36.蒼井奈津美
「どうしたの?また会いたくなったの?」
奈津美から電話をもらった中山はご機嫌な気分で電話を受けた。しかし、受話器の向こうから聞こえてきた奈津美の声は中山のそんな下心を打ち砕くものだった。
『私と会ったことを桐谷さんに言いましたか? 誰にも言わないって約束しましたよね!』
中山にとっては寝耳に水。奈津美と約束した通り、中山はそのことを誰にも話してはいなかった。
「ちょっと待って。何のこと? 俺は誰にも話してないよ」
『本当ですか?』
「当たり前だろう…」
電話はすぐに切られた。
「なんなんだ?」
中山は訳も解らないまま携帯電話をポケットにしまった。
当てが外れた。奈津美はてっきり中山が口を滑らせたのが修二に耳にも入ったのではないかと思っていた。しかし、そうではないようだった。だとしたら、どうして修二が知っていたのか…。まさか修二のはったりでもあるまいし…。
中山に確かめた後、すぐに修二に電話を掛けたがつながらない。修二に対してはどうしても誤解を解いておかなければならない。今、修二に離れられるのはまずい。奈津美はメールを送って修二からの返事を待つしかなかった。
誤解…。誤解を解く…。何が誤解なんだろう…。しかし、修二に会って何をどう説明したらいいのか奈津美は解からなくなっていた。とにかく、じっとしていられなかった。奈津美はタクシーを拾うと、修二の行きつけの店に向かった。
「居た!」
修二はそこに居た。カウンター席のいちばん端の席に修二は居た。
「あれ? 話し合いはもう終わったの?」
修二は何事もなかったかのように奈津美に声を掛けた。奈津美は修二の隣に座った。
「修二さんが帰ってしまったので…」
「宮下が居ただろう。それに、高坂がそこに居なかった」
「高坂さんは都合が悪いと…」
「それは高坂がじゃなくて、みぃこにとって都合が悪かったんじゃないのか?」
「・・・・・・・」
返事をしあぐねている奈津美に修二は更に話を続けた。
「実は約束の時間の30分前に店に行ったんだ。その時、みぃこと宮下はもう来ていた。感心したよ。でも、すぐにがっかりした」
「・・・・・・・」
奈津美は益々言葉を無くした。そんな奈津美をよそに修二は話を続けた。
「孝之と小百合さんが見ていたんだよ。二人がホテルから出てくるところを」
「えっ!」
奈津美はようやく納得がいった。しかし、まさか、見られていたとは夢にも思わなかった。修二と過ごすときと同じように用心していたのに、宮下や中山とはこんなにもボロが出てくる。修二が自分と居るときにどんなに気を遣ってくれていたのかに今更ながら気が付かされた。
「本当にごめんなさい。宮下さんとは深い関係は無いんです。あれはほんのあいさつ代わりで、そうでもしないと彼に協力をしてもらうのには…」
「宮下はそんなヤツじゃないよ」
「はい…。でも…。あの…。いえ。それで、中山さんとは二人で対抗戦の打合せをしていたんです。それで、初対面だったし、飲め飲めって飲まされて酔っぱらってしまって…」
「みぃこ、僕はそんなことを責めたりはしないよ。みぃこがしたいことをしたいようにすればいいと思っているから」
「でも、さっきは怒って出て行きましたよね」
「怒ったわけじゃないよ。ただ、少しの間だけど、Pソフトの様子を見ていて思ったんだけど、いいチームじゃないか。僕が居なくても、いずれ強くなるよ。だったら僕は必要ないと思っただけだよ」
「そうですか…。解かりました。あの…。今日はどうしますか? 私はしたいですけど…」
「無理はしなくてもいいよ。僕はそれを目当てにみぃこと付き合っているわけではないからね。送ろうか?」
「大丈夫です。一人で帰ります。修二さんはどうぞゆっくりしていってください」
奈津美は一人で店を出た。そして歩きながら考えた。修二はああいう風に言ってくれているけれど、私から気持ちが離れて行っているのではないかと。それならそれで仕方がないとも思うようになった。
「あれ?蒼井さんじゃない?」
そんなことを考えながら歩いていたら、ばったり中山に出会った。
「どうしたの元気ないじゃん。桐谷さんと喧嘩でもしたの?」
「いいえ! そんなんじゃありません。ちょっと考え事をしていただけです」
「悩みがあるなら相談に乗るよ。軽く一杯どう?」
「じゃあ、付き合ってください。その代わり、軽く一杯とかではなくてホテルに行きましょう」
奈津美は面食らったように口をぽかんと開けた中山の腕を掴んで歩き出した。
「いったい、どうなってるんだ? 蒼井さんって…。それで、あいつは誰だよ!」
奈津美のことが心配になって後を追ってきた宮下は奈津美が知らない男の腕を引っ張ってホテルに入って行くのを見て怒りが込み上げて来た。