刑事に返した。「じゃあ、なんで此処にいるのですか」
「君はなんで此処にいるんだい」
「ぼ、僕ですか」守は口篭もった。
刑事は笑った。「私も同じだ。興味があってね、馬の首教団に。というか、あの紫苑という教祖にね」刑事は正面の扉を指差した。「扉は開いているよ。礼拝堂には入れる」
守は刑事が指し示した黒い樫の扉を開けた。礼拝堂はガランとして静まり返っていた。高い天井に守の靴音が響いた。祭壇の横、ブロンズ像の前にみすぼらしい格好をした男が跪いていた。青緑色の像が奇妙に歪んだ形をしていた。
「馬の首。ああ、馬頭暗黒星雲の形だ」守はプラネタリウムの壁に掛かっていた写真のパネルを思い出した。
「馬の首教団の象徴でさ」
男は後ろ向きのまま、くぐもった声を出した。不明瞭で引っ掛かりのある妙に耳障りな声を発した。
「紫苑さまは本当に素晴らしい方だ。あの方は、あたしの顔をじっと見てお話になる」
よろよろと立ち上がって振り返った男の顔に、守はぎょっとして思わず目を背けた。顔面の半分が赤紫色で、目や鼻や口は引きつって歪んでいた。古ぼけた背広の背中が奇妙に歪んで膨らんでいた。
「あの方は強い方だ。強くて奇麗な方だ。あの方を見ているだけで幸福な気持ちになれる。あたしはこんな顔をしているけれど、もちろん自分では見えないのさ。だけど、あたしが居るってことで皆が不愉快になる。あんただって目をそらしてしまうだろう。いや、いや、お若いの。それが当然ってものだ。普通の顔でもちょっとばかし造作の崩れている人の顔を正視することはできないものさ。いつの間にか視線を外している。自分のことを棚に上げて、おかしな話だがね。紫苑様は言いなすった。お前は醜くって、まあ所謂規格外ってやつだって。人類の何パーセントかはそんな規格外の身体を抱えて生きている。だけどね、そんなお前にも分け隔てることなく雨は降り注ぐし、風は頬を撫でるし、太陽の陽射しはお前を照らしてくれるんだってね。いいですか、分け隔てることなくですぜ。何の嫌悪感もなくあたしに降り注ぐ。あたしは愕然としましたね。これ以上、一体何を望むことがありますか。紫苑様は強い方だ。物事を直視できる方だ。悲しみや恐れや怒りもあの方を通すと全て浄化されてしまう。あの方はきっと天使なのだと思う。あたしはそう思う」
「由良」夜羽が祭壇の横の扉を開けた。「やあ、君も来ていたのか。お茶の時間だ。一緒にどうだい」
「夜羽さん。あたしはもう帰ります」男は背を丸め片足を引き摺りながら出ていった。
守は夜羽に導かれ再び昨日と同じ部屋に通された。暖かな小部屋には、少年と真理也がいた。
「外に刑事さんが来ていましたよ」守は真理也から紅茶のカップを受け取った。
「まだ、いるのですか」少年は不機嫌な声を出した。「まったく、何を考えているのか。真理也さんが人を殺すわけないのに」
「真理也さんじゃないって、刑事さんは言っていた」
「それじゃあ、なんで」少年は怪訝な顔で守に訊ねた。
「さあ」守は首を傾げた。
ノックの音を聞いて、少年がドアに駆け寄った。来訪者を少年は嬉しそうに迎えた。
「三塚さん、さあどうぞ」
「やあ、元気にやっとるか、貢君」ロマンス・グレーの紳士がにこやかに入ってきた。「またやって来たよ」
紳士は仕立ての良い背広の内ポケットからぶ厚い封筒を取り出すと、夜羽に渡した。夜羽は封筒の厚みを測り、中をちらりと覗いた。
「いつもより随分多いようですね」
「なに、構わんさ、私の金なのだから」紳士は愉快そうに笑った。「どうせ、君達の手元には残らないのだから。紫苑様はあるだけ恵んでしまわれるし。ここの維持費だって馬鹿にならないだろう」
「すみません、有り難く頂きます」
