40.姫野麻子
「好きになってもいいですか?」
そう告げた奈津美の声が修二の頭の中で繰り返し響いてくる。
「彼女は僕の持ち物ではないから…」
自分ではそう割り切っているつもりだった。けれど、宮下の話を聞いているうちに奈津美に対する思いが自分の中で変わりつつあるのに修二は気が付いた。奈津美が他の男に抱かれている姿を想像すると、何とも例えようのない虚しさに襲われた。そんな時、仕事で外回りをしていた合間に立ち寄ったカフェで思わぬ人から声を掛けられた。
「桐谷さんじゃない?」
見覚えのある顔だった。そして、すぐにそれが誰だか思い出すことが出来た。
「横山さん?」
「憶えていてくれたんだ。久しぶりね。こんなところで何してるの?」
「いや、仕事中なんだけど、ちょっと一服してた」
横山麻子。修二に声を掛けたのは、修二がPTA会長をやっていた時、同時期にS地区の学校で同じくPTA会長をやっていた横山麻子だった。7年ぶりの再会だった。
「横山さんこそ、こんなところでどうしたの?」
「私、職場がこの近くなの。今日はもうおしまい。だから、軽く一杯やってから帰ろうと思って」
そう言われて修二は時計を見た。既に5時を回っていた。
「じゃあ、僕も付き合おうかな」
「あら、いいの?」
「ええ、僕ももう終わりだ」
そう言って修二は携帯電話を取り出すと、直帰する旨を会社に伝えた。
二人はカウンター席の端に並んで座った。久しぶりの再会にカフェを出て近くの焼鳥屋に移動して本格的に飲もうということになり、この店にやって来た。お互いに中ジョッキの生ビールを掲げて再会を祝って乾杯した。
「相変わらず元気そうね」
「横山さんこそ」
「あ、そうだ! 私もう横山じゃないんだよ」
「えっ? 再婚したの?」
「なんでそうなるのよ。離婚したのよ。だから、こうして働いてるんじゃない」
「あ、ごめん。新しい苗字になったのかと思った」
「旧姓に戻ったの。だから今は姫野よ。姫野麻子」
「姫野か…。その方が横山さんのイメージにぴったりだね」
「だから、姫野だってば」
そう言って麻子は修二の背中をポンと叩いた。
「あの頃は楽しかったわね」
「そうだね」
「それで、あの頃、桐谷さんは私のことが好きだったでしょう?」
「まあね…」
「ねえ、今はどう?」
「えっ?」
「まだ私のこと好き?」
「好きも何も久しぶりに会ったばかりだし…」
「私はずっと桐谷さんのことが好きだったわよ。そして、今もよ。今日、さっきのカフェで見かけた時には心臓が止まりそうなほど驚いたわ。そして嬉しかった…。ねえ、あらためて好きになってもいいかしら?」
「えっ? それって…」
まさか、麻子からその言葉が出て来るとは夢にも思っていなかった修二は、それが社交辞令なのだとしても、どう答えればいいのか戸惑った。
「いいのよ。解かってるから。私は独身だけど、あなたには可愛い奥さんが居るものね。だから、これからも仲良しで居ましょうって、そういうことよ」
「そういうことなら。じゃあ、僕も好きになっていいかな?」
「なに言ってるのよ。もう好きでしょう?」
「たしかに」
そんな話をしながら、二人は二時間ほどそこで過ごした。帰りはお互いに路線の違う電車に乗るために地下鉄の入口で別れた。修二は地下鉄の構内へ降りていく麻子を見送り、その姿が見えなくなってから歩き出した。そこに奈津美からメールが入った…。