30.蒼井奈津美
店は空いていた。修二たちのほかに客は居なかった。マスターは修二のボトルと水割りのセットをカウンターに置くと、気を利かせて厨房の方へ引っ込んだ。
「私のことが嫌いになりましたか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「今日だって私のことで揉め事が起こってしまいました」
「それはみぃこが悪いわけではないよ」
「でも、周りの人たちは私がみんなを誘惑していると思っています」
「僕にもそう思われていると?」
「思いたくはないですけど…」
「でも、そうではないよね…」
修二は奈津美の言葉を遮るように話し始めた。
「たとえそうであったとしても、僕がみぃこのことを好きなのには変わらないよ。第一、みぃこは僕の奥さんでもなければ持ち物でもないわけだし。だから、みぃこがいつどこで何をしているのかなんて関係ない。僕と居るときに可愛いみぃこで居てくれれば僕はそれでいいよ」
「修二さん…」
奈津美には修二の気持ちが嬉しかった。修二はどんな自分も受け入れてくれると確信した。そして自分のためになら何でもしてくれるのではないかとも思った。
「あの…」
「どうしたの?」
「したいです」
「いいよ」
修二はマスターに声を掛けてカウンターの上に紙幣を数枚置いて席を立った。
「いこうか」
「はい」
終わってからお互いに見つめ合った。
『この人を離してはいけない。そのためなら…』
奈津美は修二の顔を見つめながら心の中でそう思った。
「そろそろ帰ろうか」
「はい。あの…」
「どうかした?」
「いえ、なんでもないです」
いつものように修二にタクシーで送ってもらい、帰宅すると、洋介がまだ起きていた。奈津美の姿を見ても何も言わず、まるで奈津美を避けるように書斎へ消えて行った。奈津美は子供たちの寝顔を確認してシャワーを浴びに行った。シャワーを浴びながら修二とのことを思い出していた。
翌朝、食事の支度をして書斎を覗くと洋介の姿は既に無かった。ため息とともにあきらめの表情を浮かべて子供たちを起こしに行った。
週末、PTAのソフトボール大会が行われた。結果は10チーム中最下位だった。寄せ集めのチームなのだから仕方がないと悔しがることもせずに笑っているメンバーに奈津美はがっかりした。同時にもっとソフトボールをやってみたいと思った。試合でも勝ちたいと思った。そのためにはどうするのがいいかを考えた。そして、一つの結論を導き出した。
「蒼井さん、来年もまたお願いしますね」
PTA本部の役員でソフト部の部長を任されている柿崎にそう声を掛けられた。
「あの…」
「どうかしましたか?」
「練習の時から不思議に思っていたんですけど、このチームには監督とか居ないんですか? 他のチームにはどこも居ますよね」
「あー、うちはそんなガチでやってるわけじゃないし、みんなが楽しければそれでいいんで」
「でも、試合で負けたら悔しくないですか? 勝ちたいと思ったことはないんですか? 私は今日、とても悔しかったです」
「そうは言ってもね…。監督なんてやってくれる人が居ないんですよ」
「それなら、私が知っている人にお願いしてもいいですか。そしたら、私も大会の時の人数合わせではなくてちゃんとした部員になりますから」
「それは別に構いませんけど、他のチームみたいに勝ちにこだわったやり方になるのは反対ですよ」
「大丈夫です。その人は楽しくやりながら強くしてくれる人ですから」
「そうですか? そう言うことならその件は蒼井さんにお任せしますけど、何か問題が起きたら責任を取ってもらいますよ」
「ありがとうございます」
奈津美は柿崎に礼を言うと、すぐに修二の連絡を入れた。
修二は利光と飲んでいた。そこへ奈津美から電話がかかってきた。
『今どちらですか?』
「ん? 利光と飲んでるけど」
『お願いがあるので今からお邪魔してもいいですか?』
「かまわないけど…」
修二が電話をしまうと、利光が尋ねた。
「だれ?」
「蒼井さん」
「なんだって?」
「お願いしたいことがあるから今から来るって」
「じゃあ、俺は居ない方がいいか?」
「いや、いいんじゃないか」
そうこうしているうちに奈津美がやって来た。修二が利光の隣に移って向かいの席に奈津美を座らせた。そして、早速、奈津美に用件を聞いた。
「お願いって?」
「PTAソフトの監督をやってもらえませんか?」
「えっ!」
修二は驚いて利光と顔を見合わせた。奈津美は今日の大会のことを二人に話して聞かせた。修二は一旦返事を保留して、取り敢えずその場はお開きにした。奈津美は何度も念を押して帰って行った。店を出て利光が修二に言った。
「やればいいじゃんか。そうすれば一緒に居られる時間が増えるじゃねえか。好きなんだろう? お前、なっちのことが」
修二は苦笑しながら利光の言葉を聞き流した。