守の隣に座った紳士は大層機嫌が良かった。「しかし、こんなに金の無い宗教団体も珍しい。信者の中には有力者も結構いるのに」
「でも、建物も立派だし」守は不思議そうな顔をした。
「これは、ある信者からの寄付だ。さる金持ちからの。なあ、夜羽君」
「ええ、助かっています」
「夜羽君。君がいなかったら、紫苑様は路頭に迷うのではないかと思う」
「そんなことはありません。紫苑様は誰からも愛される方ですから」
「きっと、神様からも愛されているのでしょうね」
守の言葉に紳士は頷いた。
「私の一人息子は轢き逃げされました」紳士は一呼吸置いて話を続けた。「たった六つでした。年をとり諦めていたときにやっとできた息子です。私達はね、それこそ神様の贈り物だと思っていました。大雨の日でした。犯人は車で轢いてしまった息子を、車道から暗い舗道へ運び、そのまま放置して逃走しました。意識を失っていた息子は、傍らの溝に落ちて溺死しました。死んではいなかったのです。そのまま病院に運んでくれていれば助かったのです。犯人として逮捕された男は無罪になりました。功を焦ったのか決め手の物証が雨で流されてしまったのか、警官が奴の車に血痕を偽装していたのです。それが裁判で明らかになってしまって、奴の自白も警察による強要ということになって。後はもうなにがなんだか。相手の弁護士の憎たらしい顔しか覚えていません。妻は半狂乱からやがて絶望状態に陥りました。妻は言葉を喋らなくなりました。そんなとき、知人が紫苑様に会わせてくれたのです」
紳士は紅茶の入ったカップを手に取った。
「私達は此処でこうしてお茶を飲みました。雨が降っていました。紫苑様は静かにそこに座っていました。私達も黙って座っていました。何時間もそうしていました。私はふと、雨の音を意識しました。私達は黙って、ただ雨の音を聞いていました。雨の音はとても優しかった」
紳士は微笑んだ。
「それから私達は度々こちらに伺うようになりました。妻はすっかり元気になりました。貢君や真理也さんや、私達は一辺に多くの子供ができた気分です」
「犯人は、その無罪になった男は今どうしているのですか」守は訊ねた。
「そう、それからしばらくして死にました。酒に酔って誤って川に落ちたらしい」
「そうですか」
「天罰でしょう。神の御加護です」ロマンス・グレイの紳士は満足げに言った。
暖かな人々と午後の一時を過ごした守は、心地よい気持ちで馬の首教団を後にした。日が落ちるのがどんどん早くなっていた。辺りは紺色の薄闇に包まれていた。
人気の無い路地で、守は背後から飛び出してきた男に建物の壁に押し付けられた。胸元を掴まれ押え込まれた。守は突然の暴挙に驚いて、心臓が止まりそうになった。
「教団員だな」
昨日乱入してきた笠井という男だった。守は相手の形相のすさまじさに竦み上がって声も出せなかった。
「お願いだ、教えてくれ。娘はあいつに騙されていたのだろう」
守は首を押さえられ、息ができずに気が遠くなってきた。
「笠井さん、乱暴は駄目よ。落ち着いて」
女性の甲高い声が、笠井と守の間に割り込んだ。守は首の圧迫感がなくなるのを感じて、その場にしゃがみ込んだ。
「ゴホッ、ゴホッ」守は喉を押さえた。
「お、おい、大丈夫か」
笠井の手が伸びてきた。守はその手を払いのけた。
「済まない。そんなつもりではなかった」笠井はおろおろした声を出した。
「笠井さん。ここは私に任せて、あなたはひとまず帰ってください」女性の張りのある声が頭上で響いた。
「大丈夫?」
守はその顔を見た。昨日教団の建物の前で会っていた。
「新聞記者」喘ぎながら言った。
「そうよ。さあ、少し休んだ方がいいわ」
女性記者は守を傍らの喫茶店に連れて行った。守はむせながら水を飲んだ。
「落ち着いた?」
