31.蒼井奈津美
由幸は約束の時間前に来て生ビールを注文した。その生ビールが運ばれてきたときに奈津美が店に入って来た。奈津美は既に飲んでいる由幸を見て、苦笑し由幸の向かいの席に座った。
「やあ、アオちゃん。アオちゃんの方から誘ってくれるなんてなんか嬉しいな」
「変な考えは止めてください。今日はお願いがあって来ただけですから」
「へー、お願いって何?」
お気楽な由幸を見て奈津美はため息を吐いた。
「高坂さんって桐谷さんのチームに入っていますよね」
「それが? あっ、もしかしてアオちゃんも入りたいとか?」
「違います。桐谷さんにPTAチームの監督をお願いして欲しいんです」
「なんで? 自分で頼めばいいじゃん」
「私から直接だと周りの人が余計な詮索をするかもしれませんから」
「余計な詮索って?」
「高坂さんには関係のないことです」
「なんか解かんねぇけど、いいや。頼んでみるよ」
「では宜しくお願いします」
そう言うと奈津美は席を立った。
「えっ! アオちゃん飲まないの?」
由幸の言葉には耳を貸さずに奈津美はとっとと出て行った。
ウィーズの練習日、由幸は奈津美から頼まれた通り、修二にPTAチームの監督をしてもらえないか打診してみた。由幸自身、到底、聞き入れてもらえるとは思っていなかった。
「ま、監督の掛け持ちなんて無理っすよね」
「かまわないよ。俺も以前はPTAでやっていたし、OBとして協力できるのなら、かえって有り難い」
「あ、そうなんですね」
予想外の返事に由幸は拍子抜けした。そして、練習後に早速そのことを奈津美に伝えた。
学校ではPTAやその他の組織が新年度の役員を決める時期になっていた。PTA会長にはソフト部の部長をしていた柿崎が就任し、空席となったソフト部部長に奈津美が手を挙げた。他にやろうとする者も居なかったため、すんなり受け入れられた。
「あんまり無理をしないでね」
柿崎が奈津美にそう声を掛けて奈津美の肩をポンと叩いた。
「はい。私にも皆さんと同じように家庭がありますから。家族優先でやります」
「それでいいですよ」
柿崎は笑って頷いた。それから奈津美は柿崎に部長としての役割の引継ぎを要望した。ところが、柿崎は引き継ぐことなんて何もないと笑った。
「ソフト部の部長なんて何もやることがないから気楽にやってくれればいいよ」
柿崎はそう言って会議室を出て行った。奈津美は呆れた。けれど、逆にそれは奈津美にとってチャンスだとも思った。
新体制になって最初の練習日、奈津美はメンバーを集めて役割の分担を発表した。副部長には由幸、キャプテンには野球経験者で地区大会でも唯一やる気を見せていた宮下和也を指名した。そして、監督として修二に来てもらうことを由幸を通して伝えた。
「桐谷さんって、あの桐谷さんですか?」
新キャプテンの宮下が奈津美に尋ねて来た。
「これは高坂さんからの紹介なので、私はあまりその人のことを知らないんですけど、宮下さんは桐谷さんをご存じなんですか?」
「ウチのOBですよ。ある意味、レジェンドです。あの頃はよかったですよ。部員もたくさん居たし、チームも強かったですから。俺も桐谷さんのチームに入りたかったんですけど、家庭の事情で…」
奈津美は宮下から修二が居た頃のソフト部の話を色々と聞いた。それは今とはまるで違うチームのようだったのだと宮下は言う。それを聞いた奈津美は益々修二を味方にしたいと思ったし、修二が持つ人脈にも興味を抱いた。そして、修二が居れば自分が思った通りのチームを作れると確信した。
「桐谷さんは今日は来ないんですか?」
「一応、皆さんに了解を得てから、桐谷さんと同じチームに入っている高坂さんを通じて正式にお願いするつもりです」
「高坂さん、ウィーズに入ったの?」
「まあね。監督の件も俺から頼んで引き受けてもらうことになったんだ」
由幸は奈津美から頼まれたことは奈津美に口止めされていたため、いかにも自分の手柄だという風に自慢しながら話した。
修二の監督就任の件は宮下が歓迎の意を示したことで誰も反対するものはいなかった。それを受けて奈津美は敢えて、由幸に修二を練習が終わるまでにグランドに顔を出させるように依頼した。はたから見れば面倒な行動だけれど、奈津美が修二と親しいのだと思わせるのはこれから奈津美がやろうとしていることの邪魔になる。それは修二の存在が大きければ大きいほど慎重にやらなければならないことだった。そして、修二が自分で思っていたよりずっと大きな影響力を持っていることに奈津美は胸が躍った。
奈津美に監督の件を頼まれた日、一旦、返事を保留したものの利光に唆され修二は引き受ける気になっていた。そのことをすぐに奈津美にメールした。
『ありがとうございます。そのことでお話があるので、今からお会いできますか?』
修二はいつも二人で行くバーで奈津美と待ち合わせをした。
「高坂さんからお話があったと思いますが、この件はそう言うことにしておいてください。修二さんが私と親しくしていると、色々とやりにくくなるかも知れませんから」
「色々と?」
「はい。PTAって、男女の関係に関する噂話は何かと命取りになりかねませんから」
「なるほどね。僕もPTA会長の経験があるからよく解かるよ」
奈津美は修二との関係が他のメンバーに知られないようにするために、敢えて修二に念を押した。
由幸から連絡を受けた修二はPTAソフト部が練習を行っているグランドへ向かった。奈津美に言われたとおり、由幸に声を掛けてしばらく練習を見学した。練習が終わると、由幸がメンバーを集めた。そこで由幸が監督として修二を紹介した。奈津美はただそれを見守っているだけだった。