「ええ、僕教団員ではありませんよ」
「あら、そうなの」新聞記者は残念そうに言った。「まあ、いいわ。とにかくあの教団と仲良しだっていうのは確かだものね」
守はじろりと新聞記者を見た。「一体、何を嗅ぎ回っているのですか」
「あの教団の周りには、死人が多すぎる」新聞記者は真面目な顔になった。「いい。まず、轢き逃げで無罪になった男。あの三塚グループの会長の息子が轢き逃げされた事件よ。会長が馬の首教団に入団してから一ヶ月ほどして溺死している。それから、大手建設会社の社長が心臓麻痺で急死した後、若い未亡人がホームから転落して電車に轢かれて死んだ事件。彼女を殺人者呼ばわりしていた先妻の息子は、なんと馬の首教団の団員よ」新聞記者は赤い手帳をぱらぱら捲った。「教団は、三塚グループの会長からかなりの寄付を受けている。建設会社を継いだ息子からもね。馬の首教団は一種の殺人教団よ」
守は口をへの字に曲げた。
「ともかく私は笠井加奈の自殺も怪しいと睨んでいるの。加奈は教団の秘密を掴んでしまって殺されたとも考えられるわ」
「笠井さんをけしかけているのはあなたですか」
「あら、それは違うわ。教団の周りをうろうろしていたら、笠井に出会っただけ」
「焚き付けてるだけってわけですか」
「私はね、人殺しを放っておけないの。たとえ、どんな理屈を付けようと。神のふりをして、人を殺しているあの教祖が許せないわけ」
「それって、全てあなたの憶測でしょう。単なる推測に過ぎないのでしょう」
「残念ながら、今のところはね」
守は深く溜息を吐いた。
「何故、僕にそんなことを話すのですか」
「あなた、私の弟に似ているのよ」新聞記者は守をじっと見た。「くだらない宗教団体に入って、気が変になって。やっとのことで宗教団体から引っ張り出した時には、既に廃人同様だった。今も病院の中」
「そりゃ、始めから気が変だったのさ」
「ひどいこと言うわね」新聞記者は赤い唇を尖らせた。
「あなた、誤解しているよ。紫苑様はそんな人ではない」
新聞記者はレシートを取って立ち上がった。「あなた、あまり深入りすると危険よ」
守は頬に手を当て、新聞記者の後ろ姿を見送った。
街はどんどん寒くなっていた。例年に比べ暖冬だといわれていたが、朝の冷え込みは厳しくなっていた。もうすぐクリスマス。一年はあっという間だ。
「守君」道子がにこにこしながらやって来た。
守は嫌な予感がした。
「さあ、行きましょう」道子はやたら張り切っていた。
「化粧が濃いよ」守は言った。
「お黙り」洋子が叫んだ。
「教祖様にお会いするからね」道子が言った。
「へー、そうなの」
「何を言っているの。集会が終わった後、あんたに紹介して貰うのよ」洋子があきれた声を出した。
「なに、それ。ああ、そうか。今日は集会の日だっけ」
馬の首教団の集会にはまた大勢の人が集まっていた。教団の前には人が溢れていた。しかし、今日は緑の衣の団員達が多数配置されていた。整然と整列させられた人々が、扉の向こうに次々と入場した。後からやって来た人々は断わられ、恨めしそうに振り返りながら去っていった。
「遅かったみたい」
守の言葉に洋子が噛み付いた。
「何のために、あんたがいるのよ」
「無駄だと思うけどな」
案の定、夜羽は入場を断った。二人の女性は諦めきれずに夜羽を見ていた。夜羽は建物の横手から出てきた男を呼びとめた。
「由良、何処へ行く。もうすぐ集会が始るよ」
「いや、あたしは失礼します」由良は身を小さくして言った。
二人の女性は眉を潜めた。
「どうしたんだい、いつもあんなに楽しみにしていたのに。今日だって一時間も前から来ていたのに。この頃ずっと集会に出ていないね」
「いや、なにね、夜羽さん。あんまり人が多いと、なにか落ち着かなくて。それも若い女性ばかりときちゃね」
由良は帽子を目深に被り、古ぼけたコートの襟を立てた。
「おや、この間のお若いの」由良は守を見て、歪んだ笑いを浮かべた。
「こんにちは」守はペコリと頭を下げた。
「由良」建物から少年が走って出てきた。「真理也が焼いたケーキ。今、焼き上がったばかりだよ。紫苑様がこれを持って行けって」
少年は銀色の包みを差し出した。甘い匂いが辺りに漂った。
「へへ、いい匂いだ。いつもすまないね」
「ううん、感謝しているのはこっちの方だって、紫苑様が言っていたよ。いつも礼拝堂の祭壇を磨いてくれているのは由良だろう。黙ってろって言われたけど、別にいいよね、喋っても。いいことなのだから。紫苑さまはなんでもお見通しだよ」
「そうかい、なんでもお見通しかい」由良はひきつった顔一杯に笑みを浮かべた。
由良は包みを受け取ると、足を引き摺りながらゆっくりと歩いた。夜羽と少年は集会のために立ち去った。
洋子と道子が守の横に立った。「なに、今の人」
遠くに、よれよれのレインコートに両手を突っ込んだ刑事の姿が見えた。枯れ木に寄りかかって、こちらをじっと見ていた。守は二人に帰ろうと言った。
キャンパスは閑散としていた。今朝の講義は既に終了していた。道子と守は、午前中を図書館で過ごした。構内のいたる所に、スキー場のパンフレットが散らばっていた。
「毎年思うのだけれど。女達はクリスマスが近付くと化粧が濃くなっていく気がするのだけれど、どうだろう」守はかろうじて開いていた学生食堂のカレー・サラダ付を食べながら言った。
「気のせいでしょう」道子はサンドイッチを頬張った。「うきうきしてくるのは事実だけれどね」
明日はクリスマス・イブ。馬の首教団は孤児院を訪問することになっていた。守は午後からその準備を手伝う約束をしていた。道子は怪訝な顔をして、用があると言って去って行く守を見送った。街にはクリスマス・ツリーが飾られて、陽気な音楽が流れていた。守は道子へのプレゼントを買うと、馬の首教団へと向かった。
教団の前で、守はばったりと例の刑事と鉢合わせした。
「刑事さん」
「よう、坊や。まだ教団の周りをうろうろしていたのか」
「刑事さんこそ」
「お互い様か」
刑事は肩を竦め、礼拝堂の中へずんずんと入って行った。祭壇の横の扉を開けると、廊下に出、小部屋の扉を叩いた。出てきた少年はむっとした表情で、扉をそれ以上開けようとしなかった。
「あなたですか、またなんの用ですか」
「入らせてもらうよ」刑事は強引に扉を押し退けて、叫んだ。「教祖さんはいらっしゃるか」
夜羽は戸口に立っている刑事と守を見た。テーブルの上には大小様々な箱が置いてあった。真理也は奇麗な包み紙を持つ手を止めた。
「由良が殺された」刑事がこわばった顔で言った。
真理也は椅子を倒して立ち上がった。夜羽は急いで廊下へ出て行った。まもなく、戸口に紫苑が現れた。緑の髪に緑の衣、青ざめた美しい顔で刑事を見つめた。
刑事は紫苑と向き合った。「アパートの近くの路地裏で、刺されて死んでいました。新聞配達の少年が第一発見者です」
「おお、なんてこと」真理也は微かな声で喘いだ。
紫苑は一瞬空を見つめていた。が、やがて口を開いた。
「由良には身寄りがない。私達が引き取りに行こう。夜羽一緒に来てくれ。刑事さん、行きましょう」
出て行こうとする紫苑の肩を、刑事が掴んだ。紫苑は肩越しに刑事を振り返った。
「その前にちょっと見てもらいたい物があるのですがね」刑事はそう言うと、ソファにどっかりと腰を降ろした。「遺留品です、由良の。さあ、お掛けになってください」
一同は顔を見合わせながら、刑事の傍に集まった。紫苑は緑の衣を翻し、優雅にソファに腰掛けた。